今回は、創世記2章から、特に男女のことを書いてみたいと思います。
そして新約聖書に引用されている2カ所を読み、神の愛と、罪について書いてみたいと思います。
これは、天地創造の六日目の出来事でしょう。2章4〜24節は、
1章24〜31節を詳述したものでしょう。初め神様はひとりの人、
すなわち男アダムを造られました。神様は人間のために、あらかじめいろいろなものを造られ、
それが人の助け手になるようにと備えられました(18節)。犬や猫を飼ったり、小鳥を飼ったりして、
今でも多くの人は、それによって慰めを得ていると思います。
けれどもそれらの動物や鳥は人にとって真にふさわしい助け手とはなりませんでした(20節)。
そこで神様は、まったく別の発想で、人の助け手を造られました。それは人そのものから助け手を作り出すというかたちで行われました。人を眠らせ、そしてそのあばら骨を取り出してひとりの女エバを造られたのです(21,22節)。アダムは彼女を得て、満足しました(23節)。
そして「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び会い、
ふたりは一体となるのである。」(24節)と、男と女、結婚の真の意味を説明しております。
このようにして男と女は造られましたから、人はそのパートナーを求めることは自然なことでしょう。
そしてそれは神様によって備えられましたから、神様によって備えられるよう祈ることが賢明でしょう。
ですからパートナーを求める前提として、まず同じまことの神様に信頼する信仰を持っていることが
必要条件になってくるのではないでしょうか。
そしてこのみことばはエペソ人への手紙5章31節に引用されております。
そこでは、キリストとからだなる教会の関係が説明されております。
まず妻たちに、教会が主イエス様に従うように夫に従うべきであること。
次に夫たちに、キリストが教会を愛したように妻を愛すべきであることが教えられています。
明治時代、妻は夫に従うべきであると聞いた日本人男性はそのとおりだと喜んだそうです。
儒教でもそのように教えるからです。けれども聖書がそれに続いて語るのは、
夫はキリストが教会を愛したように愛すべきであるということでした。
キリストはどのように教会を愛したでしょうか。「ご自身をささげられた
」(25節)ことによってでした。それは「
教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、
そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、
ご自身の前に立たせるため」(26,27節)でした。
教会、すなわち信じるものすべての集合体を愛してキリストはご自身を
十字架のうえに犠牲となさって下さいました。
聖書の語る「神の愛」とはこのようなものです。
ギリシャ語には、日本語の「愛」に相当する単語は3つあるそうです。
まず「アガペー」。これは自分を犠牲にする愛をあらわします。神の愛はまさにこれです。
先に書いたご自身を犠牲にするキリストの愛もまさしくアガペーです。
次は「フィーリオ」これは友情、対等の愛をあらわします。そして最後に「エロス」です。
これは男女の愛、相手を求め奪う愛をあらわします。
聖書の中には単語としては「アガペー」と「フィーリオ」しか出てきません。
話しを戻してこの3つの愛について少し書いてみます。
まず男女の愛です。ヤコブがラケルを愛した愛はこれでしょう(創世記29:18)。
その姿も顔立ちも美しかったからです。ヤコブはラケルを妻に迎えるために
その父ラバンに7年間仕えましたが、ラバンはヤコブをだましてラケルの姉のレアを
妻として与えました。そのためヤコブはラケルのためにさらに7年ラバンに仕えるのです。
またダビデ王の子アムノンの恋は悲劇を生みました。彼は異母姉妹のタマルを愛し
(Uサムエル記13:1)、仮病を使って、力づくで彼女と寝てしまうのです。
すると今度はひどい憎しみにかられて彼女を嫌ってしまいます。
そしてこのことを知ったタマルの兄アブシャロムはアムノンへの復讐を企て、
異母兄弟であるアムノンを殺してしまうのです。
しばしば男女の愛においては、自分の期待を相手に要求するものであるようです。
次は友愛です。そのもっとも美しい例は、ダビデとヨナタンの友情でしょう。
このときヨナタンはイスラエルの王子、ダビデは神によって次の王位を告げられたものであって、
普通ならばライバル関係であったでしょう。けれどもダビデはヨナタンが戦死したとき、
このように言っています。「あなたのために私は悲しむ。
私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、
すばらしかった。」(Uサムエル記1:26)
かつてねたみにかられたサウル王におわれたダビデを、ヨナタンは父王サウルの本心を探り、
その友情のよってダビデを逃がしたことがありました。ヨナタンは王子という立場よりも、
神様がダビデを選んでいることを認めそれを喜ぶことのできる人でした。
そのヨナタンもペリシテとの戦いで父王サウルに従い戦いに出ていき、
サウル王とともに戦死してしまうのです。
ダビデはヨナタンとの友情を女の愛に勝るものであったと歌いました。
