今回は南ユダ王国第10代のウジヤ王を取り上げたいと思います。
ウジヤ王は、またの名をアザルヤといいました。U歴代誌26章ではウジヤ、
U列王記15章ではアザルヤと記されています。U歴代誌26章には祭司アザルヤも
登場するので、区別するため、ウジヤのほうをとったのでしょうか。
ウジヤは16歳で王位に就き、52年間、ユダ王国を治めました(U歴代誌26:3)。
若くして王位に就き長期にわたって政権を担うことができたのは、
やはり「主の目にかなうことを行なった」
(U歴代誌26:4)からでしょう。しかし
「神を認めることを教えた(祭司)
ゼカリヤの存命中」(U歴代誌26:5)はよかったのですが、ウジヤ王が強くなり、
また祭司ゼカリヤを失うと、「彼の心は高ぶり、
ついに身に滅びを招」(U歴代誌26:16)いてしまいます。
神様が任職した祭司にゆだねられていた務めである、神殿の香の壇で香をたく、
ということをしようとしたのです。これは神様の主権を犯す大きな罪でした。
ウジヤ王はそのため、神様に打たれ、らい病になります(U歴代誌26:19)。
ユダ王国では「主の目にかなうことを行なった」
(U歴代誌26:4)と評価される王様がたくさん出ています。
しかしそれは王位に就いた初めの頃に注目した表現のようで、その生涯を追っていくと、
初めはよくても最後までその道をまっとうできた王様は多くはないことに気づきます。
第8代ヨアシュ王は「祭司エホヤダの生きている間は」
(U歴代誌24:2)よかったのですが、その後豹変し、アシェラと偶像に仕え、
祭司エホヤダの子の祭司ゼカリヤを殺してしまいます(U歴代誌24:17〜25)。
第9代アマツヤ王も偶像(セイルの者たちの神々)礼拝に捕えられてしまいます
(U歴代誌25:14〜24)。第13代ヒゼキヤ王でさえも病がいやされたとき、
高ぶりによって失敗(イザヤ39:1〜8)し、後に悔い改めます。そしてウジヤ王も
「神を認めることを教えた(祭司)ゼカリヤの存命中」
(U歴代誌26:5)はよかったのですが、強くなると高ぶり、
自ら神殿に入って香をたこうとして、神に打たれらい病になります
(U歴代誌26:16〜23)。あのソロモン王も、初め知恵を求めて
さいわいなスタートを切りながら、途中妻たちが持ち込んだ偶像礼拝に走り、
後に悔い改めたことを思い出します。
ユダ王国の王たちは、基本的にはダビデの町の王たちの墓に葬られましたが、
その生前の歩みによって葬られるところが異なりました。
悪王として覚えられるものはその墓の記述がないものがあります。
また王たちの墓に納められなかったものもいました。よい王様だったヒゼキヤ王は
特に「ダビデの子らの墓地の上り坂に葬」
(U歴代誌32:32)られました。そしてウジヤ王は、すばらしい業績を残しながら
「王たちの所有していた野の墓地に」(U歴代誌26:23)
葬られました。少し区別されたようです。どうしてでしょうか?
ウジヤ王がやったことはそれほど悪いことだったのでしょうか?
祭司「ゼカリヤの存命中は、神を求めた(ので)
・・・神は彼(ウジヤ)を栄えさせ」(U歴代誌26:5)られました。
その領土は王国が分裂してからあと、最大となり、ダビデ、
ソロモンの時代を彷彿とさせる勢いでした。西はペリシテ人の地を治め、
地中海航路が確保されたことでしょう。南はエドムから取り返したエラテを再建し、
紅海からアラビア、アフリカへの貿易の基地を確保します。
東のアモン人はみつぎものを納めるようになりました。国内のインフラも整備します。
やぐらを建てて防備を強固にし、水利も確保し、牧畜や農業を奨励します。
平和でなければできない事業です。戦闘部隊も一族のかしらのもと、
307,500人の軍勢を擁し、新兵器の開発も行なわれていました。
ウジヤ王は神様の助けを得て、強くなっていきました。(U歴代誌26:2,6〜15)
「しかし、彼(ウジヤ王)が強くなると、彼の心は高ぶり、
ついに身に滅びを招いた。」(U歴代誌26:16)
「しかし」が入って事態が一気に暗転します。
強くなり、また神を認めることを教えてきた祭司ゼカリヤを失うと、
ウジヤ王はその繁栄が自らの力によるものと錯覚したのでしょう。
その心から若いときの謙虚さが失われ、高ぶってしまうのです。
具体的に何をしたというのでしょう。
「彼は香の壇の上で香をたこうとして
主の神殿にはいった」(U歴代誌26:16)のです。
「身に滅びを招」くほど悪いことなのでしょうか。
祭司アザルヤと80人の祭司がウジヤ王の前に立ちふさがって
「ウジヤよ。
主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、
聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。
あなたは不信の罪を犯したのです。」(U歴代誌26:18)と言います。
これは命がけの訴えです。ユダ王国を繁栄に導いたと自負する権力者の前に
立ちはだかったのです。
神殿とはどういうところでしょうか。聖所とはどういうところでしょうか。
そこはまさしく神様がイスラエルの民の中にあってご臨在されるところです。
本来神様のおられるところは天です。やがてキリストによって贖われ、
神様との交わりを回復したクリスチャンは「新しい天と新しい地」、
都の中心に神様とイエス様がおられるところに迎えられます。
その都にはあかりがありません。神様の栄光が都を照らし、
小羊(イエス様)が都のあかりだからです。(黙示録21:1〜4,22,23
) 神様はその愛する民とともにいることをたいへん喜ばれます。
ですから神様のご臨在なさる聖所で仕えるものは、聖別された祭司、
アロンの子孫でなければなりませんでした。たとえ、王であっても許されませんでした。
かつてコラとその仲間の者たち250人がモーセとアロンに逆らって立ち、
祭司職を求めたことがありました。コラはレビ族に属し、
モーセとアロンといとこにあたる者でしたから、幕屋に仕える恵みにあずかっていました。
けれども彼らは、神様が選んで聖なる者として近づけた者を
認めることができませんでした(民数記16:1〜5)。そのさばきは
コラと首謀者たちに属するものを地面が割れて飲み込み、生きながらにして
よみにくだらせるという恐ろしい形で行なわれました。
250人も火によって焼き尽くされました。神様の選びを認めることができなかったことは、
