旧約聖書は、創世記からエステル記までの「歴史書」、ヨブ記から雅歌までの「詩歌」、
そしてイザヤ書からマラキ書までの「預言書」によって構成されております。
今まで創世記から始めて、おおむね歴史の順を追って、旧約聖書からともに考えてきましたが、
今回はちょっと趣きを変えて「詩篇」を見てみたいと思います。というのは、
ここしばらく取り上げてまいりました旧約聖書の重要人物「ダビデ」と「詩篇」とは、
たいへん関係があるからです。「詩篇」は全部で150篇からなっております。
そのうちにはダビデが書いたもの、ダビデのために書いたものと思われる詩篇が、
たいへん多いのです。おそらく4/5程度を占めるのではないかと思います。
ダビデについて考える最後に、「詩篇」を見てみたいと思います。
「詩篇」の本質は、やっぱりヘブル語で「賛美の書」と言われるように、
神様を賛美することにあるのはまちがいないでしょう。そして神様への感謝、祈り。
その賛美、感謝、祈りの背景にあるものを知ると、私たちはさらにその詩の意味を深く理解し、
また共感することができるでしょう。もちろんともに神様を賛美することができると思います
「詩」は単に心に思い浮かんだ事柄を記録するというものではなく、
繰り返し読むことによって心にさらに深く刻んだり、ともに読むことによって共感したり、
共有したりするものといえるのではないでしょうか。その意味で、「詩篇」では、
覚えやすく思い出しやすく、共感しやすい工夫があると思います。
そのひとつは、歌になっているものが多いということです。
先日コンサートを聞く機会がありました。音楽にあまり親しんでいない小生にとっては、
知らない曲をずっと聞いているのはつまらないものです。しかし知っている曲、
特に歌詞まで知っている曲を聞くのは楽しいものでした。曲と詩、
これは一緒になってこそ、より楽しむことができる、といえると思います。
詩篇のタイトルを見ると、「〜の調べに合わせて」、「指揮者のために」、
「〜の賛歌」、「都上りの歌」と曲のついているものが、92もあるのです。
実に全詩篇の3/5強にも上ります。
もうひとつ、アルファベット詩篇というものがあります。これは記憶しやすいように、
ヘブル語のアルファベットの順番に初めの単語がスタートするように作られているのです。
日本語ならば「あいうえお」順、英語なら「ABC」順ということです。
いろはは48文字、英語は26文字、ヘブル語は22文字です。
ヘブル語のアルファベット22文字の順番にスタートするのです。覚えやすいでしょう。
歌の中から「69篇」を、アルファベット詩篇から「119篇」を見てみましょう。
「69篇」のタイトルは、「指揮者のために。
「ゆりの花」の調べに合わせて。ダビデの調べ」とあります。
「「ゆりの花」の調べに合わせて」は他に、
45、60、80篇にも見られます。このうち45篇とこの69篇は、
「メシア詩篇」とも言われるものです。「メシア詩篇」とは言うまでもなく、
イエス様のことを覚えることのできる詩篇ということです。
新約聖書には、旧約聖書からの引用が283回あるそうです。そのうち詩篇からは、
実に116回もあるのです。やっぱり新約聖書の著者たちにとっても
記憶しやすかったのでしょうね。そしてこの69篇からは、
5つの節から6回引用されているのです。そしてそれはメシヤ詩篇といわれるように、
イエス様について説明するために用いられています。
新約聖書に登場する順番に簡単に見てみましょう。
@イエス様が伝道を始めてまもなくの頃、
エルサレムの神殿で不当な商売をしている人たちに怒りをあらわにされたことがありました。
いわゆる「宮きよめ」の事件です。その出来事を見て
「弟子たちは、
「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」(詩篇69:9)と書いてあるのを
思い起こした。」(ヨハネ2:17)とあります。
A十字架に向かう前、この世を去って
父のみもとに行くべき自分のときが来たことを知られたイエス様は、
この地上に残していく弟子たちのために、必要なことすべてをお話になりました
(ヨハネ13〜16章)。その中で、弟子たちが世の人々から憎まれる、と言います。
それはすでに弟子たちがこの世のものではないからであり、
また先にイエス様ご自身が世から憎まれたことをお示しになります。
そしてイエス様が憎まれたのはみことばにあらかじめ記されていたこととして、
詩篇をイエス様ご自身が引用されます。「これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』(詩篇69:4)と
彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」(ヨハネ15:25)
B十字架で贖いの御業をなし終えたイエス様の様子がこのように記されています。
「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、
聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。
そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、
それをイエスの口もとに差し出した。」(ヨハネ19:28,29)
詩篇にはこのように記されていました。
「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、
私が渇いたときには酢を飲ませました。」(詩篇69:21)
Cペテロは、イエス様がオリーブ山から昇天されたあと、
イスカリオテ・ユダの欠員で12番目の弟子が新たに加えられるべきことを語ったときに、
ユダがイエス様を売った銀貨30枚を返された祭司長たちが買った地所について説明するくだりで、
「実は詩篇には、こう書いてあるのです。
『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』(詩篇69:25)」
(使徒1:20)と語っています。確かに旅人たちの墓地として使用され、
住むところにはなっていませんでした(マタイ27:7)。
Dパウロは、ローマ書9〜11章で、神様の救いのご計画について説き明かしております。
神様の選びの民イスラエルはその恵みに安んじて、彼らにメシヤが遣わされたとき、
これを拒絶してつまずき、救いが異邦人に及び、全人類に神の救いが示され、
そしてその完成のときがくるとイスラエルが救われる、ということでした。
今は異邦人の時代で、私たちにキリストの福音が伝えられております。
それも時間の制限があります。やがてその完成のときがやってきます。ですから、
「今は恵みの時、今は救いの日です。」
(Tコリント6:2)と言われている間に信じなければなりません。この説明をする際、
パウロは詩篇を引用します。「ダビデもこう言います。
「彼ら(イスラエル)の食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、
つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、
その背はいつまでもかがんでおれ。」(詩篇69:22,23)」(ローマ11:9)
Eパウロはまたローマのクリスチャンに対し、「隣人を喜ばせ、その徳を高め、
その人の益となるようにすべ」ことを勧めるときに、
イエス様の模範を詩篇を引用して教えます。「キリストでさえ、
ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、
「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」(詩篇69:9)
と書いてあるとおりです。」(ローマ15:3)
イエス様はもちろん、パウロもパリサイ人ですから、
旧約聖書に精通していたのはうなずけますが、ヨハネやペテロは漁師です。
でもその引用している様子から、詩篇をよく覚えていたことが伺えます。
それだけ調べに合わせた詩篇は覚えやすかったのだろうと思います。
「詩篇119篇」は詩篇の中で最も長い詩篇で176節あります。
逆に最も短い詩篇は117篇で2節しかありません。
アルファベット詩篇は119篇のほか、9、25、34、37、111、112、145篇の8つあります。
22文字が基本ですが、中にはとんでいるものもあって、20節であったり、
21節であったりしています。111、112篇は2つで1つです。
119篇は8行ずつ同じ単語で始まる構成になっていますから、
22文字×8回=176節となっているわけです。
さて、その内容ですが、「みことばについての詩篇」とも呼ばれているように、
神様のみことばを尊ぶべきことを語ったものです。各節に、「あなたのみおしえ」
「あなたのさとし」「あなたの戒め」「あなたのおきて」「あなたの仰せ」
「あなたのさばき」「あなたのことば」など表現を変えて、ほとんどの節に表されています。
その中で特に若者に対する勧めの節を紹介しましょう。
「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。
あなたのことば
に従ってそれを守ることです。」(詩篇119:8)
そのとおりでしょう。心に留めていただけたらさいわいです。
参考までに「みことばについての詩篇」として覚えられるのは他に、1、19篇があります。
詩篇は誰が書いたのでしょうか? すでに最初に触れましたように、
その多くはダビデによるものであったり、ダビデのためにかかれたものです。
タイトルから拾うとこのようになります。
第1巻 1〜41篇
ダビデ 3〜9、11〜32、34〜41 計37篇
第2巻 42〜72篇
コラの子たち 42、44〜49 計7篇
アサフ 50 計1篇
ダビデ 51〜66、68〜70 計19篇
ソロモン 72 計1篇
第3巻 73〜89篇
アサフ 73〜83 計11篇
