「ダビデの悔い改め」ということで考えていきたいと思います。
ダビデが姦淫と殺人の罪を犯したとき、神様は預言者ナタンを遣わし、
ある出来事を語らせました。これは実にうまくできたたとえ話です。
ナタンの語った話を全部引用します。
「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、
ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、
貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。
子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、
彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところに
ひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために
自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、
自分のところに来た人のために調理しました。」(Uサムエル記12:1〜4) ひどい話ですね。
ダビデは、間髪をいれず、怒って裁定をくだしました。
「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。
その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして
償わなければならない。」(12:5、6) イスラレルの律法に従った正しい裁定でした。
するとまたナタンがたぶん静かに間髪を入れずに言います。
「あなたがその男です。」(12:7)
ナタンはさらに神様のダビデに対する恵みを語り、それにもかかわらず
ダビデが犯した罪を指摘いたします。
そしてさらに罪の結果としてもたらされる事柄についても語ります。(12:7〜12)
するとダビデはナタンに言います。
「私は主に対して罪を犯した。」(12:13)
ダビデの罪の告白です。そしてナタンはダビデに告げます。
「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。」(12:13)
非常に短い記述ですが、ここにダビデの悔い改めのことばと神様の御赦しの宣言が
はっきりと記されています。ダビデは罪を犯しました。でも自覚がありませんでした。
ナタンによって指摘されて、罪を犯したことに気づきました。自覚したのです。
そしてダビデはことばにしました。「罪を犯した。」(12:13)
パウロはローマ書にこのように記しました。
「人は心に信じて義と認められ、
口で告白して救われるのです。」(10:10) 自覚しているだけでは足りません。
知っているだけでもダメです。口で言い表さなければなりません。
ダビデは「罪を犯した。」と言い表しました。
すると即座に神様はナタンをとおして宣言されました。「
主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。」(12:13)
救いがやってきました。
Uサムエル記での記述は非常に簡潔です。ダビデの心の中を覗くことができません。
けれどもダビデは、そのときのことを詩篇51篇の中に残しております。
そのタイトルは長いのですけれど、このようにはっきりと記されています。
「指揮者のために。ダビデの賛歌。
ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」
そしてこの中でダビデは言っています。「私はあなたに、
ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」(詩篇51:4)
ダビデが直接罪を犯したのは、ナタンが指摘したように、バテ・シェバであり、
ウリヤでした。けれども神様に対して罪を犯したと言い表しているのです。
これは罪の本質をよく教えてくれると思います。
確かに私たちは直接は人に対して罪を犯すものですが、
その私は神様のみこころに従って聖く生きるように作られたものです。
けれども生まれながらにして罪の性質を持って、ダビデのように気づかないままに、
罪を慕っているのです。「ああ、私は咎ある者として生まれ、
罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。
それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。」(詩篇51:5、6)
パウロもこのように嘆いています。「私は、
自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、
もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、
善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」
(ローマ7:19〜21) こういうわけで私たちが罪を犯すときには、罪の性質の働きによるのであって
、神様のみこころを傷つけているのです。それゆえ、神様に対して罪を犯しているのです。
私たちは素直にそのことを認めなければなりません。ダビデはまた言っています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(51:17) たとえ失敗しても、罪を犯しても、神様の御前に悔いくず折れてひれ伏すものを神様はけっしてさげすまれません。むしろ喜んで受け入れてくださいます。ダビデはそのことをよく知っていました。そして事実そのとおりに、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。」(12:13)と、すぐに罪の赦しをいただきました。
ダビデはこのときの罪を赦された喜びを、詩篇32篇に詠っております。
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、
御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。
セラ 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。
「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。
セラ」(32:1〜5)
神様によって罪が赦されることは、私たちにどれほどの喜びと平安が与えられることでしょう。
けれども罪が赦されることと、罪の結果を刈り取ることとは
別の問題であることを忘れてはなりません。ナタンはダビデの罪を指摘したときに、
その罪の結果としてまず「主はこう仰せられる。
『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。
あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、
あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、
わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。』」
(12:11,12)と告げました。事実このことはその子アブシャロムによって成就します(16:21,22)。
また「あなたはこのことによって、
主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」(12:14)
とも告げられます。このことはすぐに成就します。身ごもったバテ・シェバによって生まれた子は、
病気になって7日目に死ぬのです。
神様は愛によって赦されるお方です。けれどもけっして侮られるようなお方ではありません。
罪の結果は刈り取らなければなりません。「人間には、
一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)とあります。
これはアダムが罪を犯した結果、人類にもたらされたものです。イエス様の十字架を考えてください。
神の御子が、人類、すなわちすべての罪人が受けなければならない罪の結果である地獄のさばきを、
一身に受けてくださっている姿です。身代わりとなって
罪の結果であるさばきを受けてくださいました。またイエス様は死者の中からよみがえりました。
そのことは私たちの復活の保証となりました。永遠のいのちだけでなく、
栄光のからだによみがえることが約束されたのです。そのとき「死」は無力なものとなります。
確かに神様がアダムに宣言されたように、人は罪の結果として、
労働の苦しみと死を刈り取らなければならなくなりました。けれどもイエス様の十字架と復活は、
罪の結果であるこれらのものを無力なものとしてしまったのです(Tコリント15:54、55)。
神様は侮られるようなお方ではありません。罪を赦されますが、
罪の結果を刈り取ることを求められます。けれどもそれさえも
イエス・キリストの十字架と復活によって、片付けられてしまったのです。
イエス様の御業を受け入れるほかに、
どこに神様の御前における罪を解決する方法があるでしょうか。