さて、今回は「友」ということを考えながら、
ダビデの友であった「ヨナタン」のことを書いてみたいと思います。
改めて「友だち」とはどのようなものか、と考えて聖書の記事を見てみると、
イエス様のたとえ話の中にその答えがありました。ルカの福音書の15章には、
失われていたものが回復した3つのイエス様がなさったたとえ話が記されています。
ひとつめは、100匹のうちの1匹の羊がいなくなり、見つかったとき、その羊の持ち主は、
友だちや近所の人を集めて「一緒に喜んでください」
と言うというのです。
ふたつめは10枚の銀貨のうちの1枚をなくした女性が、それを見つけたとき、
やはり友だちや近所の女たちを呼んで
「一緒に喜んでください」と言うというのです。
そして3番目は、ふたり息子のうちの弟のほうが父から離れて放蕩に身をもちくずした末、
悔改めて帰ってくるという話ですが、お父さんが息子が帰ってきたと祝宴を挙げると、
兄息子のほうが怒って「お父さんはぼくのために、友だちと楽しめと言って
子山羊1匹くれたことがない」と言います。神様からはなれた人間が
神様のもとに帰ってくることをどれほど神様が望んでいるか教えられる話ですが、
いずれの話にも友達が登場します。そしてその友達は「喜び、楽しみを分かち合うもの」
であるようです。
友だちでも、いろいろな友だちがあるようです。薄情な友達もいます。
イエス様が「求め続けるべきであること」を教えられたたとえ話の中に登場する友だちは
こんな人です。真夜中にパンを貸してくれ、といってきた友だちのためには、
「友だちだからということで
起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、
そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」(ルカ11:8)
希薄な友人関係ですね。
逆に、イエス様が非常に深い友人関係について語られた記事もあります。
「人がその友のために
いのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
(ヨハネ15:13) そして弟子たちに「わたしは
あなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、
あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:15)と語られました。
イエス様は十字架の上で私たちの贖いのため、いのちを捨ててくださいました。
イエス様は親しかった死んだラザロのところへ行くとき
「わたしたちの友ラザロ
は眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
(ヨハネ11:11)と言われました。しかしイエス様を裏切り捕らえに来た
イスカリオテのユダに対しても、悔改めを促すように「友よ。
何のために来たのですか。」(マタイ26:50)と言われました。
イエス様はこのような御方です。
いよいよ、ヨナタンのことを書きたいと思います。ダビデのもとに
ヨナタンが戦死したことが知らされたとき、ダビデは
「私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、
あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。」(Uサムエル1:26)
と哀歌を歌います。その友情は大変厚いものでした。このことを踏まえ、
ヨナタンの生涯を追ってみましょう。
そもそもヨナタンはイスラエルの初代国王サウルの子です。
王位継承権第1位にある人でした。とはいってもお城の中で
ぬくぬくとしているわけにはいかない、常に外敵との絶え間のない戦いを先頭に立って
戦い抜いていかなければならない、そういうきびしい立場にありました。
ヨナタンが最初に登場するのもペリシテとの戦いの場面です(Tサムエル13章)。
そしてヨナタンはいつでも先頭にたって戦っていたようです(Tサムエル14章)。
あるときサウル王の愚かな誓いのために、命を奪われそうになったとき、
民がヨナタンを弁護しその命を助けた記事があります。人望があったのでしょう(14:45)。
信仰もありました。この戦いの初めはヨナタンが
道具持ちとふたりで敵陣に討ち入ったことに始まりました。
ヨナタンは「さあ、あの割礼を受けていない者どもの
先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。
大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに
妨げとなるものは何もない。」(14:6)と討ち入ったのです。
このときのヨナタンの年齢はサウルの年齢から考えて
まだ10代の少年ではなかったかと思います(13:1)。
時がたちヨナタンも成長したころ、ペリシテとの戦いでヒーローが誕生します。
羊飼いの少年ダビデがペリシテの巨人ゴリアテとの一騎討ちで
石投げの石を見事に額に命中させて倒すのです(17:49)。
ダビデはサウル王に報告に参ります。そのサウル王と
ダビデの語り合うのを聞いていたヨナタンはすっかりダビデに魅了されてしまいます。
このときヨナタンはイスラエルの王子、ダビデは一介の羊飼いの少年です。
年齢も違います。「ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。
ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。」(18:1) ダビデの何が、
