預言者ヨナのことから、「神は、
すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられ」
(Tテモテ2:4)ることを確認していきたいと思います。
ヨナ書を読むと、ヨナが大きな魚にのまれ、三日三晩の後に
吐き出されたお話が出てきますから、創作物語のように思われますが、
けっしてそんなことはありません。
「預言者アミタイの子ヨナ」(ヨナ1:1)のことが
歴史書にはっきりと登場しています。それは北イスラエル王国の
第13代ヤロブアム2世(BC790〜749)が、大きく領土を回復したとき、
「それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、
ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナを通して
仰せられたことばのとおりであった。」(U列王記14:25)と説明され、
ヨナの働きが記述されています。ヤロブアム2世は、
預言者エリシャの時代にバアル礼拝からイスラエルの神の栄光を取り戻した
第10代エフー王の曾孫にあたります。バアル礼拝に対するさばきのため、
北の隣国アラムのハザエル王を神様は用いられ、
イスラエルの国は疲弊していましたから、ヤロブアム2世によって
神様は救いの御手をのべられ、回復をはかられました(U列王記14:27)。
こういった北イスラエル王国の威信の回復と裏腹に、北イスラエル王国、
南ユダ王国から離れたところで強大な世界帝国が起こりつつありました。
一つは南のナイル川を中心に栄えるエジプト王国です。そしてもうひとつ、
北東のチグリス川流域を中心にBC900年頃より台頭してきたアッシリア帝国です。
そしてこのアッシリア帝国の首都が、人口12万人を擁するニネベでした(ヨナ4:11)。
残虐、暴虐の限りを尽くして周辺諸国をのみ込んでいくニネベの悪は、
神様が見過ごすわけにはいかない状況にいたっていました(ヨナ1:2)。
ヨナもまたこのアッシリア帝国が近い将来、イスラエルの脅威として
降りかかってくることを思わないわけにはいかなかったでしょう。
神様は、悪にそまったニネベをいずれ滅ぼさないわけにはいかなくなります。
しかし「すべての人が救われて、
真理を知るようになるのを望んでおられる」(Tテモテ2:4) 神様は、
あのソドムとゴモラを硫黄の火を天から降らせて滅ぼした(創世記19:24,25)ように、
滅ぼしたくはありませんでした。そこで預言者ヨナに「立って、
あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。」(ヨナ1:2)と命じられます。
ところがヨナは、ニネベに行ってその滅亡を叫んだら、
惨殺されてしまうと思ったのでしょう。ニネベとは反対方向、
当時世界の西の果てと考えられていたタルシシュ(現在のスペイン南西部のタルテスス)に、
地中海を船に乗って、神様の目の届かないところへと逃げようとします。
もちろん神様の目が届かないところなんてあろうはずがありません。
ダビデは、天にも、よみにも、海の果てにも神様はおられ、神様にとって
暗闇も光も同じで隠れるところがありません、と歌っています(詩篇139:8〜10)。
ヨナは自分が仕えている神様が
「海と陸を造られた天の神、主」(ヨナ1:9)、
すなわち全人類のまことの神、もう少し踏み込んで言えば
イスラエル人の神であるだけでなくアッシリア人、
ひいては日本人の神でもあることをよく知っていました。
けれどもまたヨナは「ヘブル人(イスラエル人)」(ヨナ1:9)でもありました。
国粋主義ではありませんが、愛国心がありました。
イスラエルの脅威になるニネベが滅びるのならばそのほうがいい、と思ったのです。
本能的に神様の「ニネベに行き、
これに向かって叫べ。」(ヨナ1:2)のご命令に
「主の御顔を避けて」(ヨナ1:3)しまうのです。
「神の目には、すべてが裸であり、
さらけ出されています。」(ヘブル4:13)
「主の御顔を避けて」(ヨナ1:3)船に乗った
地中海航路にも神様はおられました。そして暴風を起こし、
船を難破の危機に陥らせます。積荷を捨て、水夫たちはそれぞれ自分の神に
助けを求めて叫びます。そして船底で眠っていたヨナにも、「起きて、自分の神に祈れ」
と言います(ヨナ1:4〜6)。そう、人はそれぞれ自分の神、自分の国の神を持っています。
しかしそれは、その人、その地域の守護神であって、すべての人の神様ではありません。
すべての人の神様は、すべてのところにおられる偏在者です。
誰のせいでこのような危険にさらされるようになったのか、くじ引きが行なわれ、
ヨナに当たります。みなはヨナに詰め寄ります。そしてヨナは自分の素性を明かし、
暴風を静めるため自分を海に投げ込むように言います。同船していた者たちは
それには躊躇して、船を陸に戻そうこいでみます。しかしダメだとわかると、
ヨナの神が生きておられる神であることを認め、ヨナを神にゆだねることを祈り、
海に投げ込みます。海は静まります(ヨナ1:7〜15)。すると
「人々は非常に主を恐れ、主にいけにえをささげ、
誓願を立て」(ヨナ1:16)ます。ヨナの不従順にもかかわらず、
神様はご自分の力を現わし、異教の神を拝んでいた者を悔い改めに導かれました。
ここにいたって神様はヨナに救いの御手をのべられます。
「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。
ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」(ヨナ1:17)
1日目。おそらくヨナは溺死から救われたものの消化されてしまうのではないかと
闇の中で絶望していたでしょう。「水は、
私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。」
(2:5)と祈っています。
2日目。時間が過ぎても死なないヨナは、自分に起きた事柄を
ひたすら考え続けたでしょう。「あなたは
私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、
あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。」(2:3)
3日目。この事態に至ったのは、神様に対して不従順であったからだと
