「十戒」は、出エジプト記20章と申命記5章に記されています。内容は同じです。
戒めは10ありますが、初めの4つは神様に対する戒めであり、後の6つは人間関係に関する戒めです。
律法全体も要約すると、神に対する戒めと、人に対する戒めの2つに要約されます。
イエス様ご自身がそう説明されています。「そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37〜40)
それでは、出エジプト記20:3〜17から引用しましょう。
@あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
Aあなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。・・・
Bあなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。・・・
C安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。・・・
Dあなたの父と母を敬え。・・・
E殺してはならない。
F姦淫してはならない。
G盗んではならない。
Hあなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
Iあなたの隣人の家を欲しがってはならない。・・・
以上です。
以上ですが、これらの戒めを告げる前に一言語られています。それは誰がこれを定められたか、
ということです。・・・「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、
あなたの神、主である。」この戒めを定められたのは神様です。
十戒も、十戒を中心とする律法(20〜34章)も、契約の形式を整えています。
1.当事者間の関係:神様と、神様によってエジプトの国、奴隷の家から連れ出されたイスラエルです。(20:2)
2.契約の内容:当事者間相互の責任が明文化されています。10の戒めが示されています。(20:3〜17)
3.のろいと祝福:契約を破った場合ののろい(20:5,7)と、
忠実であった場合の祝福(20:6,12)が記されています。
聖書は、ご承知のとおり、旧約聖書と新約聖書からなっています。旧い契約と新しい契約です。
旧い契約である十戒を中心とする律法は結局イスラエルによって守られず祝福を得ることができませんでした。
神様は改めてイエス様を贖い主として遣わされ十字架によって救いを得る道を示されました。
そのイエス様を受け入れるものに祝福が与えられることを約束なさいました。
それでは十戒を一つずつ見ていきましょう。神様の御性質が良くわかると思います。
神様に対する戒めの1番目と2番目は、先回ダン族に関連して触れましたので、省きます。番目は唯一神であること。2番目は偶像礼拝についてでした。
3番目は、「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」です。
イスラエル人は型どおり、神様の御名を口にするのは恐れ多いとして、神様をあらわす「ヤハウェ」ということばは
発音ができないよう子音だけで構成されています。現在の新改訳聖書ですと「主」と太字で表記されています。
いたずらに主の御名を唱えるのはよくないと思いますが、それもまた行き過ぎというものでしょう。
ただ昨年、ローレンス兄はその学びの中で、最近アメリカではよく「Oh,my God!」と安易に使う、
それはたいへん悪いことだと語られていました。確かに我が家の息子も英語を使うのがかっこいいと思っているらしく、
知っているわずかなことばの一つとしてよく使っていました。それを聞いてからはやめるようにしました。
4番目は「安息日」です。安息日は、神様が6日で万物を創造されて
7日目に休まれたことによります(出エ20:11)。今の曜日で言うと、日曜日から創造を始めて金曜日に完成し、
土曜日に休まれたのです。ですからユダヤ人は昔から安息日の土曜日と日曜日を休むのです。
人々が6日働くところを彼らは信仰によって5日で成し遂げられるような生産性の高い仕事をしなければなりません。
なおかつ国土を持たない民族ですから寄留している他国人の国で抑圧されないような仕事をしなければなりません。
普通の仕事は労働を売って代価を得ます。金融は休んでいても日がたてば金利を生みます。
彼らはそのように知恵を用いて寄留しているアメリカやロシアで力をつけてきました。
さて、イエス様の時代、ユダヤ人たちは旧約聖書を独占してきた
指導者階級の特権を守るために付け加えられた労働についての解釈により、
しばしばイエス様は安息日になさった御業のために非難を受けました。
安息日に麦畑を通った弟子たちが麦の穂を摘んだといって非難を受けました(ルカ:1〜5)。
安息日に右手のなえた人をいやして非難を受けました(ルカ6:6〜11)。
安息日に18年間、病の霊につかれていた女をいやされ、非難を受けました(ルカ13:10〜17)。
安息日に38年間、病気にかかっていた人をいやされ非難を受けました(ヨハネ5:1〜18)。
エルサレムの宮で話しているとき、安息日に人をいやすことについて議論となりました(ヨハネ7:14〜24)。
生まれつきの盲人をいやした日が安息日であったので、
神から出たものであるか否かが論じられました(ヨハネ9:13〜16)。
安息日は、神様が休まれたからという理由で定められていますが、人に対する思いやりから定められたものです。
「しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。
あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、
また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――」人間は欲の深いものです。
定めがなければどこまでも働くものです。定期的に休まなければやはり活力は出てきません。
また弱い立場の奴隷や家畜などは、このような定めがなければ、際限なく働かされてしまいます。
神様は人のために安息日を定められました。
イエス様は、人のために定められた、その趣旨にしたがって御業をなさることをいといませんでした。
けれどもこのことがユダヤ人の恨みをかって、やがて十字架に向かっていくことになります。
さて、次は5番目、人に対する戒めの1番目です。
それは「父と母を敬え。」(20:12)です。
人間関係の最も基本は家族であり、生まれて最初に出会い世話になる両親です。
それを敬うことは当然のことです。そしてそのことは神様を敬うことにも通じていくことと思います。
6番目、人に対する戒めの2番目は、「殺してはならない。」(20:13)です。
イエス様は山上の垂訓の中でこのように語られました。「昔の人々に、
