ダビデに関して長い間、ご紹介してきましたが、今回から少しソロモンのことから、
いろいろと考えたいと思います。今回は、その「知恵」に注目したいと思います。
王位継承に伴う混乱が収まり、イスラエル「王国は
ソロモンによって確立した」(T列王記2:46)そのとき、
神様がソロモンの夢のうちに現れて「あなたに何を与えようか。
願え。」(T列王記3:5)と仰せられました。するとソロモンは
「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心を
しもべに与えてください。さもなければ、
だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
(T列王記3:7〜9)と答えます。「この願い事は
主の御心にかなった」(T列王記3:10)ことでした。そこで神様は
「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、
自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、
自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、
わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と
判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、
あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。」(T列王記3:11〜12)と
「知恵の心と判断する心」をお与えになりました。
さっそく神様がソロモンに与えられた知恵を証明する訴えが起きます。
「ふたりの遊女が王のところに来て」
(T列王記3:16)裁判をしてくれるよう嘆願するのです。その箇所をそのまま引用しましょう。
「ひとりの女が言った。
「わが君。私とこの女とは同じ家に住んでおります。
私はこの女といっしょに家にいるとき子どもを産みました。
ところが、私が子どもを産んで三日たつと、この女も子どもを産みました。
家には私たちのほか、だれもいっしょにいた者はなく、家にはただ私たちふたりだけでした。
ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。
この女が自分の子の上に伏したからです。この女は夜中に起きて
、はしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って
、自分のふところに抱いて寝かせ、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。
朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう、
子どもは死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、まあ、
その子は私が産んだ子ではないのです。すると、もうひとりの女が言った。
「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」
先の女は言った。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」
こうして、女たちは王の前で言い合った。そこで王は言った。
「ひとりは『生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子だ。』と言い、
また、もうひとりは『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ。』
と言う。」そして、王は、「剣をここに持って来なさい。」と命じた。
剣が王の前に持って来られると、王は言った。「生きている子どもを二つに断ち切り、
半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」すると、生きている子の母親は、
自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君。
どうか、その生きている子をあの女にあげてください。
決してその子を殺さないでください。」しかし、もうひとりの女は、
「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」と言った。
そこで王は宣告を下して言った。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。
決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」
イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。
神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。」
(T列王記3:17〜28) 痛快ですね。
さらにソロモンの知恵について、このようにも紹介されています。
「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、
海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。それでソロモンの知恵は、
東のすべての人々の知恵と、エジプト人のすべての知恵とにまさっていた。
・・・それで、彼の名声は周辺のすべての国々に広がった。彼は三千の箴言を語り、
彼の歌は一千五首もあった。彼はレバノンの杉の木から、
石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣や鳥やはうものや魚についても語った。
ソロモンの知恵を聞くために、すべての国の人々や、
彼の知恵のうわさを聞いた国のすべての王たちがやって来た。」
(T列王記4:29〜34)
「シェバの女王」の名をご存知でしょう。名曲にもなっていますね。
ソロモンの知恵のうわさは遠くアラビア半島南西端の国にまで届きました。
シェバの女王がやってきて、ソロモン王に面会した箇所をそのまま引用します。
「ときに、シェバの女王が、
主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって彼をためそうとして、
やって来た。彼女は、非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と、