コラの子たち 84〜85、87〜88 計4篇
ダビデ 86 計1篇
エタン 89 計1篇
第4巻 90〜106篇
モーセ 90 計1篇
ダビデ 101、103 計2篇
第5巻 107〜150篇
ダビデ 108,109,110,122,124,131,133,138〜145篇 計15篇
ソロモン 127 計1篇
以上を合計すると、ダビデ74篇、コラの子たち11篇、アサフ12篇、エタン1篇、
ソロモン2篇、モーセ1篇ということになります。コラの子たちとは、
ダビデの歌うたいです(T歴代誌6:31,32、9:19,22,33)。アサフはヘマン、
エドトン(エタン)とならんで、ダビデの歌うたいでした(T歴代誌6:33,39,44、15:16〜19、
16:37〜42)。ラッパやシンバル、その他の楽器を用いて歌ったようです。
ダビデの関係を改めて集計すると、実にタイトルからは98篇もあるということになります。
タイトルのないもののうち、前後関係や歴史書から
明らかにダビデのものと思われるものをたすとおそらく全詩篇の4/5が
ダビデの関係の歌といえると思います。
ちょっと脱線しますけど、聖書全体を編集した人も当然いるわけですが、
詩篇もモーセ(BC1400頃)、ダビデ(BC1000頃)、ソロモンとなってくると、
そして137篇のようにバビロン捕囚の時代(BC450頃)のものまで含まれていることを考えると、
ずっと後の時代にまとめられたと想像されます。エズラによって完成されたようです。
ダビデについては今まで、サムエル記(歴史書)をとおしてずっと見てまいりました。
歴史は事実を伝えてくれます。出来事から多くの教訓を私たちは学ぶことができます。
しかしそのときの人の心の深いところまで探ることはできません。
それを教えてくれるのが詩歌です。そしてこの詩篇の中から
実にダビデのそのときそのときの心境がよくわかるのです。
出来事に関連しては3つのグループがあると思います。1つめはサウル王に追われていたとき、
2つめは罪を犯したとき、そして3つめは息子アブシャロムの反乱のとき、
と言えるのではないかと思います。
まずサウル王に追われていたときですが、
これはタイトルからもはっきりと知ることができます。歴史の順序に従って書きますと、
59篇 Tサムエル記19:10〜17 タイトルに
「ダビデを殺そうと、サウルが人々を遣わし、
彼らがその家の見張りをしたときに」
56篇 Tサムエル記21:10,11 タイトルに
「ペリシテ人が、ガテでダビデを捕えたときに」
34篇 Tサムエル記21:10〜15 タイトルに
「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気違いを装い、
彼に追われて去ったとき」
57篇 Tサムエル記22:1 タイトルに
「ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに」
142篇 Tサムエル記22:1 タイトルに
「彼(ダビデ)が洞窟にいたときに。祈り」
52篇 Tサムエル記22:9 タイトルに
「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、
彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た。」と言ったときに」
54篇 Tサムエル記23:19、26:1 タイトルに
「ジフの人たちが来て、
「ダビデはわれらの所に隠れているではないか。」とサウルに言ったとき」
18篇 Uサムエル記22:1 タイトルに
「主が、彼のすべての敵の手、
特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った」
次は、罪を犯し悔い改めたときダビデが詠んだ詩篇ですが、
6、25、32、38、51、143篇があります。以前「ダビデの悔い改め」というテーマで、
特に32、51篇については触れました。Uサムエル記12章の出来事です。
102、130篇も悔い改めの詩篇です。
そして、アブシャロムの反乱のときに詠んだ詩篇ですが、
41篇 Uサムエル記15章 ダビデの病気が反乱の機会を与えたこと、
信頼する友アヒトフェルの裏切りがあったことがわかります。
55篇 Uサムエル記15章 ここでは特にアヒトフェルの裏切りについて語っています。
3、4、5篇 Uサムエル記15〜17章 3篇のタイトルは
「ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌」
4、5篇のタイトルではアブシャロムに触れていませんが、一連の歌と思われます。
そこには神様によって守られている平安をみることができます。
61篇 「彼が、神の御前で、
いつまでも王座に着いているようにしてください。」(61:7)
とあることからアブシャロムの反乱のときに詠まれたものかもしれません。
143篇 Uサムエル記17〜18章 助けと導きを求める「悔改めの詩篇」。
