今回は創世記3章から、罪について書いてみたいと思います。
神様が人を造られたとき、ロボットのように命じられたまま動くものとしてではなく、
自由な意志により、自分で選択して行動するように創られました。
その自由な意志によって神様を礼拝し、賛美し、神様を喜ばせてくれることを望まれたわけですが、
それは同時に、その自由な意思によって他の選択もできるということでもありました。
人は、それほどまでに完全に自由な存在として造られました。
その自由な意思によって選択する「服従」を求めて神様はたったひとつの命令を与えられました。
それは「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、
あなたは必ず死ぬ。」(2:16,17)ということでした。
残念ながら言うまでもなく3章で、このたったひとつの命令に、アダムはいとも簡単に、
狡猾な蛇にだまされて、背いてしまうのです。
サタンの方法はたいへん巧妙です。神様の命令はアダムに与えられました。
その後エバが造られました。エバはアダムから神様の命令を聞いていたでしょうが、
又聞きですからアダムほどは強く心にとどめていなかったでしょう。
ですから蛇はエバに声をかけました。
その声をかけるとき、「・・・と神は、
ほんとうに言われたのですか。」(3:1)と神のみことばに疑問をもつように言うのです。
そして半信半疑になりながら答えたエバに対して、
今度はまったく神様が言われたことと反対のことをはっきりと断言するのです。
「あなたがたは決して死にません。」(3:4)と。
5節に続けて言っていることは事実で、それによって決定的な問題である「永遠のいのち」
「死」という重大な事柄についての神の命令を忘れさせてしまうのです。
まんまと蛇のことばを信用してしまった女は、神様の命令をすっかり忘れて、
自分の目で善悪の知識の木の実を見て、
自分でそれがどのようなものであるかを見定めようとするのです。
それはたいへん魅力的なものと映りました。
そしてエバはアダムにその実を与え、アダムもこれを食べてしまうのです。
将を射んとすればまず馬を射よ、のとおり、ものの見事にアダムも陥れられてしまうのです。
男が弱いのはやっぱり女です。サタンはこのようにして人を、
自発的に神を礼拝し神を喜ばせるために、神様が人に与えた自由意思を利用して、
神に逆らい、サタンと同じ滅びの道にひきずりこんでしまったのです。
罪に対して、神様は処罰をなさいました。蛇と女と男に対してです。
それぞれ2つずつです。まず蛇はこのときから腹這いで歩くようになること、
またやがてイエス様によって決定的に滅ぼされることが宣言されました。
このことは後でもう一度触れます。女は出産の苦しみを経験することと、
男の支配に服さなければならないことが言い渡されました。
そして男には、労働の苦しみと死の宣告です。
人間にとって、最大の問題は「死」です。死はこのようにして入ってきました。
初め永遠に生きるものとして造られましたが、神に従うことよりも
自分の判断を優先させてしまいましたから、「死」を刈り取ることになってしまいました。
罪と死の関係を説明しているみことばを新約聖書から拾ってみましょう。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、
私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ>6:23)
「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」
(ヤコブ1:15)
どんなに成功したと思われる人生を送ったとしても、
誰ひとり死を逃れることのできる人はいないのです。
豊臣秀吉は「つゆとをち つゆときへにしわが身かな なにわの事も ゆめの又ゆめ」
と辞世の句を詠いました。
人は死の原因をいろいろと言います。新聞の死亡欄をみると敗血症が多いでしょうか。
わたしの母親も仕事中に後頭部を強打したのが原因で硬膜下血腫になり、
その後1年半寝たきりでしたが最後は敗血症という診断でした。祖父母は3人老衰でした。
3年前の今ごろ、弟の知人の女性ですが、45歳の方が白血病で亡くなりました。
亡くなるしばらく前から福音を伝え、手紙とメールでの伝道でしたが、
最後にメールで「信じます」という言い表しがあって、
次のメールの返事が来なくて死亡の連絡がありました。
死の直接の原因は病気であり、事故であるかもしれません。
しかしそもそも「死」そのものは、「罪」すなわち、神様に聞き従わなかったのが原因である、
これが聖書が一貫して語っていることです。
「死」そのものの原因を語ることができるものは他にありません。
ところで、罪を犯したために、死を宣告しただけならば、神の義はとおるでしょうが、
先回お話しした神の愛はどこへ行ってしまうでしょうか。もう言うまでもありません。
それが神の御子イエス様の十字架の死です。罪人の身代わりとなって死んでくださいました。
