今回は「ヨセフ」のことについて書きたいと思います。創世記最後の主役です。30,37,
39〜50章に登場します。ヨセフはイエス様のひな型として覚えられる人物です。
5つの観点からその特徴をみたいと思います。
聖書の中にたいへん多くの信仰の勇者を見ることができます。
けれども肉の弱さからくる不信仰もまた見ることがありました。あの「
信仰の父」(ローマ4:16)といわれるアブラハムでさえ、ききんのため、
エジプトに下ったとき(12:10〜20)と、ゲラルに滞在したとき(20:1〜18)に、
妻のサラを妹だと偽る失敗を致しました。自分が殺されることのないように、そうしたのです。
モーセは「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」
(民数記12:3)といわれた人でありましたが、イスラエルの民の度重なる不信仰に怒り、
つい神様のことばのとおりでなく、うっかり岩を打ってしまうのです。(民数記20:2〜13)
この失敗によりモーセは約束の地カナンに入る特権を失ってしまいました(20:12)。
偉大な信仰者であっても完全ではありませんでしたが、ことヨセフに関しては、
人として一点の汚点も残さず生涯をまっとうしているのです。
ヨセフの特徴その1は、知恵に満ちた人であったということです。「
モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ」(使徒7:22)ましたが、
ヨセフはモーセのように、エジプトの学問を学ぶことはありませんでした。
しかし、ヨセフはエジプトのパロの廷臣で侍従長のポティファルの家と全財産をゆだねられました
(39:1〜6)。監獄に入れられたときも、監獄の長は、
監獄にいるすべての囚人をヨセフにゆだねるのです(39:20〜23)。
監獄に監禁されていたエジプト王の献酌官と調理官が見た夢を説き明かします(40:5〜22)。
さらにエジプトのすべての呪法師とすべての知恵あるものが説き明かすことのできなかった
エジプト王パロの夢を説き明かすのです。夢を説き明かしただけでなく、
夢をとおして示された7年間の飢饉に対する備えをも進言するのです(41:1〜36)。
ヨセフの知恵は学んで得たものではなく、神様からのものでした。
ヨセフが仕えた人々と環境の中で、神様がいつもヨセフとともにおられ、彼に知恵を与え、
彼がすることをすべてを成功させてくださいました。キリストについてはこのように書かれています。
「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
」(コロサイ2:3)私たちもこのキリストから知恵を得ることが必要です。
次にヨセフの特徴その2としてあげられるのは患難に生きた人であった、ということです。
ヨセフは苦しみの人でした。イエス様もそうです。ヨセフの父ヤコブが受けた苦しみは、
その名の意味の示すとおり、ヤコブ(意:押しのける者)からイスラエル(意:神とともに支配する者)
に変えられるために、すなわちその肉の性質を矯正するために、
神様から与えられた懲戒の鞭でした。
しかしヨセフはつねに人の罪を自分の身に負って、苦しみを受けました。ヨセフの兄たちは、
ヨセフが父ヤコブに愛されるのを見てねたみました(37:4〜11)。彼らのねたみは、
ヨセフを殺したいという思いにまで達し、ミデヤン人の商人に銀20枚で売られてしまうのです
(37:12〜28)。またエジプトの侍従長ポティファルの妻は、
美男子であったヨセフに言い寄りましたが、ヨセフに受け入れられないとわかると、ヨセフを陥れ、
監獄に入れてしまいます。
ヨセフの苦しみは、その正しさのゆえに、人の罪をその身に負うことによって受けたものでした。
彼は不当な取り扱いに対して何一つ反抗することなく、苦しみを受けました。彼は迫害されましたが、
そのためにその性格が曲がることはなく、その品性は神様のしもべにふさわしく整えられていきました。
キリストについてはこのように書かれています。「
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、・・・」
(ヘブル5:8)
ヨセフの特徴その3は、聖さに生きた人であったということです。
父ヤコブは4人の妻をもちますが、ヨセフは生涯、ひとりの妻アセナテと生活しました。
先に触れましたがエジプトの侍従長ポティファルの妻は何度も何度もヨセフを誘惑しましたが、
ヨセフは罪との関わりを断固として拒みました(39:7〜10)。たとえ自分が失うものがあっても、
また不当な処分を受けることになっても、罪の誘惑となるものから離れ、神様のしもべにふさわしく、
聖さを選択いたしました。
ヨセフの基準はいつでも「人」ではなく「神」でした。いつでも神様を見上げ、
神様の命令のうちに歩み、罪の誘惑に負けることなく、罪から離れた歩みをしました。
キリストについてはこのように書かれています。「
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、
ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」
(Tペテロ2:22〜24)
ヨセフの特徴その4は、愛に生きた人であったということです。
ヨセフは生涯変わらぬ愛を貫き通した人でした。ヤコブの年寄り子として生まれたヨセフは、
兄たちの策略によって、17歳のとき父のもとから離されました(37:2)。30歳になったとき、
エジプト王パロからエジプト全土を支配する権威を与えられました(41:46)。
その間、家族との交わりは途絶え、孤独のうちに多くの苦難を経験しました。
しかしカナンに住む家族への思いは揺らぐことはありませんでした。
ヨセフに子どもが生まれたとき、長子にはマナセという名前が付けられました。
その意味は「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた。」で、
