義人ヨブ


 戦後の食糧難の時代に、国民がヤミ取引で生き延びていたころ、 東京地方裁判所のヤミ取引などの経済統制違反を担当する山口良忠判事が、 同僚の検判事さえもヤミ買いを密かにしていることを承知していながら、 「人を裁く裁判官の身でありながら、どうしてヤミ買いができるか」と言って配給のみで貫き、 やがて栄養失調になり、餓死したことは有名な話です。 法が現実の食糧事情に合致していないことを承知していながら、 自らの職業から来る倫理観、義を貫きました。なかなかできることではありません。

旧約時代の三大義人

 ノアの時代、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、 いつも悪いことだけに傾くので、神様は地上に人を造ったことを悔やみ、 心を痛めておられました。けれどもノアは、 主の心にかなった正しい人であって、 その時代にあっても、全き人でした。(創世記6:6〜9)

  ダニエルは、ダリヨス王以外のいかなるものにも 祈願する者は獅子の穴に投げ込まれるという法令が出ても、神の前に祈り、 感謝することをやめませんでした。そのため獅子の穴に投げ込まれてしまいますが、 神様は獅子からダニエルを守られます。 それはダニエルに「罪のない こと」(ダニエル6:22)を神様が認められたからでした。

 ヨブは、神様がサタンに自慢するほど、 「潔白で正しく、 神を恐れ、悪から遠ざかって」(<ヨブ1:8)いました。
試練にさらされてもなおその姿勢は変わることがありませんでした。(1:22、2:3、10)

 これらの3人は、その正しさの結果、人を救うものとなります。 ノアは大洪水から家族を守りました。(ヘブル11:7)  ダニエルは、ネブカデネザル王の怒りから、 バビロンの知者たちが殺されるところを救います。(ダニエル2:12,13、24)  ヨブは、試練の後、その祈りによって、 3人の友を神様の怒りから救います。(ヨブ42:7,9)

三人はエルサレムを救うことができるか

 BC592(エゼキエル8:1)、エルサレムはバビロンの軍隊に包囲されていました。 パンのたくわえをなくした人々を「ききん」 (14:13)が襲い、体力の衰えた人々を「疫病」 (14:19)が襲い、力の尽きた人々を「悪い獣」 (14:15)が襲い、ついに城壁は破られ、バビロン軍の 「」(14:17)に倒れていくと神様は語ります。 それは神様に対して「不信に不信を重ねて・・・ に罪を犯し」(14:13)てきた、すなわち偶像礼拝と不義を慕ってきた (14:3)ユダの国に対する当然のさばきでした。

 神様はこのさばきがくつがえることがないことを強調するために 「ノアとダニエルとヨブ」(14:14)の 三人の義人を引き合いに出されます。そしてこの時代のエルサレムに 「これら三人の者がいても、 彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。」(14:14) 「彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。 」(14:16>、18、20)と言います。 この三人はそれぞれの時代にあって人々を救うことができた人々であるにもかかわらず、 この時代のエルサレムについてはダメだ、と神様は強調されます。 なぜダメなのでしょうか。それは荒療治を行なうことなしには、 決してユダの人々はもはや神様に立ち返ることはない、と神様が判断されたからでした。 「イスラエルの家が、二度とわたしから迷い出ず、 重ねて自分たちのそむきの罪によって自分自身を汚さないためであり、 彼らがわたしの民となり、わたしも彼らの神となるためである。」(14:11)

あなたは自分を救うことができるでしょうか

 この三人は、エルサレムを救うことはできなくても、罪悪に満ちたこの時代にあっても 「自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出す」 (14:14、16、18、20)ことはできると言われています。ノア、ダニエル、ヨブに匹敵する、 神様に認められる義を、私たちも確立することができれば、 自分自身を救うことはできそうです。

 この3人の正しさ、というのは、どの程度のことだったのでしょうか。 ヨブを見てみましょう。

 ヨブには七人の息子と三人の娘がいましたが、ヨブは 「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、 心の中で神をのろったかもしれない。」と考え、日を定めて、 全焼のいけにえをささげていました。自分自身のことばかりでなく、 子どもたちのことまでも神様の御前に欠けることがあってはならない、 と細心の注意を払って、神様の御前を歩む人でした。

 そのようなヨブをあるとき神様はサタンに自慢します。 「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。 彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない 」。するとサタンは答えます。「 ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」そうして神様の許可を得て、 サタンはヨブから、牛、ろば、羊、らくだ、しもべたち、 そして七人の息子と三人の娘を取り上げます。けれどもヨブは、 「私は裸で母の胎から出て来た。また、 裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」 と言って、罪を犯さず、神様に愚痴をこぼすことがありませんでした。(ヨブ1:1〜22)

 それで神様はまたしてもサタンにヨブを自慢します。 「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。 彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。 」 するとサタンは答えます。「自らの身に災いがふりかかれば、 そうは言ってはいられない」と。そしてヨブを全身、悪性の腫物で打ちます。 ヨブの妻が「神をのろって死になさい。」と言うほど、 死ぬ以上の苦しみを経験します。けれどもヨブは、 「私たちは幸いを神から受けるのだから、 わざわいをも受けなければならない」と言い、 けっして罪を犯すようなことを口にしませんでした。(ヨブ2:1〜10)