たぶんこのときの歌と思われます。
63篇 Uサムエル記16:2
タイトルに「彼(ダビデ)がユダの荒野にいたときに」
ここで勝利を確信しているようです。
これらはいずれもダビデが苦しい状況におかれていたときの詩篇です。
私たちも苦しい立場に置かれるときがあります。
ダビデはそのようなときにどのようにしたでしょう。神様はどうなさったでしょうか。
まだ見ていない出来事を見るため、詩篇34篇を考えてみたいと思います。
すでに書きましたが、「彼(ダビデ)が
アビメレクの前で気違いを装い、彼に追われて去ったとき」(タイトル)のことです。
これ以前の記事から少し見てみましょう。
サウル王がダビデに殺意を持っていることを知ったヨナタンが、
新月祭の食事の席でサウル王の真意を確認し、ダビデをサウル王のもとから逃亡させます
(Tサムエル記20章)。ダビデはこのときからたった一人で逃亡生活をするのですが
、途中ノブの祭司アヒメレクのところに寄った上で(Tサムエル記21:1〜9)、
さらにペリシテ人の地に逃れていきます。ここにダビデの大きな失敗があります。
たとえ命からがら逃れてきたとはいえ、イスラエルの敵ペリシテの地に
足を踏み入れるべきではありませんでした。確かにサウル王から逃れるためには、
そこは手が届かない安全な地に思えたかもしれません。しかしそこはかつて少年ダビデが
「私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、
万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」
(Tサムエル17:45)と言って戦った神の選民イスラエルの敵ペリシテ人の地であり、
ダビデがサウル王に召し抱えられてから盛んに出て行っては戦い、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」(Tサムエル18:7)
と賞賛されたその相手の地でありました。このとき明らかにダビデは神様の加護よりも
サウル王を恐れていました。ダビデはペリシテのガテのアキシュ王の庇護を
受けようとしますが、その家来たちは、ダビデのことをよく知っており、
ダビデをイスラエルの王だと言い、また「サウルは千を打ち、
ダビデは万を打った。」と歌われたその人だ、と捕らえてしまいます。
ダビデは今度は、アキシュ王を恐れます。ダビデが打ったペリシテ人は、
ガテのペリシテ人ではなかったかもしれません。それでもアキシュ王にとっては同胞です。
ダビデの命は風前の灯でした。「それでダビデは
・・・捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、
ひげによだれを流したりし」て気違いを装います。アキシュ王は、
かつてのダビデのペリシテに対する行為によって気違いと言えども
討ち取ってしまうならば同胞の賞賛が得られたでしょうに、不思議なことに、
ただ追放するだけで、事を終わりにしてしまうのです。ダビデは不信仰にはありましたが、
神様はアキシュの手からダビデを助け出されたのです(Tサムエル記21:10〜15)。
ダビデの信仰もこのときから回復します。
そしてこのときのことを詠ったのが詩篇34篇と56篇です。34篇を見てみましょう。
ちなみにこの34篇は「アルファベット詩篇」です。
ダビデが強くこの出来事を心に刻もうとしたことがわかります。
徳川家康の三方原の合戦に敗れた後、自らの肖像画を書かせ、
それを肌身離さず持っていたことは有名な話です。失敗には学ぶことが多いものです。
1〜3節は賛美、4〜7節はダビデのこのときの経験、そして8〜22節は勧めといえるでしょう。
ダビデは、サウル王を恐れ、アキシュ王を恐れました。
「私が主を求めると、主は答えてくださった。
私をすべての恐怖から
救い出してくださった。」(34:4) ダビデは主こそ恐れるべき御方であることを、
学びました。「主の使いは
主を恐れる者の回りに
陣を張り、彼らを助け出される。」(34:7)
「主を恐れよ。
その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。」(34:9)
「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。
主を恐れることを教えよう。」(34:11)
ダビデは自らを救うために、ペリシテの地に下って行きました。
それは更なる危険を呼びました。しかし、救いは主から来ました。
「私が主を求めると、主は答えてくださった。
私をすべての恐怖から救い出してくださった
。」(34:4)
「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、
彼らはすべての苦しみから
救われた。」
(34:6)「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、
