今回は「ヨシュア」のことについて書いてみようと思います。ヨシュアはモーセのあと、
イスラエルを指導し、約束の地カナンに導きいれた人です(民数記27:18)。
彼はエフライム族のヌンの子でした(民数記13:8,16)。
世襲ではなく、信仰によって選ばれたのでしょう。
新約聖書からヨシュアのことを調べてみると、
幕屋を約束の地に運び入れた者として(使徒7:45)、
またイスラエルに安息を与えた者として(ヘブル4:8)、書かれています。
あとでそのポイントに絞って見てみたいと思いますが、
まずヨシュアの生涯を追ってみたいと思います。
最初に登場するのは、アマレクとの戦いのときです(出エジプト17:8〜16)。
アマレクがイスラエルに戦いを挑んできたとき、
モーセはヨシュアに命じてこれと戦うように言っています。
このときの戦勝の記録をヨシュアに読んで聞かせるよう、神様はモーセに命じていますから、
その登場の最初からすでに神様はヨシュアを後継者として選んでいたのでしょう。
次に出てくるのは、モーセがシナイ山で十戒を受け取ったときです。
そのとき「モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、
モーセは神の山に登った。」(出エジプト24:13)とあります。
このときすでにヨシュアは、モーセの従者という位置にいたことがわかります。
さらにその次に登場するのは、カナンの地を偵察するときです。パランの荒野から、
神様はモーセに命じてこれを探らせました。
そのとき12の各部族からひとりずつそのかしらが遣わされましたが、
エフライム族からはヨシュアが遣わされました(民数記13:16)。
そしてカナンの土地や住民を探らせ、その地のくだものを持ち帰らせました。
そのときの12人の報告は「私たちは、
あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。
そしてこれがそこのくだものです。しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、
非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、
海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」(民数記13:27〜29)でした。
すなわちいいところだけれども、強そうな民が住んでいてとても勝ち取ることはできそうもない、
ということでした。けれどもそのうちの二人だけは、違う報告をしました。
「私たちが巡り歩いて探った地は、
すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、
私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。
あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。
その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。
彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。
彼らを恐れてはならない。」(民数記14:7〜9)
これを言ったのは、ヨシュアとカレブでした。
彼らは確かにその地は神様が約束されたようによい地だった。
だから神様の約束のように我々はこれを勝ち取ることができるのだから勇気をもって進もう、
ということでした。
彼らは目の前の困難よりも信仰によって神様の約束をしっかりと心にとめていたのです。
けれどもイスラエルの民衆は、この二人を殺そうとします。そこで神様はその不信仰に怒り、
イスラエルを滅ぼしモーセの子孫によって神の民を起こそうといわれます(民数記14:11,12)。
しかしこのときはモーセのとりなしによって怒りをおさめられますが(民数記14:13〜20)、
その背信の罪を刈り取って、ヨシュアとカレブを除くその世代の人たちが死に絶えるまでは
約束の地カナンにははいることができず、荒野を40年間さすらうことになる、と宣言されます。
またカナンの地を悪く言いふらしたものたちは疫病で死にました(民数記14:28〜38)。
このときカナンの地に南側から入っていれば、
この後の40年間はなくてもよかったかもしれませんが、
荒野での経験はイスラエルの民にとって必要な経験であったようです。
40年の荒野の旅路が終わりに近づいてきたとき、神様はモーセに命じて、
ヨシュアを後継者として、大祭司エルアザルとイスラエル人の全会衆の前で按手して、命させました。このとき神様はヨシュアについて、「神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュア」といっております
(民数記27:18〜23)。
そしてモーセからヨシュアへのバトンタッチが行われます(申命記31:1〜23)。
神様はヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ。
あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。
わたしが、あなたとともにいる。」(申命記31:23)と励まされます。
この後モーセは120歳で、ヨルダンのかなたにカナンの地を見て死にます。
いよいよヨシュアの時代になります。ヨシュアの使命は先に神様が宣言されたように、
イスラエルをカナンに導きいれることです。神様の命令により、
ヨシュアは即座に行動に移します。まず3日間でヨルダン川を渡る準備を指示します
(ヨシュア記1:10,11)。ヨルダン川の東にとどまる2部族半にも、
他の部族とカナンの地を征服する戦いに出るよう指示をします(ヨシュア記1:12〜18)。
エリコの町を攻略するために2人の斥候を送ります(ヨシュア記2:1)。
そして準備が整うと、契約の箱を先頭にヨルダン川を渡ります(ヨシュア記3:1〜6)。
それからすべての民に割礼を施します(ヨシュア記7:2〜9)。
傷がいえたところでエリコを攻撃します。神様は実に不思議な方法で、
城壁によって囲まれた町エリコを攻略するよう仰せられました。
それは「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。
町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、
箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない
。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、
民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、
民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」(ヨシュア記6:3〜5)
というものでした。そしてそのとおりになったのです。
続いてアイを攻め落とします(ヨシュア記8:24〜29)>。それからエバル山に祭壇を築き、
イスラエルの民に律法を読み聞かせるのです(ヨシュア記8:30〜35)。
その後もカナンの先住民族を攻め、老年になるまでに、先のエリコやアイを含め
31の地の王を討ち取るのです(ヨシュア記12:7〜24)。
そしてその攻め取ったカナンの地をイスラエル12部族に分配します(ヨシュア記13〜19章)。
このヨシュアも年老いて、イスラエル全部族をシェケムに集めて、
決別の説教をします(ヨシュア記24:1〜28)。
そして110歳で死ぬのです(ヨシュア記24:29)。これがヨシュアの生涯です。
さてここで、一番最初に見ましたヨシュアについての新約聖書の称号をもう一度見てみましょう。
「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、
神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、
神の民のためにまだ残っているのです。」(ヘブル4:8,9)
厳密にもう一度読んでみますと、ヨシュアはイスラエルをカナンに導きいれたことによって、
彼らに安息を与えたかと思うとそうではなく、本当の人の安息は別にあるというのです。
神様が与えようという本当の安息はこのようなものです。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、
以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。・・・私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、
夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:1.3,4)
完全な安息です。イエス様によって贖われた者に約束されている永遠の安息です。
実際イスラエルはカナンに入ってもそこにいる先住民族を打ち破らなければなりませんでした。
戦いがあったのです。エリコでの戦い、
アイとの戦いなど実に31人の王を打ち破らなければなりませんでした。
それでも完全に排除することはできませんでした。
それに対してイエス様によって与えられる安息のための戦いはもうすでに終わっているのです。
天国に行ってからなお安息を勝ち取るために戦う必要はありません。
イエス様は十字架の上で最後に「完了した。」
(ヨハネ19:30)と言われました。人生の最後に人はなんと言うだろうか、考えてみますと、
よくドラマなどで見るのは「ありがとう」と言うことばです。
またある人は「終わった」と言うかもしれません。それは人生の単に終わりを言うのでしょう。
けれどもイエス様の言われた「完了した。」
というのは少し違うようです。それはある目的を成し遂げたと言う表現でしょう。
どんな目的でしょうか。それはわたしたちに永遠の安息を与えるということではなかったでしょうか。
もちろんそれだけではありません。私たちの神様の御前における罪を赦し、神様と和解させ、
神の子という立場に引き上げ、天の御国の相続者とされました。そのための戦いが今、
十字架の上で「完了した。」と言うのです。
イエス様は永遠の安息に私たちを導きいれてくださいます。
私たちはそのための戦いはもはやする必要がないのです。喜んでそれを受け入れることこそ、
その戦いを戦い抜いてくださったイエス様が喜ばれることではないでしょうか。