非常に多くの金および宝石を載せて、エルサレムにやって来た。
彼女はソロモンのところに来ると、心にあったすべてのことを彼に質問した。
ソロモンは、彼女のすべての質問を説き明かした。王がわからなくて、
彼女に説き明かせなかったことは何一つなかった。シェバの女王は、
ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、その食卓の料理、
列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たち、および、
彼が主の宮でささげた全焼のいけにえを見て、息も止まるばかりであった。
彼女は王に言った。「私が国であなたの事績と
あなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。実は、私は、
自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、
驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。
あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。
なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。
いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。
あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、
主はほむべきかな。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、
あなたを王とし、公正と正義とを行なわせられるのです。」」(T列王記10:1〜9)
これがイスラエルの民をさばくために与えられたソロモンの知恵の魅力です。
旧約聖書にある「箴言」、「伝道者の書」、「雅歌」の3つの詩歌は、
ソロモンによるものです。「彼は三千の箴言を語り、
彼の歌は一千五首もあった。」(T列王記4:32)と記されていたまさに、それです。
ここからは「箴言」を見てみましょう。一言でいうと、
私たちがこの地上をどのように生きていったらよいか、その知恵に満ちた書物です。
ソロモンがその生涯を通して書きためたものや、その他の人が残した箴言を、
後の人がまとめたものです。ちょうど31章あるので、毎日1章ずつ読むと、
1ヶ月で読むことができます。
「箴言」は、人生訓、処世訓、格言集のようなものです。
しかし一般にある人生訓と違う点は、イスラエルの神、生けるまことの神を知る者が、
これを記しているということです。ですから単にソロモンがその人生から学んだことを、
ソロモンの子どもや後世に伝えるというのではなく、
神からの知恵を伝えようとしていることに大きな意義があると思います。
ですから、箴言を貫いている思想は、
「神様(主)を人生の中心に置くべきである」ということです。
「主を恐れることは知識の初めである。」
(箴言1:7)とあります。また「主を恐れることは
知恵の初め」(箴言9:10)とあります。箴言、
すなわち人生の知恵の書物が語るその中心は、
真の知恵、知識とは「主を恐れること」
であるというのです。
箴言は、当然のごとく、「知恵を求めよ」(2:2)
と勧めます。知恵を求めるならば、そのとき主を恐れることを悟り、
神の知恵を見出し(2:5)、またそのとき、善悪を正しく判断することができるようになる(2:9)
と言います。
「主を恐れる」とはどういうことでしょうか。「恐れる」という言葉には、
2つの意味がありそうです。ひとつは「恐怖」、もうひとつは「尊敬」を含んだ意味でしょう。
「恐怖」を意味する例としては、アダムとエバが罪を犯したとき、
エデンの園で彼らを呼びかける神様の声を聞いたとき、
アダムは「恐れて、隠れた」(創世記3:10)
と言っています。罪が認められると神様を恐れるようになります。
アナニヤとサッピラが犯した罪に対して神様のさばきが下されたことを聞いた人々に
非常な恐れが生じた(使徒5:5、11)とあります。
罪とかかわりをもつと神様を恐れなければなりません。
「尊敬」を意味する例としては、イスラエルに与えられた神様の戒めの中に
「自分の母と父を恐れなければならない。」(レビ記19:3)と教えられています。
またイスラエルの民が、その指導者モーセやヨシュアを恐れた(ヨシュア記4:14)
と記されています。さいわいな様子ですね。このように神様を恐れ敬うことが
いつもできるならば、その人生は平安に満ちたさいわいなものとなるでしょう(28:14)。
箴言の中に「主を恐れる」という言葉が18回見られます。それを見ていくと、
主を恐れ知恵ある者でいるためには、悪から、また罪から離れるべきことを教えられます
(3:7、8:13、14:2、16:6、24:21、23:17)。
若いときは不良にあこがれる気持ちがあります。
親や先生のいうことを聞かないことがなぜかかっこよく思われるときがあります。
おとなになっても危ない橋を渡ることが度胸があるように思えてしまうことがあります。
けれどもそれに近づかないこと、関わりをもたないことが、
知恵ある者の姿であることが教えられます。
そして主を恐れるものの報いも記されています。「富と誉といのち」(22:4)とあります。
いのちを長らえ(10:27、14:27、19:23)ます。また「主を恐れる女はほめたたえられる」(31:30)ともあります。
「主を恐れる」とは、基本的には恐れ敬うという意味でしょう。けれども罪とかかわりをもつときには、怖れにもなるのです。
箴言の多くは2行からなる対句です。時には4行のときもあります。
たいへんコンパクトにわかりやすいものです。あるときは2行同じ思想の内容を並べていたり、
あるときはまったく反対のことを並べて対照を際立たせたり、
あるときは1行目で2つのことを示して2行目で総合的な説明をしています。
またあるときは1行目が比喩で2行目で説明をしています。たとえばこのようにです。
並行対句 22:1 | 「名声は多くの富よりも望ましい。 愛顧は銀や金にまさる。」 |
反対対句 22:3 | 「利口な者はわざわいを見て、これを避け、 わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。」 |
総合対句 22:2 | 「富む者と貧しい者とは互いに出会う。 これらすべてを造られたのは主である。」 |
比喩対句 26:11 | 「犬が自分の吐いた物に帰って来るように、 愚かな者は自分の愚かさをくり返す。」 |