先回、ローマ人への手紙のテーマは「福音」であるとすでに書きました。パウロは手紙の冒頭の挨拶の中で、「福音は・・・御子に関することです。」(1:2,3)と語ります。この私たちへの良い知らせ(福音)は、ひとりの人物に大きく依存することであるとわかります。ですからパウロはさらに詳しくそのキーマンを紹介します。まず「肉によればダビデの子孫」(1:3)、次に「御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」(1:4)、そして「主イエス・キリスト」(1:4)です、と。
この三つのことをもう少し考えてみましょう。
主イエス・キリスト
まず最後の「主イエス・キリスト」(1:4)です。すでに当時のローマでもイエス様はこの称号で呼ばれていたと思いますが、実はこれは、敬称・名前・姓かと言うとそうではありません。名前と称号と言ったらいいでしょうか。安倍晋三ではなく安倍総理大臣というようなものです。そして「イエス」という名は当時とてもポピュラーな名前であったようで、一時代前の、太郎、一郎のようなものでした。そしてその名は「救い主」という意味を持っていました。イエス様の当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありましたから、民族の独立を願って「イエス」と名付ける親が多かったのでしょう。次にキリスト、という称号。これはギリシャ語ですが、ヘブル語で「メシヤ」、日本語では「救い主」です。ですから、イエス・キリストというと「救い主・救い主」ということになります。そしてパウロはさらにその上に「主」を加えました。それは「主人」ということです。その名が示すとおりに、主イエス・キリストは私たちの魂の救い主です。それにふさわしい御方なのでしょうか?
ダビデの子孫
次は「肉によればダビデの子孫」(1:3)ということです。「ダビデの子孫」であることに特別な意味があるということでしょう。新約聖書の最初のマタイの福音書の冒頭も「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(1:1)で始まります。そしてアブラハムからダビデを経由してイエス様に至る系図が記されています。何を意味しているのでしょうか。それはイエス様よりも二千年前のアブラハムに、そして一千年前のダビデに、神様はその子孫から救い主を誕生させるという約束があったからでした。ダビデについては、「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。・・・あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(Uサムエル7:12〜16) 直接的にはその子ソロモンのことですが、同時にイスラエルの永遠の王、救世主の登場を意味する預言でした。ですから歴史的に他国の支配を受け続けたユダヤ人にとっては、自主独立、さらに全世界を統治するダビデの子孫、ユダヤ人の王の誕生は民族の悲願でした。イエス様がこの地上におられたときにも、イエス様を救い主と認める人はイエス様を「ダビデの子よ」(マタイ9:27,15:22,20:30,31)と呼び掛けております。ですから、「ダビデの子孫」と言えば、イエス様は神様から約束されていた救い主である、ということを端的に言い表した表現であったのです。
神の御子
そして「御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」(1:4)です。ここは二つに分けて考えたいと思います。
まず「御霊によれば」ということです。先に「肉によればダビデの子孫」(1:3)とありました。言うなれば「人としての誕生から言えば」ということでしょうか。それに対し「御霊によれば」というのは「神の観点から理解して初めて分かることですが」と言ったらいいでしょうか。誕生の、神様の千年、二千年、変わらない真実なご性質から成就したことですが、よみがえりや神の御子としての立場は、さらに神の力、神の本質を理解しなければけっして納得できることではないでしょう。しかしこのことも大切な事実です。
次に、「神の御子として示された方」(1:4)とあります。ここでは「復活により」(1:4)としか出てきません。十字架と復活は福音の両輪ですが、御子については復活だけです。どういうことでしょうか。
十字架はまさしく神の御子が人に代わって罪のさばきを神よりお受けくださったものです。十字架に向かって、イエス様はまったく神としての力を用いず、罪人としてさばきについてくださいました。イエス様を捕えに来た者を前にして「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(マタイ26:54,55)とおっしゃって自ら捕縛されました。十字架にかかっているときには、「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。」(マタイ27:42)と罵倒されています。ですから十字架そのものには神の御子としての姿はけっして見られないのです。
