天地万物は6日間で創造されました。7日目に神が休まれたことは2章に書かれています。
創造の最後に造られたのは人間です(26,27節)。言い換えればこの人間の住む環境を、
その前に神様は整え用意されたのです。人間を造る前に造られたものは動物です(24,25節)。
その前に造られたものは、魚や鳥です(20〜22節)。動物は人間の助け手として造られました。
ですから現在でも家畜として飼われ、ペットとして人を慰めるのです。
その前は太陽と月と星(14〜18節)。人間や動物が生きるのに必要な光です。
その前は植物です(11,12節)。人間や動物が食料とするためのものです。
その前が陸と海です(9,10節)。さらにその前が、大空(6〜9節)。その前が、光(3,4節)でした。
そこには明らかに知恵が働いていることを見ることができるのではないでしょうか。
ヨハネの福音書の冒頭はこう書かれています。「初めに、
ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、
初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、
この方によらずにできたものは一つもない。」(1:1〜3)
ここで使われている「ことば」という単語の原語はギリシャ語で「ロゴス」です。
すなわちそれは「知恵」をも意味します。「ことば」によって現されるイエス様が
知恵をもって、ことばのよって天地万物を造られたことが語られているのです。
人間を造るためにまず、神様は人間の住む環境を整えられました。
天地万物の創造の目的は人間を造ることであり、その人間はまた、
特別なものとして造られました。どのように特別だったのでしょうか。
創世記にはこのように書かれています。「そして神は、
『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。・・・』と仰せられた。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」(1:26,27)とあります。
神のかたちに人を造られたというのです。これは神が肉体をもっていて、頭があり、胴があり、
手があり、足があるというのではありません。ヨハネ伝に「
神は霊です」(4:24)とありますように、神は肉体をもたず、霊的な存在です。
ですから「神に似せた」とは、その霊的な点において同じものとして造られたということです。
ですから人間は霊において神と交わることができるのです。どんな未開の地に行っても
人間は偶像を造り拝む、自然を神としてあがめ拝むという行為をします。
しかし人間に近いと言われる猿は人間社会にどれだけ近いところで育ったとしても、
高崎山の猿が神社を造って礼拝行為をしたとか、日光猿軍団が興業の成功を祈願した
とかという話は聞くことができないのです。Tテサロニケには「
霊、たましい(心)、からだ」(5:23)とあります。これは人間の三位一体です。
けれども動物には、神と交わる霊の部分がありません。人間は神と交わることのできる存在
として特別に、神のみこころを満たすことのできる存在として造られたのです。
霊的本質において、神に似せて造られたのです。ですから創造の目的からして、
人間は神から離れたものとなってしまったら、本質的にその存在の意義を失ってしまうのです。
まず創造主の元に帰ることが、
神より失われた人間のしなければならないことではないでしょうか。
ところで、人間を造るとき、神は「われわれに似るように、
われわれのかたちに、人を造ろう。」と言われました。「
神は唯一です」(Tテモテ2:5)と矛盾する複数が用いられています。
この矛盾を言い表したことばが、神の三位一体です。神はそのあらわれとして「父なる神」
「子なる神であるイエス・キリスト」そして「聖霊」として示されます。
けれどもその本質は唯一なのです。たいへん説明が難しいところですが、
事実聖書には神はそのように示されているのです。三位一体の神を説明するとき、
人間の知識では理解しにくいことですが、例えば先ほどの人間の三位一体を考えてみると
何となくわかっていただけるのではないでしょうか。私という人物はひとりですが、
ある場合、その霊の部分に焦点を当て、またあるときは心の部分を語り、
またあるときはからだの特徴を語ることができるでしょう。
ひとりの人物でも見るところを違えるといろいろな面を語ることができるのと
同じことなのではないでしょうか。
天地万物を創造されたとき、父なる神様がこれを計画されてイエス様に命じ、
イエス様がことばをもって造られた、と理解することができるのではないでしょうか。
「人は、たとい全世界を手に入れても、
まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、
人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)とあります。
そういえるのは、神が人間を尊く造られたからです。けっして進化によっては人間の尊厳を
語ることはできないのです。あなたはかけがえのない人です。そう語るのは両親であり、
あなたを知る方です。しかし100年の後の人は誰もあなたを知る人はいなくなるのです。
それでもあなたは尊い存在です。それを語ることができるのは
あなたを造られこよなく愛しておられる神様だけなのです。
どれだけ尊く思われているでしょうか。ひとり子イエス様を犠牲にするほどです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、
世(あなた)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
あなたの身代わりとして御子を殺すほど愛しているのです。
どうぞこのこよなくあなたを愛しておられる神様を知ってください。