彼らを助け出される
。」(34:7)「彼らが叫ぶと、
主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから
救い出される。主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を
救われる。
正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を
救い出される。」
(34:17〜19)
ダビデはサウル王から逃れて、アキシュ王に身を避けようとしました。
そして、主に身を避けるべきことを学びました。
「主のすばらしさを味わい、
これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者
は。」(34:8)
「主はそのしもべのたましいを贖い出される。
主に身を避ける者
は、だれも罪に定められない。」(34:22)
ダビデはアキシュによって助けられたかもしれません。
でも本当にダビデを助け出された方をダビデは知っていました。そして賛美します。
「私はあらゆる時に
主をほめたたえる
。私の口には、いつも、
主への賛美
がある。私のたましいは
主を誇る
。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに
主をほめよ
。共に、
御名をあがめよう
。」(34:1〜3)
しかしこれはすべての人に適用されるわけではありません。
「主を求める」(34:4)者、
「聖徒たち」(34:9)、
「正しい者」(34:15、19、21)、
「心の打ち砕かれた者・・・、
たましいの砕かれた者」(34:18)、「主・・・のしもべ、
主に身を避けるもの」(34:22)とダビデは表現しています。
今でいえば主イエス様の十字架の贖いの御業に身を寄せるもの、
ということではないでしょうか?
少しコーヒーブレイク。タイトルを見ていると、
「マスキール」とか
「ミクタム」とでてきます。
これらは何を意味するのでしょうか。
「マスキール」とは「黙想の詩」という意味だそうです。ダビデのマスキールは、
32、52〜55、142篇の6篇、コラの子たちのマスキールは、42、44、45篇の3篇、
ダビデの3人の歌うたいたちのマスキールは、アサフの、74、78篇の2篇、
ヘマンの88篇の1篇、エタンの89篇の1篇で、全部で13篇あります。
特にダビデ自身による6つのマスキールはいずれも先に取り上げたダビデにとって
最も苦しいときのものであって、ダビデ自身が繰り返し、
そのようなときに神様からの助けがあったことを、
つねに思い返すようにしていたことを思わせます。
「ミクタム」は「黄金の詩」という意味だそうです。16、56〜60篇の6篇で、
いずれもダビデによるものです。やはりサウルに追われていたときや、戦い、
それも敗北のときの詩です。60篇では、
特に「教えのためのダビデのミクタム」とありますから、
自分自身が思い返すだけでなく、他の人にも、救いは神様からくることを、
覚えてもらうため「黄金の詩」としたのではないでしょうか。
以上から教えられることは、「人の救いはむなしいもの
・・・神こそ、私たちの敵」(60:11,12)から救い出すことのできる御方です。
もちろんあらゆる場面で私たちを救い出すことのできる御方ですが、
何よりも私たちにとっての最大の敵である罪と死から私たちを救い出すことのできる御方は
十字架にかかった主キリストのほかおりません。
さて詩篇を読んでいてやはりその中にメシヤについての記述を見つけ出すことは
実にエキサイティングなことです。イエス様ご自身このように言われています。
「わたしについて
モーセの律法と預言者と
詩篇とに書いてある
ことは、必ず全部成就する」(ルカ24:44)
イエス様の時代より1000年も前の記述に、
メシヤについてはっきりと知ることができるのです。
「メシヤ詩篇」として覚えられるのは、
2、8、16、22、24、40、41、45、68、69、72、89、91、102、110、118、132篇などです。
「など」というのは、部分的にメシヤについての記述が含まれるため、
それを認めて「メシヤ詩篇」に加えるかどうかはたぶん人によって違ってくるからです。
ですから上に掲げたものの他にもメシヤについての記述を見つけることができると思います。
69篇についてはすでに触れましたが、
これらをだいたいの時間の順序に並べて見ましょう。
2篇 メシヤの職務上の栄光
40篇 メシヤの受肉(来臨)
91篇 荒野の試み
41篇 ユダの裏切り
69篇 メシヤの苦難(罪過のためのいけにえ)
22篇 メシヤの十字架での苦しみ
16篇 埋葬・復活・昇天
68篇 キリストの昇天
45篇 王なる花婿
24篇 栄光の王
110篇 祭司・王・さばき主
8篇 最後のアダム
72篇 千年王国におけるキリストの支配
89篇 メシヤの王座の永遠を神が誓う
132篇 ダビデの王座の永遠の世継ぎ
