まずヨセフの立場を確認したいと思います。ヨセフは男12人兄弟の下から2番目、
父ヤコブの4人の妻の中で、ヤコブが愛したラケルから生まれたふたりのうちのひとりでした。
それゆえ、父ヤコブの寵愛を一身に受け、兄弟たちの憎しみを買いました(37:2〜4)。
また父ヤコブや兄弟たちがヨセフにひれ伏す夢を語ったためにますます憎しみを買うようになりました
(37:5〜11)。これがヨセフと兄弟たちとの関係でした。
兄弟たちは、あるときヨセフを殺そうとたくらみ、穴に投げ込んでしまいます。
そして食事をするのです。犯罪を犯すときは精神がマヒ状態になるのでしょうか。
このときはたまたまイシュマエル人の隊商がそこを通りかかったので、殺すよりも売り飛ばす方がよい、
ということになり、銀20枚で奴隷として売ってしまいます。(37:18〜30)
兄弟たちは、ヨセフがいなくなったことを父ヤコブに報告しなければなりません。
完全犯罪を完成させなければなりません。ヨセフからはぎ取った長服を、雄やぎを殺してその血に浸し、
父に見せます。ヤコブはそれを見て、ヨセフは獣にかみ殺されたと承知しました。
お父さんはどれほど悲しんだでしょうか。慰められることを拒んで、死を望んだ程でした。
兄弟たちはお父さんの気持ちを考えないで、
ただひたすら自分たちの憎しみを果たすことだけしか考えられませんでした(37:31〜35)。
こうして犯罪は完成しました。兄弟たちの悪巧みは一応うまくいき、
ヨセフのことは20年間忘れられていました。
時は流れ、別の事柄が兄弟たちヤコブの家族を襲います。それは飢饉でした。
ヤコブの家族だけでなく、全世界が飢饉にみまわれていました。けれどもエジプトだけが、
奴隷から引き上げられパロ王のもと、宰相として手腕をふるっていたヨセフの働きにより
穀物が豊かにありました。それはヨセフの説き明かしたパロ王の夢に神様が啓示されたことに基づいて
政治を行ったからでした。
ヤコブはエジプトに穀物があることを聞いて、ヨセフの弟ベニヤミンを除く10人の子どもたちを
買い出しのために遣わします。(41:57〜42:6)
穀物を得て助かる道はエジプトのヨセフのところへ行くしかありませんでした。
私たちも真の救いを得るためにはキリストのもとに行かなければなりません。「
この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、
人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
兄弟たちはエジプトの宰相ヨセフのもとにやってきます。しかしあくまでも穀物を得るためであって、
自分たちが接見を求めて伏し拝んだ相手が弟ヨセフであることも、
かつての罪の自覚ももちろん持っていませんでした。
キリストのもとにやってくる多くの人も残念ながら罪の自覚を持っていないのです。(42:6)
そのような兄弟たちに対してヨセフは荒々しいことばで臨みます。
それはかつての罪の問題の真相を明らかにし、罪の意識を目覚めさせる必要があったからでした。けれども兄弟たちの言い分は「私たちは正直者でございます」でした。
知らないとはいえ、殺そうとし、奴隷に売った本人に対してよくもぬけぬけと言えたものです。
人々も神様に背を向けて歩いていながら、自分は正直者だと主張し、
死後にさばかれるなんて発想はまったくありません。(42:7〜11)
兄弟たちに対してヨセフは「間者(スパイ)
だ」と決めてかかった態度をとります。
追いつめられる兄弟たちは、一生懸命自分たちの身の上を明らかにしようとします。
ついにはヨセフから「ひとりが行って末の弟を連れてこない限り、帰らせない」と言われ、
監禁されてしまいます。神様は罪の自覚を持ち始めたものに対してますますいろいろな罪を示されます。
そして神様に赦されなければならないという自覚を与えられます。(42:12〜17)
監禁3日目にして、兄弟たちはヨセフから、末の弟を連れてくるまで人質をおいていくなら、
出してやると言われます。兄弟たちは今の苦しみの原因をいろいろ探り、
かつての弟ヨセフに対する罪を思い出して、それが原因だと後悔します。
いわゆる因果応報的な考え方です。けれどもこれは自分は納得しても
神への悔い改めに至らない考え方です。宗教はこの考え方に立脚するものが多いと思います。