ヨナタンをこれほどまでにひきつけたのでしょうか。
ダビデはゴリアテとの戦いのとき「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。
この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」(17:46,47)
と叫んで巨人に立ち向かうのです。ダビデはサウル王にこのことも含め
そのまま報告したでしょう。その信仰がヨナタンを魅了したのではないでしょうか。
そして「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、
ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、
自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」(18:3,4)
これがダビデとヨナタンの出会いでした。
「サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、
その者をみな、召しかかえた。」(14:52) ダビデもご多分に漏れず、
すぐにサウルに召しかかえられます(18:2)。ダビデは戦果をあげ、女たちは
「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」(18:7)
と賞賛します。サウルはこれをねたみ、ダビデを恐れるようになります(18:29)。
そしてそれは殺意になっていきます。「サウルは、
ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。」(19:1)
ヨナタンはこれを聞いて、ダビデに身を隠すように告げ、そして自らは父サウル王に
ダビデについて罪を犯さないよう進言します。サウルはヨナタンの言うことを聞き入れ、
再びダビデはサウルに仕えるようになります(19:2〜7)。けれどもそれもつかの間、
再びサウルはダビデのいのちを狙うようになります。
あるとき、ダビデはヨナタンのもとに来て相談します。
「サウルのもとにいて仕えていたのではいつか殺されてしまう。
サウル王の殺意が本物であれば、いよいよ身を隠すしかない。
ヨナタンに真意を確かめてほしい」というのです。
これはヨナタンにとってもいのちがけの確認作業です。
事実ヨナタンはこれを引き受けるにあたって「もし、
私が生きながらえておれば、主の恵みを私に施してください。たとい、
私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに
私の家から断たないでください。」と言っています。脱線しますが、
ヨナタンはダビデが油注がれたもの、次のイスラエルの王であることを知っていました。
今ダビデのいのちが危険にさらされていてもダビデは生き長らえると考えていたようです。
むしろ自分こそ先に死ぬことになると考えていたと思われます。
「ヨナタンは自分を愛するほどに、
ダビデを愛していた」のです(20:1〜17)。実際これはヨナタンにとって
いのちがけのことになります。ダビデを擁護するヨナタンの態度に怒りを燃やしたサウルは、
ヨナタンとその母をののしり、そしてヨナタンに槍を投げつけて殺そうとします
(20:30〜34)。ヨナタンはダビデに知らせます。
「ふたりは口づけして、抱き合って泣き、
ダビデはいっそう激しく泣いた。」(20:41)とあります。
こうしてヨナタンは父サウル王のもとにとどまり、ダビデは立ち去ります。
ダビデはひとりになってしまいます(21:1)が、その後アドラムのほら穴にいるとき、
兄弟たちや今の生活に不満のあるものたちが集まってきて、
ダビデにつき従う者が400人あまりになります(22:1,2)。
それもまたすぐ600人になります(23:13)。
サウルの近くにいるといつ殺されるかわからないためサウルから遠ざかったダビデでしたが、
執拗なサウルはダビデの居場所がわかると討伐に出ます。
そんな時ジフの荒野にいたダビデをヨナタンが訪ね力づけます。
「恐れることはありません。
私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、
イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、
そうなることを確かに知っているのです。」(23:17)
このときも神様のダビデに対する約束をはっきりとダビデに思い出させるヨナタンでした。
この後もサウルは執拗にダビデを追います。けれどもヨナタンと
ダビデが出会ったのは少なくとも聖書の中ではこのときが最後でした。
ヨナタンはサウルとともにペリシテとのギルボア山での戦いで死にます。
ヨナタンはダビデとの友情を確かめながらも、けっしてダビデと行動をともにすることは
ありませんでした。神様がサウルを退けていることを承知していながら、
サウルと行動をともにするのです。これは子として
父に従う姿勢を崩すことのなかったヨナタンの立派な人格を物語ることであると思います。
主イエス様も30歳になるまで、父ヨセフと家族に仕えていたことを思い出します。
サウルとヨナタンの訃報はまもなくダビデに届きます。ダビデは泣き、断食し、
そしてサウルとヨナタンのため哀歌を作ります。その最後に、
先に記したヨナタンの友情を歌う一節が出でまいります。
「ヨナタンの弓は、退いたことがなく、
サウルの剣は、むなしく帰ったことがなかった。サウルもヨナタンも、愛される、
