サウル王


 今回もサムエル記第1から、今度はサウル王のことを書いてみたいと思います。 サウルはイスラエルの最初の王様ですから、神様の近くにいるという立場でした。 しかしながらその心は必ずしも神様に完全に従っていたと言えるものではありませんでした。 むしろ自分にこだわり続け、悔改めて神様に従う機会をついに最後まで、逃し続けた人でした。 実は多くの人はそれと同じ人生を送っていると言えるのではないでしょうか。 自然をみて神様の御存在を考えることがあるでしょう。 葬儀に出席すれば人生について考えることになるでしょう。 クリスチャンの友達がいればどうして信じることができるものだと考えることもあるでしょう。 にもかかわらず、多くの人は死の日まで悔改めて神に立ち返ることを拒み続けるのです。 悔改める機会を先送りにしてはいけません。

 まずサウルが最初に登場するところから見てみましょう。サウルは長身の美男子でした。 その出身はベニヤミン族でした。(9:1,2)イスラエル人が王を求めたとき、 神様はこのサウルを王として与えました。サムエルがサウルに、 王として神様が選ばれていることを告げたとき、サウルは 「私はイスラエルの部族のうちの 最も小さいベニヤミン人 ではありませんか。私の家族は、 ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。」 (9:21)と謙虚に答えています。実際そのように思っていたことでしょう。 彼の本性は必ずしもそのようなものではありませんでしたが、 彼を取り巻く環境はそのように答えさせるものでありました。 それは士師記19〜21章を読むとわかります。そこにはひとつの事件が記されています。 それはひとりの女性がよこしまな者たちの集団暴行で死に、 その女の主人がその恐るべき犯罪をイスラエル中に知らせるため、 女の死体を12の部分に切り分けてイスラエルの各部族に送ります。 すると各部族から40万の兵が集まり、ベニヤミン族に あのよこしまな者たちを引き渡すよう求めます。 けれどもベニヤミン族はそれに聞き従いません。そこでやむをえずイスラエル人たちは ベニヤミン族を討つのです。町々も焼き払います。そのためすっかりベニヤミン族は 部族として存続することができないほどまでになってしまいます。 そこにいたってイスラエルの人たちは同胞を救うため、 残ったベニヤミン族の者に妻をめとらせる算段をします。 戦いに出てこなかったヤベシュ・ギルアデの住民を討ち処女400人を確保します。 それでも足りず、シロの原住民から女たちを略奪してきます。 そうしてベニヤミン族は存続できることになりました。このようなことがあって、 サウルの家族も静かに住んでいたのではないかと思います。

 やがて正式にサウルはサムエルによって油を注がれ王として立ちます。 また民にもそれが示されます(10章)。するとまもなくアモン人ナハシュが ヤベシュ・ギルアデに戦陣を敷きます。 それに対してサウルがイスラエル全土に呼びかけると33万人の兵が集まり、 イスラエルはサウルのもと、勝利を収めます。 こうしてサウルの王権は誰もが認めるものとなります(11章)。 サウルが王となったのは30歳でした。

 しかしこの最初の大勝利がサウルのつまずきとなります。 あの謙虚であったサウルは人が変わったように、神様に全幅の信頼を置くのではなく、 自分の判断を入れるようになっていくのです。サウルの失敗が続きます。

 主の命令に従わないで全焼のいけにえをささげてしまいます。 このとき神様はサウルを退け別の人を君主に立てることを告げられます(13章)

 続いてペリシテとの戦いの際、食物を食べることを禁じる、という愚かな命令を下します。 そのためイスラエルに大勝利をもたらした最大の功労者息子ヨナタンは死ななければならない、 神の罰があると平気で宣言をするのです。愚かな命令もさることながら、 自分のことばに神様が同調すると完全に主客が転倒してしまいます。(14章)