(42:18〜22)
このようにして兄弟たちはシメオンをおいて解放され、帰りの旅路につきます。
けれども帰路の途中、宿泊所でろばに飼料をやるために袋を開けるとそこに銀を見つけます。
わけも分からずまた、疑いを受ける種ができてしまったことを恐れながら、
父ヤコブの元に帰っていきます。兄弟たちは苦しみから解放されたのもつかの間、
また困難に遭遇して神様のお取り扱いに疑念を持ちます。
キリストに出会って何とはなしに当面の救いを感じたように思われるとき、
また次から次へと罪が思い出されるとき、神様のお取り扱いに疑念を持つときがあるでしょう。
(42:24〜28)
とにもかくにもシメオンをエジプトにおいてきたとはいえ、穀物が確保され、
ヤコブの家族はしばらくの間、飢えを凌ぐことができました。
しかしその地の飢饉はひどくその穀物もやがて底をついてしまいます。
もう一度エジプトに行かなければなりません。けれども問題は今度行くためには
どうしてもベニヤミンを連れていかなければならないのです。
ユダがベニヤミンを連れ帰ることをヤコブに保証します。
エジプトへ行けばあの宰相にもう一度会うことになりますから、
少しでも誤解や疑いを解く手だてを考えなければなりません。
そこでヤコブは出かけていく兄弟たちにアドバイスをします。カナンの地の産物を持って行きなさい、
と言います。かつてカインは自分の汗の結晶である地の産物を持って
神様の御前に出て礼拝をしようとしました。神様はアベルのささげものを受けられましたが、
カインのささげものは省みられませんでした。人は神様に近づこうとするとき、
よい行いや献金などによって近づこうとします。
しかし神様はそのようなものを望まれてはいません。(43:1〜15)
こうして兄弟たちはベニヤミンを連れてエジプトに下ります。すると宰相の家に案内され、
理由がわからないまま食事にあずかることになります。置かれている立場がわからないまま、
また自分たちの罪の解決を放置したまま、振る舞われた酒にすべてのことを忘れて酔うのです。
罪を忘れることと、罪が完全に解決されることはまったく違うことです。(43:16、34)
こうして時を過ごした後、食料を得て兄弟たちは、宰相の家を後にします。
しかしまもなく宰相の家の管理者が後を追ってきて、「
宰相の銀の杯がなくなった。なぜ善に対して悪をもって報いるのか」と詰め寄られます。
もちろんこれはヨセフがベニヤミンの袋の中にしのばせたことによるのですが、
そんなことは兄弟たちには想像もつきません。ただただ兄弟たちの心はひどく打ちのめされ、
ユダは一連のことをとおして神様がかつての罪を今、暴かれたのだと観念して、
罪の罰に服することを言い表します。これが罪の自覚です。罪を自覚したとき、
自分の証を守ろうとする試みをしなくなります。素直に罪を認めるようになります。
(44:1〜16)
「杯が見つかったものだけは奴隷とならなければならない」
という宰相に対して、ユダは、父ヤコブのベニヤミンを失ったときの落ち込みを思い、
ヤコブにベニヤミンの無事の帰還を約束してきたことから
自分が身代わりとなって奴隷となってとどめてほしい、と宰相に必死に懇願します。
(44:17〜34)この言葉を聞いたとき、宰相であるヨセフは、
自分が誰であるかを初めて明らかにします。「私はヨセフです。
」このときの兄弟たちの驚きはどれほどのものであったでしょうか。声が出ませんでした。
かつての罪のために、命を取られるか、ひどい仕打ちに会わされるか、極度に混乱していました。
(45:1〜3)
ここから兄弟たちが変わります。
混乱している兄弟たちに、長い間兄弟たちには忘れ去られていたヨセフが自分を証しし、
やさしく声をかけます。「
私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、
怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、
私を遣わしてくださったのです。・・・それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。
・・・だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。
