詩篇121篇


はじめに

 詩篇120〜134篇は「都上りの歌」です。エルサレムへの巡礼の際、これらの詩篇を歌いながら、旅をしたと考えられています。そしてこの121篇は、その旅路の守りそのものを歌っているので、大変理解しやすく、共感できる詩篇であると思います。

 巡礼者のエルサレムへの旅は、まさしく私たちの天のエルサレムへの旅を思わせます。いろいろなことを思い、不安に襲われます。

 

詩の構造から

1,2節は、主語が「私は」、「私の助けは」(2回)で、その述語は「目を上げる」、「主から来る」です。そして3〜8節は、主語が「主は」(5回)で、目的語は「あなたを」(6回)、「あなたの足を」、「あなたの右の手を」、「あなたのいのちを」です。そして述語は「守る」、「守り」、「守られる」(計6回)です。

主については、まず「天地を造られた主」(2節)とあり、また「イスラエルを守る方」(4節)とあって、これらが前提となって、「主はあなたを守られる」という確信に至っています。

 少しずつ順を追って考えていきたいと思います。

 

目を上げる

 山(the hills 1節)は、低く連なる山々のことでしょう。イスラエルの北にはヘルモン山(2814m)が、南にはシナイ山(2286m)があります。そのような高い山でもなく、目指すシオンの山でもない。道々の周辺に連なる山々です。それは緑豊かな山ではなく、岩の多い荒涼とした丘陵です。

 歩くとき、前方をまた足元を見ながら、黙々と歩を進めます。頭の中をめぐるのは、エルサレムの神殿で主を礼拝するときを想像しての喜びもありますが、一方で旅路の不安があって、「私の助けは、どこから来るのだろうか。」(1節)ということばになりました。

 その不安を払拭したのは、足を止め、山を見上げたときです。「私の助けは、天地を造られた主から来る。」(2節)と言うことができました。すると、視界が大きく変わりました。

 

主は

今まで「私は」、「私の助けは」と言ってきました。けれどもここからはすべて「主は」と言っています。考え方の主体がすっかり入れ替わっています。そして「私は」と言っていた旅人自身については、「あなたを」に変わり、主が守られる対象者になっています。「天地を造られた主」(2節)を強く認識したとき、「主」が主体になりました。

 雅歌の娘は、初め「私の愛する方は私のもの」(2:16)と言っていましたが、「私は、私の愛する方のもの」(6:3)が先になり、ただ「私は、私の愛する方のもの」(7:10)になっていきます。主体が「私」から「愛する人」に変わります。主イエス様は、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)と初め祈りましたが、あとではただ「みこころのとおりをなさってください。」(42節)と祈られています。

 「私」から「主」へ、その主体が入れ替わるとき、ものの見え方がすっかり入れ替わり、「助け」がやってくるところを探すことから、万全な「守り」が備えられていることを確信し、「不安」はまったき「平安」に変わっています。環境は何も変わっていませんが、「天地を造られた主」(2節)に受け入れられているものであることを思ったとき、見えるものがすっかり変わり、さらにその主は今日まで「イスラエルを守」(4節)って来られた御方であることを思い起こしています。

 

イスラエルを守る方

 今、旅人が礼拝のために向っているエルサレムのゼルバベルの神殿は、まさしく主がイスラエルを「まどろむこともなく、眠ることもな」(4節)く守ってこられた象徴のようなものでした。

かつて民心の荒廃したエルサレムを思い、「助け」(ハバクク1:2)を求めた預言者ハバククの叫びに対して主は、バビロンによってエルサレムの中の悪者を一掃し、その上でバビロンを滅ぼし、イスラエルの正しい人、残りの者をもって、エルサレムの再建、神殿の再建を果たす、と語られました(3:13)。ハバククが願っていたよりはるかに壮大な計画を主はたてておられました。初めハバククは答えてくださらない主に対して業を煮やしていましたが、主はけっしてまどろんではおられませんでした。エルサレムの中の正しい人たちは守り抜かれただけでなく、学者エズラによる霊的な復興を経験しました。

その神殿再建の一翼を担ったのが総督ゼルバベルでした。その祖父エホヤキン王はユダ王国滅亡の前に、殺されずにバビロンに連れて行かれます(U歴代誌36:10)。その後ペルシャの王クロスがバビロンを滅ぼし、神殿再建の命を下し、ゼルバベルにそれを託します(エズラ1:8,10)。主はダビデの血筋を守られたのです。そればかりでなく、神殿の再建を果たされたのです。旅人は目指すエルサレムにあるゼルバベルの神殿で礼拝をささげることを思うとき、主はイスラレルを守る方であることを、強く思い起こさずにはいられませんでした。

「守る」ということは、何事も起こらない、ということではなく、より深く主を知って礼拝できるために「守り抜かれる」ということであるようです。この「イスラエルを守る方」が「あなた(私)を守る方」なのです。だから私の守りは万全です。

 

万全な守護

 旅人が不安に思ったことは3つ・・・健康、自然災害、そして不慮の事故です。

 主は、長旅で疲れ痛む「足をよろけさせず」(3節)、利き手が使えなくなることがないよう「右の手をおおう陰」(5節)になると言います。その際まどろむことはない、と念を押されます。ゲッセマネにおいて「一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。」(マタイ26:40)と指摘される主は片時も「まどろむこともなく、眠ることもな」(4節)く守ってくださいます。

 地域的にイスラエルの旅は、日射病になりやすいので、昼間の旅を避けて夜に入っても旅をすることもあったようです。しかし夜の月もわざわいの原因と考えられていたようですが、そのような自然からの災害からも守られると言います。

 そして「すべてのわざわいから」「いのちを守られる」(7節)と確信します。よきサマリヤ人の話にもあるように、強盗にいつ襲われないとも限らない旅です。そのような不慮の事故からも守られると言います。

 そればかりではありません。あらゆる場面で守るというだけでなく、「あなたを守る」(3.5.7.8節)と、私そのものが守られます。「天地を造られた主」(2節)、「イスラエルを守る方」(4節)が、守り抜いてくださることを旅人は確信しています。

 

いつまで

 今は、都エルサレムへの旅路にありますが、往路だけでなく復路も、そしてとこしえまでも守られる、と確信します(8節)。私たちの旅路も、罪と死とさばきから助けてくださった主が、天のエルサレムに凱旋するまで、守り抜いてくださいます。