義人は信仰によって生きる
パウロは「私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」(ローマ1:15)と語っています。そしてその福音を語るにあたって、まず「神の義」から始めます。「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」(1:17)この「義人は信仰によって生きる。」ということばは旧約聖書の預言者ハバククの書からの引用です。その他にもこのみことばは新約聖書の中で二回(ガラテヤ3:11、ヘブル10:38)の計三回引用されている大切なみことばです。それぞれその手紙のその前後に取り扱われているテーマと密接に関わりを持って引用されています。
ローマ書は5章まで、神の御前に義と認められる、ことについて語っています。そこで引用されているときの強調点は「義人」です。神の御前には「義人はいない、ひとりもいない。」(3:10)から始まり、「ひとりの義なる行為(十字架)によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶ」(5:18)、「ひとりの従順によって、多くの人が義人とされる」(5:19)と、人の行ないによるのではなく、イエス様の十字架の御業を信じる信仰によって、神の御前に「信仰によって義とされ」(5:1)ることが教えられています。
ガラテヤ書は、まちがった教えが入ってきて、キリストを信じる信仰に加えて律法に基づく行いも、神に義と認められるためには必要であるという教えに欺かれて、律法に帰っていく人たちがいたので、この手紙が書かれました。そこで強調されているのは、律法ではなくただ「キリストの贖いの御業を信じる信仰」によって義と認められた、ということで、キリストを信じる「信仰」が強調されています。
そしてヘブル書。その最後の部分は、キリストを信じる信仰に「生きる」ことを求めています。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。」(10:37,38) 人々の目の前でそしりや苦しみを受けても、イエス様が来臨されるとき、忍耐は報われます。その後に待っている約束のものは、いつまでも残る財産です(10:33〜36)。その信仰に生きた旧約の聖徒たちの模範が続く11章に記されています。
このハバクク書では、へブル書の引用に最も近い形で用いられていると思います。ハバクク当時の信仰に生きる正しい人は、カルデヤ人(バビロン)の脅威にさらされるけれども、生き残ることが約束して「正しい人は信仰によって生きる」と語られます。
ハバクク書の背景
ハバクク書が書かれたのは、BC607頃。すでに100年程前(BC701)、北イスラエル王国も南ユダ王国のエルサレムを除く46の城塞都市もアッシリアによって滅ぼされ、ただエルサレムだけが残されていました。しかしそのエルサレムの町も主に対する健全な信仰によって維持されていたのではなく、暴行、暴虐がまかり通り、律法が眠りさばきが行われないという状況でした。民が悪かったのですが、そもそも上に立つものが悪かったのです。わずかに正しい人(1:4)が残されているだけという状況でした。ハバククはエルサレムを救ってくださるように訴えますが、なかなか答えをいただくことができず、途方にくれていました。
そしてやっと神様から答えをいただいたと思ったら、それは全然想像だにしていないことでした。エルサレムを助けるのではなく、神様が忌み嫌うカルデヤ人によってさばくというのです(1:5〜10)。救うのではなく、巨悪をもってエルサレムの悪者をさばくというのです。
ハバククはその答えに動揺します。「私たちは死ぬことがありません。」(1:12)とは、アブラハムへの「その子孫を海辺の砂のように増やす」という祝福の約束があるから、神様は聖なる方ゆえ、イスラエル民族が滅びることは決してないはずではないか、と食い下がります。また悪者(カルデヤ人)が、正しい人(エルサレムの住民)を飲み込むことはあってはならないことではないか、と変更を迫ります。
けれども神様からは、カルデヤ人がいかにしてエルサレムを攻めるのか、の説明があるのみでした(1:15〜17)。
2章に入り、少し落ち着きを取り戻し、ハバククは主のおことばを、耳を開いてしっかり聞こうと決意します(2:1)。すると神様はカルデヤ人の終わりについて明らかにされます(2:2〜20)。「見よ。心のまっすぐでないもの(カルデヤ人)は心高ぶる。」(2:4)と語り、その罪状(略奪、侵略、搾取、暴虐、偶像礼拝)が挙げられます。エルサレムの中の悪者をさばくために巨悪であるカルデヤ人を用いるが、これもまたときが来たらさばく、とおっしゃいます。
正しい人はその信仰によって生きる
「正しい人はその信仰によって生きる」(2:4)は、このハバクク書のキーワードです。「正しい人」とはだれか? このみことばをひっくり返すとはっきりします。「信仰に生きる人が正しい人」です。けれどもハバククが言っている(1:4)ように、エルサレムにはもはや信仰に生きる正しい人はわずかにすぎませんでした。