102篇 変わることのない御方
118篇「ハレル」の結び
これを見るとイエス様が単に2000年前にこの地上に現れただけの御方ではないことが
よくわかっていただけるでしょう。
さてこの中から22篇についてみてみたいと思います。
その前にこの22、23、24篇は、主イエス様の過去、
現在、未来の御姿であると教えられるのでそのことに触れておきたいと思います。
いずれもダビデの作です。22篇はイエス様の十字架の御苦しみが描かれています。
クリスチャンにとっては救われたことを覚えます。そして23篇は
「主は私の羊飼い」(23:1)とあるように、
クリスチャンの歩みを導かれる羊飼いとしてのイエス様のことを教えられます。
さらに24篇は、これもまたメシヤ詩篇ですが、
栄光の王として地上を支配されるイエス様の御姿が描かれています。
「手がきよく、心がきよらかな者、
そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人」(24:4)
が治める平和な時代がやってきます。
22篇は前半と後半に分かれます。前半は21節の2行目までです。
イエス様の十字架の御姿がはっきりと描かれています。1000年も後のことですが、
まるで後から記述されたかのようです。後半は十字架の御業の結果、
すべての民が主の御もとに帰ってくることを告げております。
前半からイエス様の十字架の御苦しみの様子を見てみたいと思います。
イエス様は朝9時に十字架につけられ3時に息を引き取られました。
午前の3時間は人によって苦しみを受けた時間として覚えられます。
そして午後の3時間は神様によって苦しみを受けた時間として覚えられます。
マタイ伝の記述はこうなっています。「さて、十二時から、
全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、
イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、
「わが神、わが神。
どうしてわたしをお見捨てになったのですか。
」という意味である。」(27:45,46)
神様からすべての人が地獄で受ける苦しみを負ってさばかれたこの時間の苦しみは
どれほど大きなものであったことでしょう。イエス様はその御苦しみの大きさを思って、
ゲッセマネの園で「わが父よ。できますならば、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)と祈られました。
イエス様によって創られた自然界は闇をもって創造主の御苦しみの御姿を覆いました。
その時間の終わりにイエス様は、神様に見捨てられたその御苦しみをことばにされました。
それが22篇の冒頭のことばです。「わが神、わが神。
どうして、私をお見捨てになったのですか。」(22:1)
永遠の昔から御父とともにおられて、ともに天地万物を御創造なさった御方が、
愛する対象として創った人間が、罪によって遠く離れてしまい、
これを再び御許に引き寄せようと、御計画なさった唯一の手段が、
罪のない御子を神の義をもってさばき、それを受け入れるものを回復しようとするものでした。
イエス様は御父とともにあって、自らを犠牲になさるその御計画を実行してくださいました。
それほどまでに私たちは創造主に愛されているのです。
詩篇22篇の記述は、人からのさばきが後から出てきます。
「私は虫けらです。人間ではありません。
人のそしり、民のさげすみです。」(22:6) ここからその具体的な記述があります。
十字架の場面では、午前の時間のことです。十字架の場面を追ってみてみましょう。
「私の手足を引き裂きました。」(22:16)
十字架につけられました。(マタイ27:35)
「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、
くじ引きにします。」(22:18) そのとおりローマの兵士たちが行いました。
(マタイ22:35)
「私を見る者はみな、私をあざけります。
彼らは口をとがらせ、頭を振ります。「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。
彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」」(22:7,8)
あざけりを受けました。道を行く人々、祭司長たち、律法学者、
長老たちのあざけりのことばが記されています。(マタイ27:39〜43)
その苦しめられる様子は、雄牛(22:12,21)、獅子(22:13,21)、犬ども(22:16,20)、
悪者ども(剣)の群れ(22:16,20)によって囲まれ襲いかかってくると表現されています。
この神からの苦しみ、人からの苦しみ、
すべて私たちに変わってイエス様が十字架の上で受けてくださり、
私たちに下るべきさばきを過ぎ去らせてくださったのです。感謝して受けなければなりません。