エジプトでパロに継ぐ地位についてもなおカナンの家族への思いは変わりませんでした
(41:50,51)。
また飢饉のためカナンからエジプトのヨセフのもとにやってきた兄弟たちと面会したとき、
兄弟たちに対する愛にあふれていました。「ヨセフは彼らから離れて、
泣いた。」(42:24)とあります。
そして、同じ母ラケルから生まれた弟ベニヤミンを見たときも、
感情を抑えることができないで泣きました。「
ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋にはいって行って、
そこで泣いた。」(43:30)とあります。
ヨセフは優しい人でした。彼の心は家族を愛する愛で満ちていました。
ユダがベニヤミンの代わりに残るから、
ベニヤミンを特に心配している父ヤコブのもとに返してやってくれと言う、ユダのことばを聞いて、
ヨセフは声を上げて泣きます。「ヨセフは、
そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、
「みなを、私のところから出しなさい。」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、
彼のそばに立っている者はだれもいなかった。しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、
エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。」(45:1,2)
ヨセフは兄弟たちに、自分が兄弟たちによって売られたヨセフであることを明らかにしたとき、
兄弟たちは驚きのあまり答えることができませんでした。
しかしヨセフは兄弟たちに自分にしたことについて心を痛めないよう語り、
今日までの神様のお取り扱いを語りました。そして弟ベニヤミンの首を抱いて泣き、
すべての兄弟に口づけして、抱いて泣きました(45:3〜15)。
ヨセフは兄弟たちの自分に対してしたことに関わりなく、変わらない愛をもっていました。
そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。
」(46:29)
パロ王の次に権力を持つヨセフは、エジプト人が忌み嫌う職業である羊飼いを職業とする家族を少しも
恥じることなく、彼らを迎えました。(46:31〜34)
ヨセフは生涯、家族を愛した人でした。兄弟たちはヨセフにひどいことをしましたが、
ヨセフは父や兄弟たちのことを忘れることはありませんでした。
その愛は変わることがありませんでした。
キリストについてはこのように書かれています。「
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、
進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:6〜8)
ヨセフの特徴その5は、信仰に生きた人であったということです。信仰の勇者の記事に、
ヨセフについてはこのように記されています。「信仰によって、
ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。」
(ヘブル11:22)
ヨセフの勝利の生涯の土台は、その信仰にありました。
ヨセフが逆境の中にあってもなお忍耐と従順をもって勝利することができたのは、
つねに彼とともにおられ、導いておられた神様を信じ、神様にゆだねる信仰の生活をしたからでした。
彼は夢の中で示された神様の約束を信じ、ふりかかるすべての苦難の中にあっても歩みとおすことが
できました。ヨセフは、神様がアブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった約束を忘れませんでした。
ヨセフの遺言にそのことがはっきりと語られています。「
私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、
この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」(50:24)
カナンの地こそイスラエル民族が住むべき地であることを固く信じていたのです。
エジプトで成功し、地位と名誉と財産を受け、何不自由なく生活できたヨセフでしたが、
彼の心は、神様の約束を信じる信仰で満たされていました。それゆえヨセフは、
イスラエルの民がやがて約束の地に帰ることを預言し、自分の遺骸を携え上っていくことを指図しました。
「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、
そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください。」(50:25)
ヨセフの遺骸は、イスラエルの民の中にあって、彼らには帰るべき約束の地があることを語り続けました。
彼の遺骸はイスラエルの子孫に語り、彼らを約束の地に導いていきました。
モーセによってエジプトを脱出したイスラエルの民は、ヨセフの遺言どおり、
ヨセフの遺骸を携えてエジプトを出発します。「
モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。」(出エジプト13:19)
ヨセフの遺骸は荒野の生活にあって、つねに彼らとともにあり、
ヨシュアがカナンの地をことごとく占領し、各部族がその嗣業の地を受け、神様の約束が成就して、
ヨセフの遺骸はシェケムの地に葬られました。(ヨシュア24:32)ヨセフの信仰は約400年間、
イスラエルの民の中に生き、語り続けたのです。
ヨセフの品性は、患難の中にあっても、神様を第一とし、神様に信頼し、
神様の約束から目を離さなかった歩みの中で備えられたものでした。わたしたちの主イエス様も、
神様でありながら、人となって多くの苦しみの上で、私たちへの愛を示してくださり、
救いの道を用意してくださいました。ヨセフの兄弟たちは罪を示され、
そして愛し赦されていることのさいわいを知りました。