 それから「アマレクを聖絶せよ」との神様の命令に従い戦いに出て行きますが、 アマレクの王アガクを生け捕り、羊や牛などを残しておきます。 この神様の御声に従わなかった行為は、主のことばを退けたこととして、 改めて神様はサウルを王位から退けた、と告げられます(15章)

 サウルは王になって最初の成功により高慢になってしまいました。 その本性が現われてしまったのです。誰もが陥りやすいことではありますが、 サウルも同じでした。

 これらの失敗により王位から退けられるという神様からのことばは サウルにとってはストレスになったでしょう。また常に外敵ペリシテとの戦いは 大変なストレスがあったと思います。原因はサウル自身にありましたが、 謙虚に自分自身を見つめるのではなく、それはダビデに対してねたみという形で向けられます。 ストレスの解消でしょうか。

 ペリシテの巨人ゴリアテを討ちとった少年ダビデはサウル王に仕えるようになります。 戦いに出ては勝利を収めるので戦士たちの長に取り立てられます。 その働きは女たちの人気を得、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」 と賞賛されるまでになります。これにサウルは「ダビデに万を当て、私には千を当てた。 彼にないのは王位だけだ。」と怒ります(18:5〜8)。

 サウルはダビデを千人隊の長に取り立てます。ダビデは常に民の先頭にたって戦いに出、 勝利を収めましたから、いよいよサウルはダビデを恐れます。 あるとき娘ミカルがダビデを愛していると知らされると一計を案じます。 「サウル王の婿になれ。」というわけです。これには条件がありました。 もと羊飼いのダビデには王家につりあう財産も地位もありません。 そこでペリシテ人の陽の皮(包皮=殺さなければ手にはいらない)100でよい、 ということです。ダビデをペリシテ人の手で倒そうというわけです。 ダビデはペリシテ人200人を打ち殺して、サウル王の娘ミカルを妻に迎えます。 サウルはますますダビデを恐れるようになります(18:12〜29)。

 脱線しますが、後にダビデも王座についたとき、姦淫の罪を隠すため、 敵に手によってその相手の夫を殺すという罪を重ねます。 そのとき預言者ナタンによってその罪を指摘されると。ダビデは悔改めるのです (Uサムエル11,12章)。 サウルはこの悔改めがないばかりか、後悔のかけらもありません。

 サウルはダビデを殺すことを息子ヨナタンや家来全部に告げます。 サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとします。 またサウルは家来たちをダビデの家に遣わし殺そうとします。 このときは妻ミカルの機転でダビデは難を逃れます(19章)

 新月祭の食事は、サウルを囲んで息子ヨナタン、将軍アブネル、 そしてダビデなどがいつもともにしていたようです。ある新月祭の食事のとき、 ダビデとヨナタンはダビデの身の危険を感じて一計を案じ、ダビデは欠席します。 するとサウルは、ヨナタンにその理由を問いただしますが、ヨナタンの答えに怒り、 ヨナタンとその母(当然サウルの妻です)をののしり、 槍をヨナタンに投げつけて打ち殺そうとするのです。ダビデに対するねたみは、 あろうことか、ダビデと親しい息子ヨナタンをも殺そうとする行為にまで及びます(20章)。

 ダビデはサウルから逃れて、ノブの祭司アヒメレクのところに行きます。 そこでパンとゴリアテの剣を貰い受けます。 この情報を得たサウルはアヒメレクとノブの祭司たちを呼び寄せます。 そして事の次第を問いただし、アヒメレクとノブの祭司85人を殺してしまいます。 そればかりでなくノブの男も女も、子どもも乳飲み子も、 牛もろばも羊も剣の刃で打ってしまいます。まさに狂気の沙汰です。 ダビデに対するねたみは罪もない人たち、 それも神の祭司たちを惨殺するということに発展してしまいました(22章)

