今回は「ヤコブ」のことについて書きたいと思います。創世記25〜35,37,
42〜49章に登場します。ヤコブの生涯から、神の主権と真実さを考えてみたいと思います。
私たちは先入観があって、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われると、
ヤコブはりっぱな信仰者であったように思います。けれどもヤコブへの祝福はあくまでも神様と
アブラハムとの契約によるもので、ヤコブの信仰によるものではないことを
その生涯をとおしてみていくとわかります。ヤコブはけっしてアブラハムのように
神様の御声に聞き従った人ではありませんでした。
むしろ自分の力によって道を切り開こうとする人でした。
その名前の意味するとおり、だますもの、押しのけるものでした。
ヤコブのそのような性格はどうして形成されたのでしょうか。
それは両親の偏愛によるものであったようです。お父さんであるイサクは双子の兄エサウを愛し、
お母さんであるリベカは双子の弟ヤコブを愛していました(25:28)。
イサクはエサウを祝福するときに、自分の好物である肉料理を絡めて、
それを食べた上で祝福しようとしました。そのイサクの神のものと人のこととを混同するスキをついて、
リベカはヤコブへの思い入れから、その祝福を奪う計画を立て実行するのです。
神のご計画はエサウではなくヤコブにありました。リベカはその神の御手にあるご計画を自分の手によって
実行しようとしたのです。その結果、ヤコブは家を追われ、
リベカは生涯2度とヤコブに会えなくなってしまうのです(27章)。
ヤコブは兄エサウを恐れてリベカの勧めにより叔父ラバンのところに避難します。
その旅路の途中で神様がヤコブに夢の中で現れます。そして、祝福を約束された上で、
さらに「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、
あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。」(28:15)と約束してくださいます。
にもかかわらずヤコブの返答は、「神がわたしと共にいまし、
わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせて
くださるなら、主をわたしの神といたしましょう。」
(28:20,21=口語訳)でした。ヤコブは神様の祝福を素直に感謝して受け止めることをしないで、
神様に取引の条件を提示するのです。ヤコブは神様に感謝することを知らないで、
神様との交渉によって道を切り開いていこうとするのです。
ヤコブはハランに下ってから、そこに20年間を過ごしました。
その間ラバンと何度も取引をするのですが、そのたびごとにラバンに裏切られるのです。
妻にしたいと思ったラケルのために7年間働くも欺かれ姉レアと結婚させられ、
さらに7年間働いてやっとラケルを妻とします。
かつて老父イサクの目が衰えていることにつけ込んで祝福を勝ち取った報復を、
叔父ラバンによって受けるのです(28章)。ヤコブはラバンとの取引によって、
20年間に幾度も報酬を変えられてしまいます。(31:41)
ベテルにおいて神様と会い、すばらしい約束を受けていたのですから、自分を神様にゆだね、
神様のご計画にゆだねていればよかったにもかかわらず、ヤコブは自分で計画を立て、
ラバンと何度も取引を試みてそのたびごとに欺かれ、結局ハランにいる20年間には、
祭壇を築くなど神様に対して何の働きもすることがなかったのです。
それから20年が過ぎたある日、神様はヤコブに対し、「
わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。
さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。」
(31:13)とかつてヤコブに約束したことを果たすために言われました。
ヤコブはすぐさま身辺の整理をしてラバンに平和のうちに送り出されたかというとそうではなく、
ラバンの留守をねらって、急いで脱出するのです。どうしたらうまく逃げ出せるか、
ヤコブの頭の中はすぐさま、神様には頼らない計画の作成が始まります。そしてすべての妻子、