ハバククは、エルサレム全体の霊的な回復を求めましたが(1:1〜4)、神様はもはやエルサレム全体を救うのではなく、ピンポイントで、その中の信仰に生きている正しい人だけを救い出し、新たな時代を作り出そうとのお考えです。@まずカルデヤ人によってエルサレムを滅ぼし、その中から正しい人を救い出す。A次にカルデヤ人を滅ぼす。Bそして正しい人たちの国を再建する。これはまさに歴史を見ると@カルデヤ人の国バビロンのネブカデネザル王によってエルサレムが滅ぼされ、ダニエルを初めとする人たちがバビロンに連れていかれ、A70年を経て、ペルシャの王クロスによってバビロンが滅ぼされて、Bエズラ、ネヘミヤといった人たちがエルサレムを再建する。このエズラの働きによって聖書が写本されるようになり、みことばの研究が進み、メシアを迎える機運ができます。
人の思いをはるかに超えた神様のみこころ
もう一度最初に戻ってハバククの考えていたこと、私たちが考えることから、考えてみたいと思います。
イスラエルの歴史を振り返ると、神に反逆しては災いに会い、神様がさばきつかさや預言者を遣わしてその誤りを指摘する。そして悔い改めて立ち返り祝福を取り戻す、ということの繰り返しでした。
ハバククは初め、暴虐に満ちたエルサレムを救ってほしいと訴えました(1:2〜4)。これはイスラエルの歴史に基づくことと思います。私たちも思わぬ出来事に見舞われるとき、過去の経験に照らして、ああしてください、こうしてください。と祈るものです。ハバククも同じことをしました。その範囲でしかわからないからです。けれどもこの時のエルサレムの霊的状態は、かつてないものでした。ですから神様のお考えは、ハバククの思うところをはるかに超えた、エルサレムを救うのではなく、さばく、それも神様の忌み嫌うカルデヤ人をもってさばくということでした。ますますハバククは混乱しますが、静かに神様の御声にアンテナを伸ばしたとき、そのカルデヤ人を滅ぼすことだけではなく、その先にエルサレムを再建するというプロジェクトを垣間見ることになります。そこでやっとハバククは神様にゆだねることができるようになります。(3:2)
最初から神様にゆだねることができれば、それはさいわいですが、私たちはそうは簡単にはいきません。ハバククのように、ヤコブのように、祈りを通して神様と格闘し、そこから私たちの思いをはるかに超えた、神様の愛するものへのご計画をわずかでも知ることができれば、ゆだねる気持ちに導かれていくものと思います。
神様のみこころを理解したハバクク
ここまで明らかにされて、つまり正しい人を救済するために、巨悪を用いて悪を成敗し、その後、巨悪を打つという神様の遠大なご計画を示されて、ハバククは神様の前にへりくだりました(3:2)。神様は忍耐し助けるだけの御方ではなく、人の悪がその限界を超えるときには一様に救済するのではなく、神様に対しての信仰に生きる正しい人を明確に区別して、対処されることを理解したのです(3:18,19)。
具体的に神様がどのように悪者(エルサレムの中の悪者、カルデヤ人)を討たれ、正しい人(神の民、油注がれた者 3:13)を救われるかを、ハバククは神様に示されたままに、神様に語ります(3:3〜15)。
まず、神様がさばきのために来られること(3:3〜7)、次に神様がどのようにさばきをなさるか、そこでは天変地異もあるようですが、明らかにされ(3:8〜12)、神様が残りの民を救い、悪者が滅ぼされる様子が語られます(3:13〜15)。この内容は同時に、患難時代を経て、イエス様の支配する千年王国に至ることをも語っているようです。
ハバククは、そのすさまじさに恐れを感じますが、エルサレムの住民を責めるカルデヤ人の滅亡のときを、神様のご計画に従い、静かに待つ決意ができます(3:16)。その時はエルサレムにとってはすべてを失う日でもありますが(3:17)、主にあって救いを得、新たな出発の日ともなります。その喜びに満たされます(3:18,19)。
結論
1章で、ハバククはエルサレムの様子を見て思い煩い、神様の回答を聞いてさらに思い惑いますが、2章に入って、神様のなさることをしっかり見極めようとしたとき「正しい人は信仰によって生きる」と示され、神様が正しい人を救い悪者をきっちりとさばく計画であることを知り、3章では、神様がなさることが最善であると、そのご計画を理解して平安に満たされていく様子を見ることができます。
ハバククは初め、エルサレムの町の中の争いからの救いを神様に訴えました。神様は対処療法によるのではなく、大きくメスを入れることによってエルサレムの再生を図ることを計画しており、実行し、エルサレムを救ってくださいました。ハバククの祈りは、ハバククが願っていたよりはるかに大きなスケールで応えられました。集会にお見えになる方はいろいろな動機でおいでになります。神様はひとりひとりの願いを知っておられます。そして根本的な解決を用意してくださっています。それは魂の救いです。それを理解するためには、ハバククのように、強く求める気持ちと、神様が何を言おう、なさろうとしているかを見聞きする気持ちが必要でしょう。神様はすべてのものの創造者、主権者であって、まったき義なる御方です。また被造物をこよなく愛し関心を持ってくださっています。この生ける神様をぜひ知っていただきたいと思います。