法律を学んでいたマルティン・ルターは、22才のとき、落雷に遭い、死の恐怖を経験します。
そのことがきっかけで、修道士になります。
ルターは、修道院でたいへんまじめに祈りと聖書研究、断食に奉仕、そして清い生活に努めます。
その結果早くも2年後には司祭に任じられミサを執り行うようになります。
しかし非の打ち所のない修道士としての生活をしていたものの、その実は、神の御前における罪に苦しみ、
罪の告白によって告悔司祭に示された償いの行為(注:まちがった教え)をしても、
神の御前に罪の赦しが得られたという確信が得られず、苦しみもがいていました。
そんなルターでしたが、勉学のほうは順調で、29才で神学博士となり、翌年からは聖書教授として旧約聖書を、 さらに3年後には新約聖書の講義を受け持つようになります。そして「ローマ人への手紙」の講義に際し、 ルターはかねてより自分を不安に陥れていた「神の義」について熟考します。
ルターが困惑したのは「福音のうちには神の義が啓示されていて」(1:17)というみことばでした。 ルターの経験と相反していたからです。ルターにとって「神の義」は、それを満たすために努力すればするほど 自分自身のうちにある罪の性質がクローズアップされ苦しめられるものでした。 しかし続く「義人は信仰によって生きる」(1:17)というみことばに注目します。そして、義人とは、 自分の義によって生きる人ではなく、信仰によって生きる人、すなわち神様が義と認めてくださったことを 感謝して生きる人、であると考えます。ルターは、神の恵みにより、キリストの十字架によって備えられていた 「神の義」に気づくのです。それを信じ受け入れさえすればよかったのです。福音のうちに啓示されている 「神の義」を正しく理解したとき、ルターは彼を苦しめていた罪の問題の解決を得、 完全な救いを喜ぶことができました。
福音の正しい理解に到って、ルターはいろいろなことが見えるようになります。 そのひとつが教会によって行われていた、ルター自身も苦しんだ、罪の赦しを得るための行ないや 金銭を求めることであり、そういう問題点を議論すべく掲示したのが「95ヶ条の提題」でした。 それはルターが思っていたところを超えて大きな事柄になり、やがて宗教改革へと発展していくことになります。
ローマ人への手紙を記したパウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、 私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(7:24,25) と言っています。神様から一方的に与えられた恵みによって神に義と認められた喜びをパウロは感謝しています。 ルターもここに到達したとき、かつての不安から解放され、救いの喜びに浸ったのです。
皆さんは、自分の行ないによってなお神に近づこうとされてはいないでしょうか。 「神の義」はすでにイエス様によって備えられています。今はただ感謝して受け入れる信仰だけで、 神に義と認められるのです。