今回は「預言者イザヤのエルサレムについての預言 その3」ということで
書いていきたいと思います。
預言者イザヤはBC745〜695、北イスラエル王国が滅亡した時代に
「ユダ(王国)とエルサレムについて」(1:1)、
その滅亡と復興を語った預言者です。
その復興にあたっては、それを実現する人物が当然登場しなければなりません。
イザヤの預言は概括的で、その詳細は後の預言者によって明らかにされる部分が
多いのですが、ことこの神の国の王、エルサレムに君臨する平和の君については
イザヤが実に多くを語っているのです。それは後のユダヤ人がメシヤ(=救世主)
として期待する人物で、ローマ帝国の支配下にあったイエス様の時代には
その期待はいよいよ大きくなっていました。新約聖書の著者たちは
その福音書や手紙を書くにあたって、
イエス様が預言されていたメシヤであることを説明するために
ずいぶんこのイザヤ書を引用しているのです。イザヤ書の中には
イエス様の御姿が実に克明に明らかにされていたのです。
ユダヤ人は現在でも自分たち民族の救世主としてのメシヤを待ち望んでいます。
旧約聖書は初めユダヤ人のものでしたし、このイザヤ書も彼らのものでしたが、
実にユダヤ人はこのイザヤ書が嫌いなのだそうです。
そこには彼らが否定し十字架につけてしまったイエス様のことが
詳しく書かれているからです。私たちはこの約束された救い主の預言を
喜んで読んでいきましょう。
わかりやすくするために、新約聖書からイエス様の生涯を追って、
イザヤ書と対照しながら、見ていきたいと思います。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイ1:23、cfイザヤ7:14)
この預言には2つの不思議なことがあります。ひとつは「処女がみごもる」ということ、
もうひとつは、その名前です。
普通みごもった時点ですでに処女でないことが証明されます。ですから矛盾した表現です。
ここに神様の大きなこだわりがあることを想像することができます。
男と女の間に誕生するならそれは、アダムの罪の性質を受け継ぐことになります。
聖い神の御子であるイエス様が人の世に来られるに当たって
まったく人と異なった姿を持って登場するなら、
人類はそれを受け入れることができないでしょう。
聖い神が人となって私たちの間に住まわれようとしたとき、
神様は当然のごとく、聖霊によって、
まだ汚れを知らない処女の胎に直接宿ることとされたのです。
このことは感傷的なことではなく、実に深い神の知恵によることでした。
それを神様はイザヤを通してあらかじめ明らかにされていました。
主の使いがヨセフに「マリヤは男の子を産みます。
その名をイエス(意味:神は救い)とつけなさい。この方こそ、
ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と告げ、
その誕生の目的に重点を置いた名前がつけられました。それでは
「その名は『インマヌエル』
(意味:神は私たちとともにおられる)と呼ばれる。」
(マタイ1:21)というイザヤの預言と矛盾します。
しかし何の抵抗もなくマタイはそのまま引用し並べて書いています。
どういうことでしょうか。これは前回に書きました預言の二重性によることと思います。
ひとつの節の中に初臨のときのことと再臨のときのことが続けて述べられているのです。
救いを成し遂げられたイエス様が再臨され地上を治められる時代には
確かに神である御方がずっとイスラエルの民とともにおられることになるので、
インマヌエルというその名をもって呼ばれることになるのでしょうか。
今の私たちクリスチャンにとって「神は救い」となってくださった御方は
いつでも「神は私たちとともにおられる」という経験をさせてくださっておられます。
そのほか誕生に関しては、「エッサイの根株(ダビデ)から
新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ11:1)とあり、
「ダビデの子孫」(マタイ1:1)
から誕生することが語られています。またメシヤの先がけとして登場する
バプテスマのヨハネについては、「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
(マタイ3:3、cfイザヤ40:3)とイザヤが預言した人として紹介されています。
イエス様がナザレの会堂に入ったとき、預言者イザヤの書が手渡されたので、
61章1,2節を開いて読まれました。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、
貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
(ルカ4:18,19) そして「きょう、聖書のこのみことばが、
あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(4:21)と語られました。
そのとおりの生涯を送られます。
イエス様の宣教は暗闇にいる人々、特に異邦人に光を与えるものでした。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、
ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、
死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
(マタイ4:15,16、cfイザヤ9:1,2)
弟子ペテロのしゅうとめが熱病で床についているのをご覧になると
手で触っておいやしになり、続けて悪霊につかれている人が大勢連れて来られると
ことごとく霊を追い出し、病気の人々をいやされました。
このときのことを説明してマタイはイザヤ書を引用し