最初に記しましたが、詩篇はなんといってもやはり、「賛美の書」です。
いろいろな困難の中から賛美に導かれる詩篇をたくさん見てきましたが、
賛美のための詩篇というものもあります。
後ろのほうにそれらの詩篇がまとめられているようです。
「エジプト・ハレル詩篇」 113〜118篇 エジプトから救い出されたことを祝う歌。
過越の祭などのときに歌われ、イエス様も最後の晩餐のときに歌ったようです。
(マタイ26:30) 118篇は「メシヤ詩篇」でもあります。
「都上りの歌」 120〜134篇
エルサレムの神殿に礼拝に向かうときに、あるいは神殿において歌う歌。
132篇は「メシヤ詩篇」でもあります。
「感謝の詩篇」 135〜139篇
「ハレルヤ詩篇」 146〜150篇 「ハレルヤ」とは「賛美せよ」という意味です。
私たちは救いの喜びを持って、つねに主に向かって
「新しい歌」
(33:3、40:3、96:1、98:1、144:9、149:1)を歌うことができます。
天において贖われたものたちが「新しい歌」
(黙示録5:9、14:3)を歌います。
最後に「幸いなこと」を歌っている詩篇を拾ってみましょう。
人はそれぞれ幸せを求めて生きていると思います。それをお金や地位、
名誉に求めるわけですが、真に幸いなこととはどのようなことでしょう。
神様のみこころを詩篇の中にたずねることができると思います。
「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」(1:1)
「幸いなことよ。
すべて主に身を避ける人は。」(2:12)
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、
罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、
心に欺きのないその人は。」(32:1,2)
「幸いなことよ。主をおのれの神とする、
その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。」(33:12)
「幸いなことよ。
彼に身を避ける者は。」(34:8)
「幸いなことよ。主に信頼し、
高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。」(40:4)
「幸いなことよ。
弱っている者に心を配る人は。」(41:1)
「幸いなことよ。あなたが選び、
近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。」(65:4)
「なんと幸いなことでしょう。
あなたの家に住む人たちは。・・・なんと幸いなことでしょう。
その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
・・・なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。」(84:4,5,12)
「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。
主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。」(89:15)
「なんと幸いなことでしょう。
あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。」(94:12)
「幸いなことよ。さばきを守り、
正義を常に行なう人々は。」(106:3)
「幸いなことよ。主を恐れ、
その仰せを大いに喜ぶ人は。」(112:1)
「幸いなことよ。全き道を行く人々、
主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、
心を尽くして主を尋ね求める人々。」(119:1,2)
「幸いなことよ。
矢筒をその矢で満たしている人は。」(127:5)
「幸いなことよ。すべて主を恐れ、
主の道を歩む者は。」(128:1)
「バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。
おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、
なんと幸いなことよ。おまえの子どもたちを捕え、岩に打ちつける人は、
なんと幸いなことよ。」(137:8,9)
「幸いなことよ。
このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。」(144:15)
「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、
その神、主に望みを置く者は。」(146:5)
127篇は備えを教えています。137篇はバビロン捕囚のときの詩で、
敵に復讐できるものの幸いを歌ったものです。
ダビデは主に身を避けるものの幸いを歌い続けました。