すでに人が罪を犯したとき、神様はそのご計画を明らかにされています。
そしてそれが「死」をもって、成されることをもです。
人は善悪の知識の実を食べて、自らが裸であることを知り、
いちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいを作りました(3:7)。
しかしいちじくの葉はまもなくしおれてしまうものです。
裸の恥をいつまでもおおうことはできません。そこで神様は罪についての処罰を宣告された後、
皮の衣を用意してくださいました(3:21)。それは長く裸の恥を覆うことのできるものでした。
けれどもそれが用意されるためには生きた動物が殺され、
その皮がはがされなければなりませんでした。やがて神様は律法の中で、
罪を覆うためには血が流されなければならないことを宣言なさいますが、すでにこのとき、
自ら実行されるのです。人の罪を覆うために血が流されました。
このことはイエス様が十字架の上に尊い血を流して罪を解決してくださることを予表しておりました。
またサタンの滅亡も十字架のみわざによって成し遂げられます。蛇に対する処罰の中で、
神様は「わたしは、おまえと女との間に、また、
おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、
彼のかかとにかみつく。」(3:15)と宣言なさいました。
サタンはイエス様を十字架につけることによって、勝利したかのように見えますが、
実はその十字架のみわざによって、サタンにより罪と死に縛られていた人が解放され、
またサタンが完全に縛られるスケジュールが完成するのです。
罪が入ったとき、神様は即座に、さらにサタンに対する永遠の刑罰の手順を明らかにし、
その愛のゆえに人の救いの計画を明らかになさいました。
しかしそれにしてもそれは愛する神の御子の十字架の死によることですから、
神ご自身の犠牲の大きさは測りしれません。
ところで聖書には、2種類の「罪」が書かれています。
ひとつは単数形の罪[sin]です。もう一つは複数形の罪[sins]です。複数形の罪とは、「罪過」かつての聖書では「咎」と表現していましたが、私たちが日々犯してしまう罪です。例えば、うそをつくこと、盗むこと、欺くこと、むさぼること、数え上げたらきりがありません。また単数形の罪とは、かつての聖書では「原罪」と表現していましたが、それらの複数形の罪を犯してしまうそもそもの罪、言い換えれば神様から背を向けてしまったことをいいます。それはアダムの時に起こり、その性質を私たちは血によって受け継いでしまっているのです。 私たちは繰り返して罪を犯してしまうことを、
私たちは経験をとおして知るのです。それがいやだと思っても繰り返してしまうのです。
そのとき気がつくことは、私たちのうちにそもそも罪の性質があるということです。
この罪の性質がありますから、何かの引き金があると、罪を犯してしまうのです。
このように単数形の罪[sin 原罪]がありますから、複数形の罪[sins 罪過]を犯してしまうのです。
一般的には罪を犯した者を「罪人」といいます。けれども聖書では罪を犯すのは結果であって、
その原因は罪の性質を持っているからであり、すでにそれゆえ「罪人(つみびと)」
であるというのです。
すでに、アダムが神に背く罪を犯した際に、動物の血が流され罪が覆われたこと、
また律法は罪を犯した人にいけにえを求めていたことを書きました。
同様に私たちの複数形の罪を覆い、私たちを義と認めるために主イエス・キリストの血が
十字架の上に流されました(ローマ3:25、5:9)。ですからもし失敗してもその都度罪を言い表すなら、罪が赦される道が備えられました(Tヨハネ1:9)。
それだけではありません。複数形の罪の原因である単数形の罪、
罪の性質の解決の道も示されています。それはキリストの十字架にあります。
キリストが十字架について死なれたとき、キリストにつぎ合わされた者の、
アダムから受け継いできた古い人は、
キリストとともに十字架について死んだものとみなされるのです(ローマ6:6)。
ここに至って初めて私たちは、自分の中にある罪の性質についての解決を見出し、
安心できるのです。
このことはさらにすばらしい事柄とセットです。
アダムに属する古い人がキリストとともに死んで葬られただけではなく、
今度はキリストに属する新しい人として、キリストのよみがえりとともに、
キリストのいのちにあっての新しい歩みに入れられているのです(ローマ6:4,8)。
ですからキリストを信じる者は、「罪に対しては死んだ者であり、
神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」(ローマ6:11)となったのです。
アダムにより入った罪は、キリストによって完全に解決されました。
そればかりでなく、キリストにある新しいいのちをも与えられるのです。
なんとすばらしいことではないでしょうか。