「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、
私たちの病を背負った。」(マタイ8:17、cfイザヤ53:4)と説明しております。
単にイエス様に力があったというだけでなく、
そのわざわいをすべて引き受けてくださっていたことを教えられます。
イエス様は多くの人をいやしましたけれども、その都度そのことを語らないように
戒められました。それはいたずらにイエス様の人気をねたむユダヤ人の指導者を刺激して
その働きが妨げられないためでした。ただひたすら救いを必要としている人々のために、限られた時間の中で神の国を宣べ伝え、悔い改めて神の救いを受け入れるように
働かなければなりませんでした。それはまさにイザヤが預言していた神のしもべの姿でした。
「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、
わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、
彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、
大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、
くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
異邦人は彼の名に望みをかける。」(マタイ12:18〜21、cfイザヤ42:1〜4)
ほかにもイエス様についての神様の証言があります。それは
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイ3:17、17:5)ということばです。これはイエス様が
公生涯の最初にバプテスマを受けられたときと、十字架にかかる少し前に
最期のときのことについてモーセとエリヤと打ち合わせをなさったときのことでした。
このときには「愛する子」と証言しておられますが、
そのご生涯についてのイザヤを通しての証言は「愛するしもべ」でした。
まさしく「神の御子」が私たちのために仕える「神のしもべ」となってくださったのです。
放蕩息子はその父親の元にいられれば「しもべ」でいいと考えましたが、
「子」として父に迎えられました。私たちを「神の子」として迎えるために、
神の御子イエス様がしもべとしての姿をとってくださったのです。
大勢の群集がイエス様の話を聞いたり、いやしてもらうために、イエス様を追いかけたり、
取り囲んでいました。しかし必ずしもイエス様を正しく理解してのことではなく、
単にその恵みに与ろうという人々が多かったようです。
「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。
確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、
目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」
(マタイ13:14,15、ヨハネ12:40、使徒28:26,27、cfイザヤ6:9,10)と、
そのことをイエス様ご自身がイザヤのことばを引用して説明しておられます。
イエス様の人気をねたみ敵対していくパリサイ人、
律法学者と呼ばれるユダヤ人の指導者について、
イエス様は彼らについて預言しているイザヤのことばを引用して非難します。
「この民は、口先ではわたし(神)を敬うが、そ
の心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、
むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」
(マタイ15:8,9、cfイザヤ29:13)
ユダヤ人にとっては、信仰によってイエス様を見ることをしなかったため、
イエス様が「つまずきの石、妨げの岩」
(ローマ9:33、Tペテロ2:6,8、cfイザヤ8:14、28:16)
と預言されていたとおりになってしまいました。
あなたはイエス様に対してどのような反応を示そうとしておられるでしょうか。
一般のユダヤ人のように関心を持ちながらも距離をおくでしょうか。
あるいはユダヤ人の指導者のように敵対する者となるでしょうか。
それとも異邦人のように初めは祝福からもれていながら
その恵みに与かる者となるでしょうか。
最後の過越の祭りが近づいたとき、イエス様はろばの子に乗って
エルサレムの町に入りました。マタイはこのときも
「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、
あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、
荷物を運ぶろばの子に乗って。』」(マタイ21:5、cfイザヤ62:11)と
イザヤの預言を引用します。馬に乗った戦いのための王ではなく、
ろばに乗った平和の王であるイエス様であることを強調します。
群集はこぞってイエス様を「ホサナ」と叫んで喜んで迎えます。
あるときエチオピア人の女王カンダケの宦官がエルサレムに礼拝に上った帰り道、
馬車の中でイザヤ書を読んでいました。
「ほふり場に連れて行かれる羊のように、
また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、
だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
(使徒8:32,33、cfイザヤ53:7〜9) この苦難の小羊が自分のことを語っているのか、
それとも誰か他の人のことを語っているのか、彼は思案していました。
おそらく自分のこととも考えたということですから、