けれども死者の中からよみがえりました。そのときには「大能によって」(1:4)とありますが、いのちの君であられる御方ですから、死はこの御方を留めておくことができないで、死者の中から当然のごとく復活されました。
弟子たちは単にイスラエルの救世主としてではなく、神の御子としてのイエス様を、よみがえったイエス様にお会いして、確信します。ですから復活した主イエス様にお会いする前に恐れ隠れていた者たちが、大胆によみがえった主イエス様を宣べ伝える者となりました。「使徒の働き」の弟子たちの伝道では、必ず力強くキリストがよみがえったことが語られています。それは、救いの保証であり、永遠のいのちを約束することでした。神の御子であることが、そのよみがえりによって証明されるのです。
こういうわけでイエス様は、肉によればダビデの子、御霊によればよみがえりにより神の御子として示された御方です。
救いは御子による
さて、また初めに戻りますが、「福音は・・・(神の)御子に関することです。」(1:2,3)とありました。イエス様を人、偉大な宗教者であると考えるか、神の御子であると考えるか、ではまったく異なってきます。パウロは「この福音によって救われるのです。」(Tコリント15:2)と語った後、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」(15:3,4)と福音のベースになっているのは、十字架と復活であると語っています。多くの宗教はその偉大な宗教家の教えを信じているのですが、いわゆるキリスト教は、イエス・キリストを信じるのです。神の御子が私たちの罪のために死なれ、私たちの救いの保証としてよみがえられたのであれば、私たちの罪の購い、魂の救い、からだのよみがえり、永遠のいのちは確かなことであると信じることができます。ですから、イエス様が神の御子であるかどうかということが、最も大きな問題となってくるのです。
イエス様は神の御子
ヨハネの福音書を読むと、イエス様が「わたしは○○です。」と語られた記事が七つ出てきます。そのひとつひとつを追っていくと、イエス様が神の御子であり、私たちに永遠の祝福をもたらしてくださる御方であることがよくわかります。
「わたしはいのちのパンです。」(6:48) 「天から下ってきて、世にいのちを与える」(6:33)イエス様を信じる者は永遠のいのちを持つのです。このことをわかりやすく教えるために、五つのパンと二匹の魚で五千人の腹を満たしてから、ご自身について語りました。
「わたしは世の光です。」(8:12) 「人の光である」(1:4)イエス様の光に照らされて、私たちも世に光を放つ者となります。このお話の前に、罪深い女がイエス様の光によってその心が照らされ罪に束縛された生活から解放された記事が記されています。またそのあとには、生まれつきの盲人の目が開けられ、そのことにより心の目が開かれた記事が記されています。
「わたしは羊の門です。」(10:7) イエス様という門の中に入るなら、悪しきものから守られ、養われ続けます。
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(10:11) 私たちを守り導くだけでなく、十字架の上にいのちを捨てて、死によって私たちを支配している悪しき狼、暗闇の支配者悪魔から解放してくださいます。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。」(11:25) いのちの主権者であるイエス様は、信じる者をやがて栄光の体によみがえらせることを約束しています。イエス様自身もその初穂としてよみがえる(Tコリント15:20)わけですが、このお話の後、ラザロをよみがえらせます。また以前には、少女を(ルカ8:55)、また青年を(ルカ7:15)よみがえらせた記事も記されています。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6) イエス様は十字架により神と人との仲保者となってくださり、天の御国へ至る道となってくださいました。
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(15:1) 人生において神様にとっての良い実を実らせるためには、イエス様に繋がっていなければなりません。
このように、神の御子イエス様は、私たちを暗闇の支配者悪魔から解放してくださったばかりではなく、私たちを養い導き、神様にとって良い実を実らせる豊かな人生を歩ませ、さらに永遠の御国へと導いてくださるのです。
そのベースになっているのが、神の御子が人となって、その生涯をとおして神を現わし、十字架によって罪の贖いの御業をなしたうえで、いのちの主として死者の中からよみがえったことなのです。
神様は罪ある人に何も求めず、ただ恵みによって神様の方から、御子イエス様による救いの道を用意してくださいました。ですから、私たちはただ信じるだけで救われることができるのです。