さて今回は創世記6〜9章に記されているノアの箱舟の記事から書きましょう。
先回、トマスがイエス様に「見ずに信じる者は幸いです。」
(ヨハネ20:29)と言われたことを書きました。実際イエス様による救いのみわざは
私たちにとって見ることのできない事柄です。
ノアは、世界が洪水によってさばかれ、すべての地上の生き物が、
苦しみ死に絶えていく様子を見ることはありませんでした。箱舟には天窓しかなく、
そこからは上方は見ることができても下方は見ることはできませんでした。
事実大雨が上がった後、地が乾いているかどうかを確かめるため、
ノアは自分の目で確かめることができないので、鳩や烏を放っています。(8:6〜12)
箱舟の中は、外が嵐であっても平和そのものでした。外で雷が鳴り、稲妻が走っていても、
中は人の話し声や動物の鳴き声はあっても静かでした。箱舟の中にいる者たちは、
神のさばきの真ん中にいながら、その様子を見ることも知ることもあり得ませんでした。
ノアは神様から「箱舟から出なさい。」(8:16)
と言われて出て来て初めて、さばきから救われたことを確かめたのでした。
さばきの様子を見ることはありませんでしたけれども救われたことを感謝し、
全焼のいけにえをささげました。(8:20)ノアは何によって救われたことを
確信したのでしょうか。ノアが箱舟から出てきたとき、世界はすっかりかつてのものと
変わっていました。もちろん人間はノアの家族8人の他はいなくなっていました。
自然もまるで新しく造られたもののようでした。
私たちの救いも同じです。私たちはイエス様の上に下されたさばきの様子を見ることはありません。
イエス様が葬られたところを見ることもありません。
イエス様が死者の中から復活された様子を見ることもありません。
それは2000年前の出来事です。しかし私たちははっきりと救われたことを確信するのです。
何によってでしょうか。やはりまず客観的な事実からでしょう。
創造主がおられなければ宇宙の秩序はあり得ないこと。
知恵ある御方がおられなければ私たちの身体をはじめ被造物のこの精巧さはあり得ないこと。
人間の尊厳を考えるとき目的を持って造られたものであることを受け入れることなくしては
まったくむなしいこと。死の原因は聖書が指摘するように私たちの罪の他考えられないこと。etc.
次に神様がすべての主権者であることを認めるとき、神様の知恵に満ちた聖書が
全幅の信頼の置ける書物であることを知り、その聖書の語る神様の約束を信じることができるのです。
信じるものに与えられる約束とは、まず罪の赦し、神の子という立場、天の御国の相続者という特権。
それを保証する聖霊の内住。これらの霊的祝福を得ている喜びと平安をいただくのです。
ノアはさばきを見ないで、さばきの中から救われました。
私たちも私たちに下さるべきさばきがイエス様に下された様子を見ないでも、
永遠のさばきから救われるのです。見ないでも私たちは信仰によって信じ喜んでいるのです。
話は変わって、もう一つ洪水の話をしたいと思います。
それはイエス様が山上の垂訓の一番最後にまとめの意味で語られた小話です。
山上の垂訓とは、マタイの福音書5〜7章にまとめられているイエス様が
山の上で語られたという教えの数々のことです。
その洪水の話のところをそのまま引用いたします。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、
風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24〜27)
人生に嵐は付き物です。「一難去ってまた一難」ということばもあります。
救いというと多くの人は病気からの救い、貧乏からの救いなどを考えます。
宗教というものはそこにうまくつけ込むものです。でも今抱えている病気が仮によくなったとしても、
また別の病気がやってくるものです。そして最後は死を迎えるのです。宗教にはまると、
先につぎ込んだお金をむだにしまいとさらにつぎ込むという悪循環にはまります。
先にがんばった奉仕をむなしいものにしまいとさらにがんばるのです。
でも結局は根本的な解決にいたらないのです。なぜなら土台がダメだからです。
小さな嵐に耐えられても、死という大きな嵐には耐えられないのです。
イエス様という土台の上に人生を築くならば、人生の嵐にもまれても大丈夫、
死という大嵐でも大丈夫なのです。
ひとりの姉妹は、まさにその見本のような方です。彼女は家庭の問題をいろいろ抱えて、
集会へ来始めた頃はまったく頭の上に黒雲をかぶっているような暗い雰囲気でした。
今の人生には何の希望もなく、ひたすら死の向こうに期待するばかりという様子でした。
しかし福音を聞いていくうちに変わったのです。罪を悔い改め、イエス様を信じて、
魂の救いを得たのです。彼女の家庭の環境は今でもあまり変わりません。
嵐は吹き続けているのです。けれども彼女自身はすっかり明るくなったのです。
イエス様という揺るがない土台の上に人生を築いたとき、嵐は怖くなくなったのです。
最も彼女が変わったことによって少し風当たりが変わったこともあるようです。
人生に嵐はつきものです。それにふき流されるも、耐えられるも、土台次第です。
死という嵐にも耐えられるイエス様という盤石な土台の上に、
まず人生を築く決意をする必要があります。
***「ノアの箱舟」については、一般向けにも、別の角度からの記事を載せています。***