神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」
そして父ヤコブの全家族ともエジプトに下りゴシェンの地に住むように勧めるのです。
ヨセフは兄弟たちのしたことすべてを承知の上で赦し、自分が養おうというのです。
(45:4〜15)あたかもよみがえったようなヨセフの前に、兄弟たちは隠せるものは何もありません。
このとき兄弟たちは変わるのです。
サウロ(後のパウロ)は、ダマスコへの途上で主イエス様から声をかけられます。
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」
サウロは「主よ。あなたは、どなたですか。」と尋ねると、
「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」
と答えがありました。(使徒9:3〜5)当時サウロはクリスチャンを迫害しておりましたが、
天からの光の中によみがえりのイエス様にお会いして、サウロは変わりました。
イエス様の救いを宣べ伝える者になったのです。(26:12〜18)
真の悔い改めはよみがえった主イエス様、
私たちのすべてをご存じである主イエス様を啓示されたときになされるのでしょう。
神様は私たちのすぐそば近くにおられます。私たちの罪もよくご存じです。たちは自分を神様の御前に義とするものは何も持っていません。にもかかわらず神様はやさしく声をかけてくださっています。直にその呼びかけに答えるときすべての解決が始まります。
イエス様は声をかけられておられます。「すべて、疲れた人、
重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
ここで大きなポイントは、死んだはずなのに生きていた、
兄弟たちにとってはよみがえったヨセフに会ったことです。
多くの人にとってはイエス・キリストは十字架に死んだ人です。
よみがえったキリストに会わなければなりません。そのとき、「
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、
見よ、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5:17)ということを経験いたします。
いちじくの木のたとえ(ルカ13:6〜7)があります。農園の主人が実を取りに来ましたが、
実はなっていませんでした。それは木そのものが悪いものだからでした。
そのため木を切ってしまって実を実らせる新しい木を植えようとします。
神様も同様に罪という毒によってまったく神様のために
実を結ばなくなってしまった人間を切り倒して、新しい木を植える計画を立てられました。
聖書的に理解すると、切り倒された木は私たちの古い性質です。
それはイエス様が十字架にかかって死んでくださったことにより、
すべての人間はキリストとともに死んだことを示します。そして新しく植えられた木とは、
イエス様が死者の中からよみがえったとき、キリストにある者はイエス様とともに
新しいいのちによみがえったことを示します。
ヨセフがエジプトに売られなかったら、飢饉で多くの人が死んだでしょう。
イエス様が死んでよみがえらなかったらすべての人は自分の罪のために
死ななければならなかったでしょう。仮にイエス様が肉のからだをもって永遠に地上におられても
私たちの罪は解決されることがなく永遠に実を結ばないものにしかすぎませんでした。
ですからイエス様はどうしても死んで、死者の中から最初によみがえらなければなりませんでした。
そうでなければすべての人が死ななければならないのです。
どのようなものも罪の贖いとなることはできません。
ただイエス様の尊い血のみが私たちを贖うことができるのです。
どのようなものも死人にいのちを与えることはできません。
ただよみがえりのイエス様だけがいのちを与えることができるのです。
ヨセフはエジプトの支配者としてよみがえりました。
すべての恵みはこのヨセフから出ておりました。(45:15)ヨセフの兄弟たちは赦されたのです。
(46:34)
私たちもイエス様によって罪を赦されなければなりません。
またよみがえったイエス様によって生かされ、約束された祝福を受け継ぐべきであります。