マタイの福音書に見る
キリストについての預言と成就
および キリストの預言


 新約聖書の最初は「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」ということばから始まり、アブラハムからイエス・キリストに至るまでの系図が記されています。イエスを紹介するのに、なぜ最初に系図が記されているのでしょうか。それはイスラエルには、アブラハムの子孫から、またダビデの子孫から、キリスト(メシア=救い主)が誕生することが約束されていたからです。系図を示すことによってイエスという方が確かにそのイスラエルの救い主であることをユダヤ人たちが知ることができるためであったのです。

 アブラハムはイエスより約2000年前のイスラエルの族長です。神様はアブラハムに彼の子孫の一人によって全世界の人を祝福すると約束されていました。また、ダビデはイエスより約1000年前のイスラエルの王様です。このダビデの子孫から王の王が誕生すると神様は約束しておられました。

 このイスラエルの歴史の中の偉大なふたりの人物に対する約束、そして旧約聖書の救い主のついての預言がことごとくイエスにおいて成就しているのです。

 まず、誕生のことについて・・・処女から生まれると預言されていました(イザヤ書、イエスより約700年前)。ベツレヘムで生まれると預言されていました(ミカ書、約700年前)。エジプトから登場すると預言されていました(ホセア書、約720年前)。ナザレ人と呼ばれると預言されていました(イザヤ書)。ことごとく成就し、マタイの福音書を記したマタイはいちいちその事実を説明しております。

 処女から生まれる、そのようなバカげたことがあるものか。このことを書き記したイザヤはどのように理解してその文章を書いたのでしょうか。ただ神様から教えられるまま、常識的には考えられないことを彼は書き記したのです。

 実はこのことは大変重要なことなのです。聖書を読みますと、まことの神様は本当に聖く正しい御方だということがよくわかります。けれどもその神様が人間の世界に来ようとしたとき、アダムからの罪の性質を受け継ぐ男と女との間に生まれてくるわけにはいかなかったのです。直接、胎の中に入り、そうして誕生するより他に聖い神様が人となって現れる方法はなかったのです。

 キリストの生涯についても預言されています。そのことばと行動についてみてみましょう。

 まずことばについて・・・「たとえ話を用いて語る」(詩篇、約千年前)と預言されています。救いを求めてくる人たちに対してイエスはわかりやすく教えるため、しばしばたとえ話を用いました。けれども、逆に敵対してくる人に対しては強いことばをもって語っています。ある時にはイザヤがパリサイ人や律法学者たちのことについて預言していることばをもって強烈に非難されています。

 そして行動について・・・「盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。」とイザヤが預言していたとおりに、多くの人がイエスによっていやされました。

 ところで、あなたは神様が見えるでしょうか。神様と共に歩んでいるでしょうか。神様と共に生きているでしょうか。はじめに神様は人を神様とともにいて親しく交わる存在として造られました。しかし多くの人はその神様とは無関係に生きております。造り主はそれを悲しまないでしょうか。私たちは神様に対して申し開きができるでしょうか。これが神様との関係における私たちの姿ではないでしょうか。聖書はこれを罪といっております。けれども神様はそのような私たちをなお愛し、いやされようとなさっておられるのです。

 さて、約三年半の公の生涯の後、イエスはエルサレムに入ります。その様子が、イザヤやゼカリヤ(約520年前)によって預言されていますが、ロバの子に乗って入城するというのです。平和の王としてイエスはエルサレムに入りました。そしてそのとき群衆は賛美の歌をもってイエスを迎えるのです。

 このようにイエスは、イスラエルの救い主について預言されているように誕生され、生涯を送られました。救い主についての預言はことごとくイエスにおいて成就したのです。そしてまた、イエスご自身も未来について語る御方でした。実にその生涯の中で少なくとも3回、ご自分が苦しめられ、殺され、3日目によみがえることを語っているのです(マタイ16章21節,17章22節,20章18,19節)

 イエスは苦しめられ殺されることを知っていました。普通もし、そのような苦しみに会うとわかっていたなら、それを避けようとするのが当然ではないでしょうか。けれどもイエスはむしろ、まっすぐにその道を進んでいかれるのです。

 どうしてでしょうか。不思議なことです。実はキリストがこの世に誕生された最も大きな目的がこのことであったのです。すなわち、苦しんで死ぬためであったのです。これはおかしなことでしょう。けれどもキリストが私たちに代わって、神よりのさばきの苦しみを経験してくださらなかったら、私たちの救いはないのです。神様は私たち人間を愛しておられます。キリストも同様にご自身を代償とするほどまでに私たちを愛してくださいました。それゆえ救いの道を十字架という形で用意されたのです。

 処女降誕は神の聖さと人間の罪の性質を教えてくれます。キリストのいやしの御業は神に対して不完全な、いや死んでいる私たちの姿と神の愛を教えます。

 神と人との接点は何もないのです。けれども神はご自分の被造物である人間をこよなく愛してくださいました。聖い神様が人との接点を見いだそうとするなら、人をまずさばかなければなりません。しかしそのさばきをイエス・キリストの上に十字架という形でくだされ、「すでに人の罪は解決されましたから、どうぞ神の祝福の中にきてください」と招いておられるのです。

 キリストはご自分の十字架とよみがえりについて預言されましたが、また十字架につく前に、キリストを拒絶したエルサレムがやがてローマ軍によって滅ぼされることを預言して涙を流されております(マタイ23章38節)。キリストを拒絶して、永遠の滅びを刈り取ってはいけないのです。

 さらにキリストは終末についても預言なさっています(マタイ24、25章)。歴史は着実に聖書に記されている預言のとおりに進行しております。次にやってくる時代はキリストの空中再臨、そして患難時代です。残されている時間は限られています。神のさばきに入らない前に、あなたをこよなく愛して、滅びることのないように語りかけているキリストの十字架の愛をぜひ受け入れられますようにお勧めします。


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