 これがヨブの示した正しさです。けれども当時は、いえ、 現在の日本においてもそうでしょうが、災いがあるということは その原因となる罪があるはずだ、と考えられていました。 ヨブを慰めるために三人の友人がやってきます。 そしてその原因となっている罪を洗い出して解決の糸口を見出そうと、 ヨブを徹底的に責めます。けれどもヨブは頑として、神様の御前に罪がないと主張します。 それは事実でした。ヨブを襲った災いは、ヨブの罪が原因ではなく、 神様から来た試みであったからです。ついには潔白を主張するあまり、 ヨブは自分を神様よりも自分を正しいものとしてしまいます。これは行き過ぎでした。 神様が現われ創造の御業を語ります。するとヨブはすぐさま悔い改めます。 確かにヨブは正しい人でした。けれども天地の主権者である神様ご自身の御前では、 それも取るに足りないことであることをヨブは悟ったのです。

 このヨブの正しさを持っていれば、やがて来る神様の御怒りのときから 自分自身を救い出すことができるかもしれません。 あなたはヨブに匹敵する義を持っているでしょうか。

百人隊長の証言

 新約聖書にも「正しい方」と言われた人が登場します。 いうまでもなくイエス様です。ローマの百人隊長は、 イエス様が十字架につけられるときから、息を引き取るときまで、 ずっとイエス様の様子を見ていました。そしてイエス様が「 父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取られたそのとき 「百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった。』 と言った。」(ルカ23:47)のです。

 この百人隊長がローマの総督ピラトによる裁判の顛末を 知っていたかどうかはわかりませんが、十字架の上に掲げる罪状書きには、 普通、殺人、強盗、暴動の先導者などと書かれるのでしょうが、 「これはユダヤ人の王」と意味不明の罪状が、 ピラトの命令で掲げられるのを見ていました。

 イエス様はローマの兵士たちによって裸にされ、十字架に釘で打ち付けられ、 垂直に立てられます。その下で兵士たちは、役得とばかりに、 イエス様の着ていた着物を下着までもくじ引きにしています。 けれどもそのときイエス様は父なる神様に、ご自分を十字架につけた者たちのために、 手足を引き裂く苦しみの中で、とりなしの祈りをなさるのです。 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、 何をしているのか自分でわからないのです。

 民衆もユダヤの指導者も「あれは他人を救った。 もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」とののしります。 ローマの兵士たちも「ユダヤ人の王なら、 自分を救え。」とののしります。そして一緒に十字架につけられている犯罪人も 「あなたはキリストではないか。 自分と私たちを救え。」とののしります。 けれどもイエス様は一言もお応えになりませんでした。

 しかし犯罪人の一人がイエス様の様子を見ていて、神様を意識し、 自分の人生を振り返り、イエス様をキリストとして認め悔い改めます。 そしてもうひとりの犯罪人をたしなめた上で、「イエスさま。 あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 と気持ちを伝えます。するとイエス様ははっきりと 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、 わたしとともにパラダイスにいます。」とおっしゃいます。 今にも息を引き取ろうとしている者に救いを語り、確かな希望を与えます。

 それから不思議なことも起こります。十二時から三時まで全地が闇に覆われます。 また地震があって神殿の幕が真二つに裂けます。そのあと、 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」 とイエス様は大声で叫んで、息を引き取ります。

 そしてこの一連の出来事を見ていた百人隊長の 「ほんとうに、この人は正しい方であった。」 ということばになるのです。(ルカ23:33〜47)

 実はこの百人隊長のことばがマタイ伝とマルコ伝では、 「この方はまことに神の子であった。」 (マタイ27:54、マルコ15:39)と記述されています。 「正しい方」が「神の子」になっています。つまりイエス様が示された姿を見ていた百人隊長は、 イエス様のうちに人としての正しさを見ていたのではなく、 神の子としての正しさを見ていたのです。

人の義 と 神の子の義

 エルサレムにさばきが下されるとき、「たとい、そこに、 ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって 自分たちのいのちを救い出すだけだ。」(エゼキエル14:14)と神様は語られました。 ヨブのような義人であれば、神様のさばきのときでも自分のいのちを救うことができる、 と言うのです。しかし、神の子としての義を示したイエス様は逆に自ら十字架への道を歩み、 そして十字架の上でいのちを捨てるのです。

 けれども「たとい、その地にこれら三人の者がいても、 ・・・彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。」 (14:16、18、20)と言われているのに対し、イエス様はすべての人が 神様のさばきから救われる道を用意してくださいました。そのためにイエス様は十字架の上で、 闇が全地を覆い、神様がイエス様をさばく姿を隠すほどに、一身に、 すべての人が受けなければならない神様のさばきを受けてくださったのです。 今はこのことを信じるすべての人は、イエス様によって、神様から罪を赦され、 永遠のいのちをいただくことができます。(ローマ6:22,23)

 人の義は自分のいのちを救うことはできても、他の人のいのちを救うことはできません。 神の子の義は、ご自分の命を捨てて、すべての人を神様のさばきから救い、 永遠のいのちを与えるものです。

もう一度

 ヨブのような正しい人であると言い切ることのできる人はまずいないでしょう。 と言うことは、来るべき神の御前に立つさばきのときに、 誰ひとり自分を救うことができる者はいないということになります。 まして愛する者を救うことなどとてもできません。どうしたらいいでしょうか。 自らの命を十字架の上に捨てて私たちに救いの道を用意してくださった イエス様の贖いの御業を感謝して受け入れること、これしかありません。

 イエス様の義は単に正しいというだけでなく、愛により働く義です。 ですから私たちを愛して、ご自分の義によって私たちが 神様の御前に立つことができるようになることを望んでくださいました。 イエス様においてのみ義と愛は調和しています。

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