今回は「モーセ」のことについて書き、信仰について考えたいと思います。
エジプト王パロの「イスラエル人に生まれた男の子はナイル川に投げ込め」という命令の中、モーセは、
両親アムラムとヨケベテの信仰によって3ヶ月間隠され(ヘブル11:23)、その後ナイル川に流され、
エジプトの王女に拾われ、王女の子として育てられます。これは神様のご計画によることでした。
「彼は、神の目にかなったかわいらしい子で・・・」(使徒7:20)
とあるように、神様はモーセが生まれる前から、彼の信仰をご存じで、ご自分の民をエジプトから導き出す
「支配者、解放者」(使徒7:35)として定めておられました。
モーセは、40歳までパロの娘の子として生活しましたが、「信仰によって、
モーセは成人したときパロの娘のこと呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは
むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」(ヘブル11:24,25)とあるように、
彼は身体だけでなく、信仰も成長しました。自分のいのちを救ってくれた両親の「
王の命令をも恐れない」(ヘブル11:23)信仰の影響を受けて、
モーセは霊的に成長することができました。エジプトにいれば、
王の娘の子として何不自由なく生活することができましたが、モーセの価値判断は信仰に基づいて行われ、
この世のものよりも神様のくださる本当に価値のあるもの(神様の報い)を求める人となり、
民と苦しみをともにする生き方を選び取りました。
「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、
エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
」(ヘブル11:26)
私たちの生まれつきの性質は世と世にあるものに心を向けさせ、聖霊は、
主イエス様と主イエス様が与えてくださる本当に価値あるものに向けてくださいます。
聖霊が示してくださるものを選択するのが、信仰です。信仰によって、
つねに正しい選択をすることができればさいわいです。
モーセは40歳になったとき、同胞を救うために出ていきました(出エジプト2:11)。
モーセはイスラエル人の苦役を見、同胞がエジプト人に打たれているのを見て、
そのエジプト人を打ち殺しました(2:11,12)「彼は、
自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。」(使徒7:25)とあるように、
自分が同胞に受け入れられないことを知ったときに、エジプトから逃げ出さなければならなくなりました。
「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、
ことばにもわざにも力がありました。」(使徒7:22)それらのものは、
人間的に見ればすばらしいもののように思われますが、神様の働きのために用いるには、
そのままではまったく役に立たず、すべてが聖められる必要がありました。
モーセは、信仰によってさいわいな選択をすることができましたが、
自分の知恵と力でイスラエルの民を救うことができると考えたために、民に受け入れられなかったばかりか、
神様も彼をただちに用いようとされませんでした。なお40年の間、彼には訓練の時間が必要であり、
彼のすべてが聖められ、さらにすぐれた神の知恵と力が必要であることを学ばなければなりませんでした。
モーセは、エジプトを去ってミデアンの地に行き、そこで家庭を持ち、40年間舅イテロに仕え、羊飼いの生活をしました(出エジプト2章)。80歳のときに、神様はモーセをイスラエルの民を救う「支配者」「解放者」として召命されました。モーセは神様に「モーセ、モーセ」と呼ばれたときに、「はい、ここにおります」とただちに応えることができました(出エジプト3:4,5)。モーセは40年間、静かに神様と交わっていました。神様は「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(3:10)とモーセに命令され、遣わすときが来たことを告げられました。彼の志(同胞を救う)は、みこころにかなっていたので、神様は彼を訓練して、最もよいときに用いようとされました。
すでにモーセは以前の彼ではなく、「私はいったい何者なのでしょう」
(出エジプト3:11)と答えるほどに、自分の無力さを知る人となっていました。神様が、モーセにしるしまでもお与えになられたのに(4章)、「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください」
と命令を辞退しようとしました。必要以上の自己卑下は、謙遜ではなく臆病であり、不信仰から出てくるもので、
「主の怒り」(出エジプト4:14)をもたらす結果になります。
みこころにただちに応える信仰こそ、神様を喜ばせるものです。
神様は、モーセの弱さを受け入れてくださり、モーセの代弁者として、彼の兄アロンを用いられました
(出エジプト4:14〜16)。神様は、私たちの弱さも理解してくださり、
愛によって忍んでくださることを知らされます。
モーセは、パロのもとに遣わされていく途中に、神様は彼を殺そうとされました(4:24)。
モーセの息子が割礼を受けていなかったからです。割礼は、アブラハムに与えられた神様のご命令です
(創世記17:9〜14)。神様に仕えようとするものは、たとえどのような人間的な都合があっても、
ご命令(みことば)を無視してはならないことを教えられます。
/span>信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、
エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」
(ヘブル11:27)とあるように、王を恐れることなく、また紅海を渡るときも、
「信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。」
(ヘブル11:29)とあるように、海を恐れませんでした。
モーセの勇気は、信仰によるものであり、神様に対する絶対的な信頼によって生まれました。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、
またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)
荒野をさまようイスラエルの民は、不信仰になり、神様とモーセにことあるごとに逆らい続けました。
しかしモーセは、神様と民との間に立って、民が滅ぼし尽くされないようにとりなし、
40年間忠実にしもべとして働き続け、ゆだねられた職務をまっとうしました(ヘブル3:2,5)。
「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」
(民数記12:3)とみことばが証しするように、謙遜の人でした。民に非難されても、
罪に対して罪で応える人ではなく、神様にさばきをゆだねた人でした。神様と人に仕えるために重要なもののひとつは、
謙遜です。モーセにはすべての人にまさる謙遜がありました。
モーセは民を愛していたので、逆らう民のために、自分を犠牲にしてとりなしの祈りをささげることができました
(民数記32:32)。お姉さんのミリヤムとお兄さんのアロンでさえ、モーセに反抗したときがありましたが、
彼はふたりのためにも、とりなしました(民数記12章)。
罪に対して愛で応える愛の人であったことがわかります。
「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と、
イエス様はお教えになりました。また「自分の敵を愛し迫害するもののために祈りなさい」(マタイ5:44)
と教えられたように、人々が自分に敵対しても、愛を示すことをイエス様は望んでおられます。
モーセは旧約を代表する信仰のよき模範者ですが、イエス様はモーセに勝る方です。従順においても、勇気、
忠実、謙遜、愛においても、すべての人にすべての点で勝るお方です。イエス様は最高の「支配者・解放者」です。
人生はよい師、指導者に出会うことにより、大きく変わります。大学で、あるいは社会生活の中で、よい先生、
指導者に出会うでしょう。けれども最高の師、指導者は主イエス様です。