そのまま主への侮りでありました(民数記16:30〜35)。
このとき「アロンの子孫でないものが、
主の前に近づいて煙を立ち上らせることのないため、
その者がコラやその仲間のように合わないため」(民数記16:40)
神様からのことばがありました。このように聖所では聖別された祭司しか
奉仕することが許されていませんでした。にもかかわらず、神様の定めを無視して、
自ら聖所に入り、ウジヤ王は香をたこうとしたのです。
周辺諸国の偶像礼拝をする王たちをまねたのでしょう。
しかしエルサレムの神殿、生ける神様からは許されることはありませんでした。
この「高ぶり」ではウジヤ王だけでなく、お父さんのアマツヤ王も失敗しています
(U歴代誌25:19)。そしてヒゼキヤ王の失敗も「高ぶり」からでした
(U歴代誌32:25,26)。
イエス様が人を汚すものについて語られたことがあります。
「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、
殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、
高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、
内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:20〜22)
私たちの内側に「高ぶり」は潜んでいて、状況が整うと私たちを汚す、躓かせる、
恐ろしい性質です。実際、初めはさいわいな志しを持って政治の世界に入った人でも、
権力の座につくと、この「高ぶり」という性質が内側から出てきて、
失脚する様子を私たちはときどき聞くことがあります。政治家を待たなくても、
私たち自身のうちにも同じ性質があって、そのために失敗した経験は
誰でももっているでしょう。
実は、この世の支配者として覚えられるサタンも、天からこの「高ぶり」の結果、
落とされた天使のかしらでした。エゼキエル書28章には、
バビロンのネブカデネザル王によって滅ぼされたツロの王の失墜が預言されていますが、
それはサタンの失墜をも語ったものでした。
「全きものの典型であった。知恵に満ち、
美の極みであった」(エゼキエル28:12)サタンは、天使のかしら
「ケルブとともに」(エゼキエル28:14)
全地を治めていました。けれども「あなた(サタン)
の心は自分の美しさに高ぶり、
その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたし(神様)
はあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」
(エゼキエル28:17)ということになってしまいました。
イザヤ書14章4〜27節はバビロンの滅亡の預言です。ここにもサタンの失墜が語られています。
「暁の子、明けの明星よ。
どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。
どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。
『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、
いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、
穴の底に落とされる。」(イザヤ14:12〜16)
ウジヤ王はこのように祭司アザルヤの警告にもかかわらず、
「手に香炉を取って香をたこうとし」
(U歴代誌26:19)ます。神様が人を通して語ることに耳を傾けることができれば、
事なきを得ます。けれども神様が許される一線を超えるとき、
神様は直接さばきを下されます。「主の神殿の中
、香の壇のかたわらで、突然、彼の額にらい病が現われ」
(U歴代誌26:19)ました。祭司アザルヤたちもこれを見、ウジヤ王自身も
即座に神様からのさばきにあったことを自覚したので、神殿から
「自分から急いで出て行」(U歴代誌26:20)きました。
この後10年「ウジヤ王は死ぬ日まで・・・
らいを病む者として隔離された家に住」(U歴代誌26:21)みました。
律法に従わないで、聖所に入って香をたこうとしたウジヤ王は、
律法に従って静かに余生を送ることになりました。
コラとその仲間250人がモーセとアロンに反逆したときは、
神様は即座に死を与えられましたが、ウジヤ王には10年という歳月が与えられました。
それはウジヤ王の過去の業績が優れていたからでしょうか。それは関係ありません。
神様がウジヤ王に罪を悔い改める時間を与えてくださったのです。
神様は人の心をご存知です。ウジヤ王に対してあわれみを示してくださいました。
おそらくウジヤ王はその死のときまでに悔い改めたことでしょう。
詩篇に「コラの子たちのマスキール」
とか「コラの子たちの賛歌」と
タイトルのついた詩篇が12篇(42〜49,84,85,87,88篇、43篇は42篇とでひとつの詩)あります。
コラはその罪のために即座にさばかれましたが、
「コラの子たちは死ななかった」(民数記26:11)
のです。「父親が子どものために殺されてはならない。
子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、
自分の罪のためでなければならない。」(申命記24:16)と律法にあるとおりです。
人は自分の罪のためにさばかれるのです。
コラはレビ人でした。コラの子孫は主の宮に仕え(T歴代誌9:19)、
聖書に詩を残すものとなりました。
では、サタンには、神様はあわれみを示されることはないのでしょうか。
人は神様が愛する対象として造られました。天使は神様に仕えるものとして造られました。
仕えるものが「いと高き方(神様)のようになろう」
(イザヤ14:14)としたのですから、あわれみは示されません。
ましてや神様が愛する対象として造られた人間を、
神様に反逆するように働きかけ、サタンのために用意されたゲヘナ(地獄)に
引き込もうというのですから、さばきはあっても、あわれみはありません。
このサタンの巧妙な働きかけに負けて、神様に反逆し続け、
滅びへの道を突き進むことがあってはなりません。