自分の罪を認め、神様の主権を認めます。「しかし、
私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。
救いは主のものです。」(2:9)
ヨナが悔い改めたとき「主は、魚に命じ、
ヨナを陸地に吐き出させた。」(2:10)
ヨナは、アッシリア憎し、ニネベ憎しが昂じて、神様と対峙することになっても、
タルシシュに行く道を選択しました。しかしたとえ自分の意思に反しても、
神様に従わないことはいいはずがありません。まず不従順について
悔い改める必要がありました。ヨナは大魚の腹の中の三日三晩の闇を経験して悔い改め、
神様の命令に従うべきことを学びました。神様はヨナを教え、
またニネベへの働きに用いるため溺死から救い、消化されてしまうことからも救い、
そして悔い改めたヨナをニネベに遣わすために陸地に吐き出させます。
しかし、実はまだ解決されていない問題をヨナは持っていました。
それは神様がニネベの町を救いたいと思う同じ思いを持ってはいなかったということです。
神様によって拾った命です。ニネベの町が神様によって滅ぼされることを告げたら
殺されてしまうかもしれません。けれども神様の主権を認め、
自分の働きを再認識したヨナはニネベの町を歩き回って、ニネベへのさばきを叫びます。
するとニネベの人たちは神様を信じ、身分の低いものから王様まで、
その悪の道と暴虐な行ないを悔い改めるのです。これはヨナにとって
思いがけない展開でした。ニネベがそのまま滅亡してくれれば、
イスラエルにとって将来の憂いが取り除かれるはずでした。
悔い改めてしまったのです。神様もわざわいを下すことを思い直されてしまったのです。
(3:1〜10) ひとつの大きな町が滅びを免れたわけですから、
喜ぶべきでしょう。けれどもそれはヨナにとって非常に不愉快なことで、
神様に向かって「主よ。今、どうぞ、
私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
とふてくされます(4:1〜3)。よいことと承知していながらも
自分の思うことに反するとき、私たちは素直に喜ぶことができません。
私たちのうちに悪いものが存在していることを認めないわけにはいきませんね。
ヨナはニネベの町から出て、町の中で何が起こるか物見を決め込みます。
神様は暑さをしのぐことができるようにヨナのために
一本のとうごまの木を備えてくださいます。
ヨナはこのとうごまの木を非常に喜びます。翌日の夜明け、神様は、
今度は一匹の虫を備えられます。この虫がとうごまを枯れさせてしまうのです。
さらに神様は太陽が上ったとき、焼け付くような東風を備えられます。
ヨナはその暑さに「私は生きているより
死んだほうがましだ。」と神様に怒りをぶつけます。(4:5〜9)
そのとき神様が仰せられます。「あなたは、
自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。
まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、
右も左もわきまえない十二万以上の人間と、
数多くの家畜とがいるではないか。」(4:10,11)
物語はこの問いかけをもって終わります。
「神は、すべての人が救われて、
真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Tテモテ2:4)
「すべての人」です。「自国民だけ」ではありません。「よい人だけ」でもありません。
ニネベは神の民イスラエルにとって脅威の存在でした。
けれどもイスラエルの敵であっても、神様は滅びることを望んではおられませんでした。
救われて真理を知ることを望んでおられたのです。私たちの主イエス様は
「自分の敵を愛し、
迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)と教えられました。
十字架の上でご自分を十字架につけた者たちのために
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、
何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
ととりなしの祈りをなさいます。イエス様が十字架についたのは、
ニネベのように神様から遠く離れて悪に染まってしまっている私たちを、
永遠の滅びから救うためでした。「すべての人」です。例外はないのです。
「あなた」も例外ではありません。あなたが、私が、救われて、真理を知るようにと、エス様は十字架の上で神様のさばきを代わりに負ってくださいました。
イエス様は、しるし(証拠としての奇跡)を求められたときに、
預言者ヨナのしるし(三日三晩大魚の腹の中にいたこと)を引用されました
(マタイ12:38〜41)。神の御子イエス様が引用されたことによって
ヨナの物語が創作ではなく、史実であることが理解できるでしょう。
「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、
同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」(マタイ12:40)と
イエス様は話されます。地の中にいるのは3日で、ヨナのようにでてくる、
死んで葬られるがよみがえるのだ、と語られたのです。
また「ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めた」
(マタイ12:41)ことにも触れます。イエス様に今質問をしている律法学者、
パリサイ人はじめイエス様の時代の人たちは、イエス様がいくら伝道しても
悔い改めることをしないで、ただ自分たちが満足するために
奇跡をすることを求めていました。イエス様は来るべきさばきの日には、
ヨナの説教によって悔い改めたニネベの人たちが、イエス様の説教によって
悔い改めないこの時代の人たちをさばくことになると告げます。
彼らがヨナにまさる神の御子イエス様を受けいれなかったからです。
神の御子イエス様は天の栄光を捨てて、私たちが救われて真理を知るために
この地上にお出でくださり、十字架の御業により救いの道を備えてくださいました。
イエス様の時代の律法学者、パリサイ人たちのようにではなく、
ニネベの人たちのように神様の警告を受け入れすべての悪から離れ、
救いを得られますようお勧めします。