りっぱな人だった。生きているときにも、死ぬときにも離れることなく、わしよりも速く、
雄獅子よりも強かった。イスラエルの娘らよ。サウルのために泣け。
サウルは紅の薄絹をおまえたちにまとわせ、おまえたちの装いに金の飾りをつけてくれた。
ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはおまえの高き所で殺された。
あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、
あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。ああ、
勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた。」(Uサムエル1:22〜27)
ヨナタンが生きている間、ダビデとヨナタンの友情はもっぱら、
ヨナタンがダビデを保護するという傾向があったと思います。
それはヨナタンに「ダビデは神様によって油注がれもの、
すなわち次のイスラエルの王」という、神様に対する敬虔な信仰があったから
自分よりもダビデを優先することができたからでしょう。
サウルとヨナタンの死後、ダビデは、政権交代に伴う混乱を平定し(2:8〜4:12)、
イスラエル全土の王として承認され(5:3)、
ダビデの町(シオンの要害、エルサレムの一部)を整備し、王宮を建てます(5:7〜11)。
さらに「神の箱」をダビデの町に迎え(6:17)、近隣の諸国、西のペリシテ、東のモアブ、
北のアラム、南のエドムを屈服させ、
しもべとしてみつぎものを納めるようにいたします(8:1〜14)。
こうして王国が磐石になると、ダビデは長年気にかかっていたひとつのことをしたい、
と考えました。そして尋ねます。「サウルの家の者で、
まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」
(9:1) ヨナタンの友情に応えたいとダビデは思っていました。
しかしダビデもこのとき尋ねたように、サウルの家系に属するものはイシュ・ボシェテを初め、
政権交代の内紛の中で敵対者として粛清されていきましたから、
生き残っているものはないのではないかと思われました。
仮にいたとしても殺されるために引き出されることを恐れて誰にもわからないよう
隠れて生活しているでしょうから、見つかるとは思えないことでした。
それでもダビデはヨナタンの友情に今こそ応えたいと思って尋ねました。
そして知らされます。「まだ、
ヨナタンの子で足の不自由な方がおられます。」(9:3)
このときメフィボシェテはすでに成人して子どももいましたが、
「その子(メフィボシェテ)は、
サウルとヨナタンの悲報がイズレエルからもたらされたとき五歳であった。
うばがこの子を抱いて逃げるとき、あまり急いで逃げたので、この子を落とし、
そのためにこの子は足なえになった。」(4:4)といういきさつで障害者になっていました。
そのために野望を持つことなくいのちを長らえていたということになるでしょうか。
ダビデの前に召し出されたメフィボシェテは、ダビデからこう告げられます。
「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、
あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。
あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」(9:7) こうして
「メフィボシェテはエルサレムに住み
、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。」(9:13)
これはメフィボシェテにとっては一方的な恵みでした。ただ父ヨナタンと
ダビデの友情によってもたらされたことです。
ダビデはこうしてヨナタンの友情に応えました。
さて、最初にも書きましたが、イエス様は弟子たちに十字架にかかる前に、
このように言われました。「人がその友のために
いのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
(ヨハネ15:13) ヨナタンはいのちを捨てることはありませんでしたが、
ダビデをいのちをかけてサウルから守りました。またイエス様は言われました。
「わたしはあなたがたを友と呼びました。
なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
(ヨハネ15:15) ヨナタンはたびたびその友情を確かめるかのように
ダビデと契約を結びました。
イエス様は弟子たちを友と呼びました。その友のためにイエス様はいのちを捨てられます。
十字架で神様のさばきを身代わりに受け、死なれるのです。
イエス様が弟子たちを友と呼んだのは、父なる神様から聞いたことを余すところなく、
言葉とわざによって弟子たちに伝えたからだといいます。友とは対等の関係です。
弟子たちは知らされたことによって、実を結ぶこと、御父との関係、
そして弟子相互の関係についてイエス様にその責任をゆだねられたのです。
ここで弟子たちとは、直接にはイエス様と最後の晩餐をともにしていた12使徒を指しますが、
今イエス様が自分を愛し自分の身代わりとなって神様からのさばきを受けて
十字架の上にいのちを捨ててくださったと信じるすべての人を包含するのではないでしょうか。
もちろん小生もそのうちのひとりです。
ダビデとヨナタンの友情、そしてイエス様とクリスチャンとの関係。
本当に素晴らしい愛の関係ではないでしょうか。