最後に神の愛です。それは自分を犠牲にすることをいとわない愛です。
おそらくこの世で一番近いのは母親の愛情でしょうか。イエス様は、十字架にかかる前、
ご自身を受け入れることのなかったイスラエルについてこのように言われました。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、
自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、
あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」
(ルカ13:34)
大火があると母親が幼子をかばうように丸くうずくまった焼死体が見つかることがあります。
自分は火だるまになってもいいから子どもだけは助かってほしい、その気持ちそのままの姿です。
その母親の自分を犠牲にしてまで幼子を助けようとする姿は多くの人の涙をさそいます。
神様は、神様に背を向ける人々のためにご自身のひとり子イエス様を遣わし、
私たち罪人の代わりにこのお方を十字架につけて身代わりとしてさばいてくださいました。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(Tヨハネ4:10)
愛はその払われた犠牲の大きさによって計ることができるといいます。
イエス様は、まず天の栄光を捨ててくださいました。次に人に仕えて神を現し、
苦しみのご生涯を送ってくださいました。そしてとうとい命を十字架のうえに捨ててくださいました。
このイエス様はどのような御方でしょうか。神様によって「これは、
わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」マタイ17:5)と言われる御方です。
ことばをもって天地万物を創造された神様でもあります。この偉大な御方があなたを愛し、
また私を愛してご自身を犠牲にしてくださったのです。
この神の愛を知るとき、私たちはただ感謝するほかありません。
そしてそのような愛をもって神を愛し、人を愛することができたらと願うばかりです。
私と家内はちょっとばかり身長差があります。家内が家の中を掃除するとき、
その目の届く範囲に限られますから、ときどき私は高いところに残されたほこりが
掃除されないまま残されているのを見つけることになります。
視点を変えるとき、ものの見方がすっかり変わることがあります。
愛について考えるとき、神の愛をまず知ることがさいわいであると私は思います。
そうすると見えなかったものが見えてくることでしょう。
エペソ書のみことばから、男と女の創造から、
夫婦の関係はキリストと教会の関係を予表するものであること。
そしてキリストは教会を愛してご自身をささげてくださったことを見てまいりました。
この創世記のすばらしいみことばは新約聖書でもう1カ所、イエス様によって引用されています。
それはマタイ19章5節です。ここでは「離婚」という問題に関連して、
結婚についての神様のみこころとみゆるしということについて考えることができると思います。
神様の結婚についてのみこころは、イエス様が19章6節に言われているように明らかです。
それは「神が結びあわせたもの」です。しかしながらパリサイ人がイエス様のところに
「離婚」という問題を持ち込んできたように、イエス様の時代にも、それ以前にも、
そして現代においても、離婚という事実があります。
脱線しますが、なぜ離婚ということが起きるのでしょうか。
いうまでもなくそれは人間の自己中心的な愛の欲求によることでしょう。
言い換えれば罪の性質から生まれ出てくることです。
話しは戻りますが、それではなぜ「人は、神が結び合わせたものを引き離してはならない」
と言われながら、律法には離婚を認める項目が加えられたのでしょうか。(19:7)
その答えは19章8節にあります。人の心がかたくななので許されたのです。
すなわち罪の性質が人に入ってしまってその支配を免れることができなくなってしまったからには、
現実的に起こる問題に対処しなければならなくなったからであります。
しかし本質論的に言えば、19章9節にありますように、
離婚、再婚は具体的な罪を重ねることであって、神のみこころを著しく損なうことであるのです。
人に神様は自由な意思を与えられました。強制的に私たちの心や行動を支配するのではなく、
自らの意思で神様に従うことも、また自分の望むままに生きることもできるように造られました。
そこで神様は自由な意思の選択にしたがって神のみこころに従わない道を選択しても
それを許されるわけです。これが神のみゆるしであります。しかし覚えていなければならないのは
やがてその結果を刈り取らなければならないということであります。
いつまでも許していては神の義が立ちません。リミットが来ます。
ある場合、それは「死」ということによってでしょう。
あるいは特に神様に愛されている者の場合、窮地に立たされることによってでしょう。
このように現在、離婚の問題に限らず、神のみゆるしのうちに私たちは自由に生きていますが、
やがて死の時を迎えます。そのとき多くの人は気づくのです。神の御前における人間の責任に。
神の御前の今、罪という問題があります。この問題を解決して創造の初めの、
麗しい愛の関係に戻ることができたらさいわいです。