すべての家畜、すべての財産をしっかりと持ち出します。
3日目にラバンはヤコブの逃走を知りすぐさま追いかけます。
けれども神様はヤコブを守るためラバンに現われ「あなたはヤコブと、
事の善悪を論じないように気をつけよ。」(31:24)と言われるのです。
そのためラバンはヤコブに穏やかに会い、そして分かれることができました。
ラバンとの問題が解決された後、次に来る問題はいかに兄エサウに会うかでした。
かつてヤコブはエサウの長子の特権を奪い、また祝福を奪い取ったために、
父イサクやエサウのもとから命を守るために逃げ出さなければなりませんでした。
またしてもヤコブは計画を練ります。そしてエサウに会うためにとった方法はまず宿営を2つに分け、
仮に一方がエサウに打たれても残りは逃れられるようにというものでした。(32:7,8)
その後、エサウの怒りを静めるための贈り物を先に送ることとし、第1団、第2団、
第3団と段階的に送ることにします。(32:13〜21)そしていよいよエサウに会うときのため、
守りたい逆の順番に配置します。それは妻となった女奴隷たちとその子どもたちを先頭、
次に愛して迎えたのではない妻レアとその子どもたち、
そして最後に愛する妻ラケルとその子ヨセフという配置でした。(33:1,2)
たいへん卑劣で臆病な配置です。祝福を約束されている神様に頼らないで、
自分で計画し実行することのみしか考えられないヤコブでした。
さてここでいよいよいのちの危険を覚えながら兄エサウに会わなければならないわけですがその前に、
神様が、夜ヤコブがひとりでいるところに現われます。ヤボクの渡しでの出来事です。
(32:22〜32)そこにはある人と記述されていますが、
多くの人はイエスさまであろうと想像しています。ヤコブはその人と一晩中格闘します。
この勝負は引き分けとはされませんでした。もものつがいをその人が打ったので
ヤコブのもものつがいがはずれました。ヤコブは立っているのも困難な状態におかれました。
ですからヤコブの負けが宣言されたかというとそうではなく、その人は「
あなたは神と戦い、人と戦って、勝った」(32:28)と宣言しました。
もう一度ヤコブの勝利が告げられたときの状態を確認します。ヤコブのもものつがいははずされ
自分の力では立っていられない、格闘どころか子どもにも押し倒されてしまうような状態だったのです。
それではなぜヤコブの勝利が宣言されたのでしょうか。
それは生まれつきの能力が完全にうち消されたからでしょう。
私たちの生まれつきの性質が弱くなったとき、神様の祝福は臨むのです。
神様は人を祝福しようと待っておられます。
ヤコブのように格闘して神様から力ずくで奪うものではありません。
ヤコブはこの経験をとおしてそのことを学んだでしょうか。ここでその人が祝福された(32:29)
ことを見るときっとヤコブは学ぶことができたのではないかと思います。
さあいよいよカナンの地に戻ってまいります。そこで神様の声がありました。
「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。
・・・神のために祭壇を築きなさい。」(35:1)ベテルで神様に会うために
ヤコブがまずしたことは、自分の家族や一緒にいるすべてのものに偶像を捨てさせたことでした。
(35:2)神様の祝福を熱望しながらそこに偶像があったことは何と矛盾したことであったでしょうか。
こうしてヤコブはベテルに入り祭壇を築きます。(35:6,7)
そこで神様はヤコブに現われ祝福されます。(35:9〜12)
神様はまちがいなくヤコブに対して「ベテル・・・に住みなさい。」
(35:1)と言われました。神様はヤコブがベテルに住んで生涯を送ることを望まれましたが、
「彼らがベテルを旅立って」(35:16)
とあるようにヤコブはそこを立ち去ってしまいます。
ヤコブはまたもや神様の御声に聞き従わなかったのです。まもなく愛妻ラケルが死にます。
ヤコブのこの後の生涯の苦難と悲哀は、
このときベテルに留まることを拒否したことによるのではないでしょうか。
ヘブロンの谷にいたとき、ヤコブは息子ヨセフを、羊を飼うために出かけている兄たちのところへ