 自分自身を見つめ反省するべきなのに、その矛先をダビデに向けたばかりでなく、 愚かにもさらにまちがった方向にエスカレートさせてしまうサウルでした。

 けれども神様はこのようなサウルであっても、悔改める機会を備えてくださっております。 2回同じような出来事が起こります。

 1回目はサウルがダビデを追って3,000の兵を率いて エン・ケディの荒野にやってきたときでした。用を足すためにひとりほら穴に入り、 かがんで済ませて出てくると、後ろから「王よ」と声がかかります。 振り向くとそこにダビデがいます。そして「なぜあなたは私の命を狙うのですか。」 と聞きます。また「今しがた神様があなたの命を私にお渡しになったのに、 私はあなたを殺しませんでした。見てください。ここにあなたの衣のすそがあります。」 と言います。見るとダビデの手には切り取られたサウルの衣のすそがあります。 すっかり油断して気持ちよく用を足していたそのほら穴の奥に ダビデとその部下たちがいたのです。 衣のすそが切り取られたことさえも気がつきませんでした。ダビデの真実を聞いて、 サウルは声をあげて泣きます。そして「あなたは私によくしてくれたのに、 私はあなたに悪いしうちをした。」と後悔のことばを口にします(24章)。

 けれどもまたサウルは同じことを繰り返します。2回目はサウルがダビデを追って、 やはり3,000の兵を率いてジフの荒野に下り、陣を敷いていたときのことです。 サウルは幕営の中で横になって寝ていました。兵士たちもその周りに宿営していました。 すると遠く離れた山の頂上から将軍アブネルを呼びつける者がいます。 ダビデです。「おまえはなぜ、 自分の主君である王を見張っていなかったのだ。兵士のひとりが、 おまえの主君である王を殺しにはいり込んだのに。おまえのやったことは良くない。 ・・・今、王の枕もとにあった王の槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。 」これを聞いてサウル王はまたしても「私は罪を犯した。 ・・・ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」 と言い表しますが、その後の記事を読むと、やはりサウルは変わっていないのです。 後悔しても悔改めることはありませんでした(26章)

 イエス様の弟子のひとりイスカリオテ・ユダのことはご存知でしょう。 彼は銀貨30枚でイエス様を売ってしまうのですが、その直前、 最後の晩餐の席でイエス様は、弟子たちのうちのひとりがイエス様を裏切ると告げます。 ユダは「まさか私のことではないでしょう。」 と言いますが、「いや、そうだ。」と言われます。 このとき、ユダは悔改めて、イエス様を売ることを思いとどまることができたのですが、 残念ながらそうしませんでした(マタイ26:20〜25)。 後に彼は後悔して、銀貨を返しますが、首をつって死にます。 最後まで悔改めることがありませんでした(マタイ27:3〜5)。

 ユダはイエス様と一緒に行動していて、その力あることばとわざを見ていて いつでも悔改める機会はあったことでしょう。にもかかわらず最後のときになってなお イエス様は悔改めの機会を与えてくださいました。 残念ながら彼はその機会を逃してしまいました。

 サウルも同じです。その最後のときが近づいているとき、 神様はダビデをとおして2回、悔改める機会を備えてくださいました。 残念ながら後悔はしても、けっして悔改めることはありませんでした。 神様が用意してくださった機会を失ってしまいます。

サウルはペリシテとの戦いで戦死します(31章)。

 サウルは見かけの謙遜と見栄えのよい姿によって王に選ばれますが(9,10章)、 最初の大勝利によって神様のみこころに従順であることよりも、 自分の考えや感情を優先して神様に見捨てられ(11〜15章、 自分を見つめなおすべきところをダビデの人気をねたみ、 その矛先をダビデに向け(18〜22章)、それでも神様に悔改める機会をいただきながら、 最後まで自分を変えることがなく(24,26章)、不安の中に死んでいくのです(28,31章)。

 最初に書きましたが、多くの人はけっしてイエス様に出合う機会がないのではなく、 自らそのときを逃しているのではないでしょうか。

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