彼は他の人に言うことのできないつらい思いをしながら
毎日を過ごしていたのではないかと思われます。そこへピリポがやってきて、
その苦難の小羊はイエス様のことであることを説明いたしました。
彼は自らに重ね合わせてイエス様の苦難とその生涯の目的を理解したことでしょう。
彼はイエス様の救いを信じ救われまもなくバプテスマを受けました。
イスカリオテ・ユダが裏切りの口づけをもってイエス様を捕らえに来たとき、
剣を抜いて打ちかかるペテロを抑えて静かに捕らえられていくイエス様(マタイ26:56)。
ユダヤ人議会で偽証をもって訴える人たちを前に黙っているイエス様(26:63)。
総督ピラトの前でも「ユダヤ人の王ですか」という質問以外には答えられなかったイエス様
(27:14)。ローマの兵士たちに嘲弄されてもなすがままにされているイエス様(27:29〜31)。
十字架の上でもとりなしはしてもののしることのないイエス様(27:39〜44)。
黙々と私たちのための救いの御業を完成されるために
十字架の苦しみに進んでいかれるイエス様の姿がそこにありました。
そして十字架の上でいのちがとられました。
パウロがピシデヤのアンテオケの会堂で説教をしたとき、
イスラエルの歴史から始めてイエス様の十字架、そして特にそのよみがえりについて
詳しく話しました。そのとき「神がイエスを死者の中から
よみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、
『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える。』
というように言われていました。」(使徒13:34、cfイザヤ55:3)
と引用しています。
このようにイエス様のご生涯は克明にイザヤによって預言されていました。
それだけでなく特にユダヤ人の王として
その国に来られたはずのその国民であるユダヤ人がイエス様に対して
どのように反応するかもあらかじめ語られていました。
しかしここには神様の深い知恵があり、ユダヤ人に退けられたイエス様の王国は
異邦人にも門戸が開かれ、その国民となることのできる祝福は
全人類に及ぶことになりました。このことはローマ9〜11章に詳しく説明されていますが、
そこでもイザヤ書からあらかじめ神様がご計画されていたこととして、
たくさん説明のため引用されています。
「わたし(神)は、わたしを求めない者(異邦人)
に見いだされ、
わたしをたずねない者に自分を現わした。」(ローマ10:20、cfイザヤ65:1)
ですから今はすべての人に平和の君の支配する王国に入る祝福が用意されているのです。
「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
救いの日にあなたを助けた。」(Uコリント6:2、cfイザヤ49:8)
「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」
(Uコリント6:2) 今私たちに解放されたこの神の恵みをぜひ無駄にしないように
イエス様の救いを受け入れてください。
メシヤ預言に基づいてイエス様を「ユダヤ人の王」として多くの人が期待し
失望しました。政治的な救世主を求めていたからです。
けれどもイエス様の築こうとしておられる神の国は、総督ピラトに
「わたしの国はこの世のものではありません。」
(ヨハネ18:36)と語られたように、ローマ帝国を覆そうというものではなく、
神の支配が及ぶ世界、真理に属する人々の心を平和で満たす支配の実現でありました。
それは現在でもイエス様を救い主と受け入れた人々の心の中に実現していますが、
大祭司カヤパに「人の子(イエス様)
が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、
あなたがたは見ることになります。」(マタイ26:64)と語ったとおり、
イエス様が地上再臨されるときには、この世にも実現することになります。
そのときにはろばの子に乗ってエルサレムに入られたように平和の王として、
イエス様は「偉大な王の都」エルサレム(マタイ5:35)
にあって支配なさいます。その王国の様子は前回、いろいろな角度から見ました。
その後「彼ら(諸国の民)を惑わした悪魔は
火と硫黄との池に投げ込まれ」(黙示録20:10)、これに属する死とハデス、
いのちの書に名の記されていない者はみな、火の池に投げ込まれます(黙示録20:14,15)。
そして永遠の神の国、新しい天と新しい地(黙示録21:1、cfイザヤ65:17、66:22)
が始まります。これは今、私たちが知っている世界とはまったく異なる
想像もつかないすばらしい世界です。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである。」
(Tコリント2:9、cfイザヤ25:8、54:12)
その聖なる都エルサレムには、神と小羊イエス様の御座があり(黙示録22:3)、
神の栄光が都を照らしています(黙示録21:22〜25、cfイザヤ60:3,5,11,19,20)。
ヨハネの黙示録ではイエス様のことをすべて「小羊」と表現しています。
それは神様のみこころに従順であったことを示すとともに、何よりも、
すべての人の贖いのために「ほふられた」(黙示録5:6)ことによるものと思います。
聖なる都エルサレムには入れるのは、小羊の血できよめられた小羊のいのちの書に
名が書いてあるものだけです(黙示録21:27)。
神様はこの小羊イエス様による神の国を実現するため、永遠の昔からご計画され、
長い忍耐を持ってそこに迎える人々を待っておられます。
イエス様の十字架の贖いの御業を受け入れ、
きよめられて神の国の住民となられるよう心からお勧めいたします。
イザヤはそのすばらしい「ユダ(王国)と
エルサレムについて」(イザヤ1:1)