使いにやります。(37:12)ヨセフは兄たちがシェケムにいなかったので
ドタンまでさがしに行きますが、遠くから弟ヨセフがやってくるのを見た兄たちは、
ヨセフを殺そうと計ります。しかし長男ルベンのとりなしで、ヨセフを穴に落とし込むこととします。
(37:24)しかしそのあとルベンがその場を離れている間にヨセフを穴から引き上げ、
イシュマエル人の隊商に売ってしまうのです。(37:28)
さらにヨセフはエジプトに連れて行かれてエジプトの侍従長に奴隷として売られてしまうのです。
(37:36)
かつてヤコブの両親であるイサクとリベカはその子どもたちをえこひいきしたために、家庭を分裂させてしまいました。ヤコブもまた同じ過ちを犯してしまいました。子どもたちのうちで愛するラケルの子どもであるヨセフとベニヤミンだけを特別に愛するのです。そのために兄弟たちのねたみの感情をヨセフに向けさせてしまうのです。
兄たちはこのことをカムフラージュするために、弟ヤコブの長服をほふった雄やぎの血に浸し
父ヤコブに見せるのです。ヤコブはこれを見て「悪い獣にやられたのだ。
ヨセフはかみ裂かれたのだ。」(37:33)と理解し、泣き悲しむのです。
老人ヤコブはこれから20年間、ヨセフが野獣に襲われ噛み裂かれる夢を
何度も見ては苦しまなければならなかったことでしょう。
かつてヤコブは老父イサクを欺いて、祝福を横取りしました。それから40〜50年経って、
同じように今度はヤコブが子どもに欺かれているのです。ヤコブは父を欺いた刈り取りを
長い年月を費やしてさせられることとなりました。
エジプトに売られたヨセフは神様の不思議なご計画により、
エジプトでパロ(王)に継ぐ権力者になっていました。(41:41〜44)そのヨセフに勧められて、
ヤコブは豊かなエジプトに移住することになり、パロの前に立ちます。
そして生涯を振り返っての挨拶をします。「
私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、
私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」(47:9)これを聞いたパロは、
ヤコブの神にその心を向けたでしょうか。何の関心も示さなかったと思います。
後にダニエルはバビロンに囚人として捕らわれていったとき、神様とともに生きて、
ネブカデネザル王をイスラエルの神様にその心を向けさせるのです。
ヤコブがもし神様に対して真実に生きていたらこのとき、神様に祝福された人生を語り、
パロもヤコブの神に関心を持ったかもしれませんが、残念ながらそうではありませんでした。
初めにも書いたように、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われると、
アブラハムもイサクもヤコブもりっぱな信仰者であったので、
そう呼ばれることを神様は喜んでおられるように思いますが、
イサクやヤコブの生涯を追っていくと決してほめられるようなものではなく、
どうして神様はそのように呼ばれることを喜ばれるのか疑問に思えるのです。
そこが生けるまことの神様の、神様たる姿なのかもしれません。
もしイサクやヤコブもアブラハムのようなりっぱな信仰者であれば、
イスラエル民族に対する神様の祝福は当然のものであったかもしれません。
けれども不信仰なものをなおアブラハムとの約束のゆえに祝福を約束され続けるならば、
それはどこまでも、神様の主権と真実によるものといえます。
神様とはそのような御方です。私たちが真実でなくても、それにかかわらず、
神様は真実な御方なのです。たとえヤコブが不十分なものであっても、
神様の主権を持ってご自分の約束を果たされるのです。同様に私たちが罪の中にあるものであっても、
ご自分の主権を持って、私たちがただ主に向いてその罪を悔い改めるならば、その罪を赦し、
キリストのゆえにご自分の民に加えてくださるのです。
ヤコブは自分の努力によって道を切り開こうとしましたが、成功するものではありませんでした。
私たちもどんなに努力しても罪をもったままで神様に近づくことはできません。
神様の主権によって、キリストのゆえに受け入れる道が備わっている今、
神様に近づかなければなりません。