『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、
あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、
だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、
最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」
わかるでしょう。人の人格を抹殺するようなことば、その心をもイエス様は赦されることではない、
と言われます。ゲヘナとは永遠に火が燃え尽きることのない地獄のことです。
神様は行為ではなく、心の中を見て、それを問われるのです。
7番目、人に対する戒めの3番目は、「姦淫してはならない。」
(20:14)です。
やはりイエス様は山上の垂訓の中でこのように語られました。「
『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。
だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、
からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、
切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」
マタイ5:27〜30) 男性にとって厳しいことかもしれませんが、殺人と同様です。
心の中も神様はご存知です。神様の基準は高いですね。
8番目、人に対する戒めの4番目は、「盗んではならない。」(20:15)です。
十字架につく直前のこと、エルサレムに上られたイエス様は、神殿に行きます。
しかしそこでは礼拝のため地方からやってきた人を相手に不当な商売をする人たちがおりました。
ささげる動物を遠い地から連れてくることができないため、いけにえにする動物が売られていました。
しかしその動物はささげられると祭司からまた商売人におろされ、また売られるのです。
神殿の通貨は特別なものでしたので両替をする必要がありました。不当な手数料を取って、両替が行われていました。
イエス様が怒った記事は公生涯の初め(ヨハネ2:13〜22)とその終わりにいずれも宮きよめをしたときでした。
「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、
両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。
「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。
それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:12,13)
イエス様は彼らの行為を不当な商売というやさしい表現ではなく、
怒りをあらわにした強盗の巣という表現を用いられました。
そこには神の宮である神殿を汚していたことに対する怒りも含まれていたことでしょう。
ひとつとばして、最後の戒め、人に対する戒めの6番目に行きたいと思います。それは、
「むさぼってはならない。」(20:17)です。
あるときこういうことがありました。これはルカ伝18:18〜22の記事です。
「またある役人が、イエスに質問して言った。
「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「・・・戒めはあなたもよく知っているはずです。
『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」イエスはこれを聞いて、
その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、
貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえで、わたしについて来なさい。」」
イエス様が十戒から答えたとき人に対する戒めを示されました。よく見てください。
人に対する戒めは6つです。しかしこのとき示されたのは5つでした。
役人ができていなかったことをわざとはずしました。そのひとつは「むさぼってはならない」ということです。
けれどもイエス様の語られた内容は、隣人のものをほしがるということではなく、
貧しいものに施すべきことをしていない、ということでした。本来施すべきことをしていないことは、
まずしい者から搾取しているというわけです。イエス様の要求する基準はたいへん高いものでした。
さて、9番目、人に対する戒めの5番目にもどりたいと思います。
それは、「偽証をしてはならない。」(20:16)です。
今までの5つの人に対する戒めは、神様の要求の高さを教えられます。神様は聖く完全なお方です。
私たちは到底その基準を満たすことのできないものであることが教えられます。
しかしイエス様は罪のないお方でした。
ここでは、偽証をもってイエス様を罪に定めようとした出来事を見たいと思います。
イエス様を銀貨30枚で売ったユダの手引きで捕らえられたイエス様は、
まず祭司長カヤパによって裁きを受けます。「さて、祭司長たちと全議会は、
イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。偽証者がたくさん出て来たが、
証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、言った。「この人は、
『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」そこで、
大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、
あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」しかし、イエスは黙っておられた。」
(マタイ26:59〜63)
最初からねたみにかられていたユダヤ人は、イエス様を亡き者とする目的でイエス様を捕らえました。
しかし手続きを踏んで裁判をするためにイエス様が罪を犯したという証言が必要でした。
律法に逆らっても、初めからそれらしき偽証があればと期待した祭司長たちでしたが、
当然のことながらイエス様にそれを見つけることはできませんでした。
このあとイエス様はローマの総督ピラトによっても裁かれますが、
ピラトは「私は、あの人には罪を認めません」(ヨハネ18:38)と宣言します。
罪のないイエス様が罪人に代わって神様からのさばきを受けてくださいました。
神様の基準に到底到達できない罪人のために、私たちを愛するがために十字架への道を進んでくださいました。