イザヤ書は「ユダ(王国)と
エルサレムについて」(1:1)の預言の書です。前回の1〜39章の前半部分では、
イザヤ在世当時のエルサレムについての預言とその成就を見ました。
その周辺諸国がことごとく滅亡する中でエルサレムだけが神様の直接的介入により
アッシリアの王セナケリブから守られました。イザヤが預言したことが
次々と事実になり歴史となっていきました。
今回は後半の40〜66章を共に見ていきたいと思います。
ここにはイザヤが世を去った後の時代のエルサレムについての
比較的近い未来のことと遠い未来のことが預言されています。
その近い未来の預言の前提となっている、イザヤ書で言うと39章と40章の間に
空白の時代がありますので、それを先に説明しておきたいと思います。
イザヤが生きていた時代はすでに1〜39章で見てきましたように
アッシリアの脅威との戦いの時代でしたが、その後のエルサレムの住民は
さらに大きな苦難の中に置かれることになります。
アッシリアの後に台頭してきたバビロニアによって滅ぼされ、
エルサレムの住民はバビロンに奴隷として引いていかれるのです。
彼らは単に奴隷としての苦役に苦しんだだけでなく「生けるまことの神の民」
という自負を持っていただけに、神様から捨てられた、
というショックも感じたと思われます。ダビデ以後もアサ、ヨシャパテ、
ヒゼキヤ、ヨシヤとよい王様も出ましたが、概してユダ王国の歴史も
神様に背を向けたものでした。エルサレムの人たちは
その罪の結果を刈り取るようにバビロニアによって滅ぼされ奴隷として
苦役の中に置かれます。
まだエルサレムが存在し、バビロニアの脅威がまったく感じられていないときに、
神様は、民族の希望が絶たれてしまったと思われるような状況を前提として、
40〜66章の後半で、エルサレムへの帰還と王国の再建を語るのです。
このように未来の希望を語ることによって神様は、
当面の苦しみとこれから起きるであろうエルサレムの滅亡、
バビロンへの捕囚という苦難に耐える力を与えようとなさるのです。
「慰め」、これが、これから見ていこうとしている
40〜66章のテーマでしょう。それゆえ、
「「
慰めよ。
慰め
よ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、
その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、
二倍のものを主の手から受けたと。」」(40:1、2)
イザヤの時代、アッシリアは勢力を拡大し、やがて現在のイラクから
エジプトまでのオリエントでは最初の世界帝国を確立します。
続いてバビロニアがこれに替わります。このバビロニアによってエルサレムは滅亡します。
そしてこれから見る預言が成就するのは、イザヤの死後150年経ってからです。
まずひとりの人物の登場が預言されます。40、44、45章に記されていますが、
神様が語られたポイントのところだけを引用しましょう。
「・・・エルサレムに向かっては、
『人が住むようになる。』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、
その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。・・・わたしは
@クロス
に向かっては、『わたしの牧者、
わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。
Aエルサレム
に向かっては、『再建される。
B神殿
は、その基が据えられる。』と言う。」」
(44:26〜28) 驚くべきことに、@「クロス」と150年後に生まれるペルシャの国の王を
その名で呼んでいるのです。 Aこの預言の時点では
まだエルサレムは破壊されていないのです。にもかかわらず、その再建を語っています。
そしてB神殿です。これも健在のときにあって、その再建を語っているのです。
この預言の成就をエズラ記1章に見ることができます。
「「ペルシヤの王クロスは言う。
『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、
ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、
すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。
その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。
この方はエルサレムにおられる神である。』(エズラ1:2、3)
次に神様はやがてエルサレムを滅亡させるまだ見ぬ帝国バビロニアの滅亡を預言します。
13、14、46〜48章に記されています。
やはり神様が語られたポイントのところだけを引用しましょう。
「「・・・
わたしはバビロンからその名と、残りの者、および、
後に生まれる子孫とを断ち滅ぼす。・・・
わたしはこれを針ねずみの領地、水のある沢とし、滅びのほうきで一掃する。・・・
」」(14:22、23)
「主に愛される者(=クロス)
が、主の喜ばれる事をバビロンにしむける。
主の御腕はカルデヤ人に向かう。」(48:14)
バビロニア帝国が確立したのがBC606、イザヤより100年後です。
バビロニア帝国が滅亡したのがBC536、イザヤより170年後のことです。
バビロニア帝国の滅亡はエルサレム帰還に結びついていきます。
「まことに、主はヤコブをあわれみ、
再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。」(14:1)
そしてバビロン捕囚より主に贖われた者たちが廃墟となったエルサレムに
帰還することが預言されます。51、52章に記されています。
「まことに主はシオン(=エルサレム)
を慰め
、そのすべての廃墟を
慰め
て、その荒野をエデンのようにし、
その砂漠を主の園のようにする。」(51:3)
「わたし、このわたしが、あなたがたを慰め
る。」(51:12)
「エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。
主がその民を
慰め
、エルサレムを贖われたから。
主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、
私たちの神の救いを見る。」(52:9、10)
このことが語られたときまだエルサレムは健在でした。
ですから廃墟となったエルサレムに、エルサレムの人々が戻ってくるという内容は
とても理解できるものではなかったでしょうけれども、
エルサレムに向かって喜びの知らせが告げられていることは理解できたことでしょう。
イザヤに限ったことではありませんが、預言者はしばしば未来の異なる時代のことを
神様からひとつのことのように啓示され預言しています。
すでにバビロン捕囚からのエルサレム帰還についての預言を見てまいりましたが、
実はこのエルサレム帰還についてももうひとつの異なった時代のことを語っていたのです。
それはそれが成就して歴史となった今の私たちにはたいへんよく理解できることです。
第二次世界大戦の後、シオニズム運動の結果、
エルサレムに帰還することも意味していたのです。
現在の私たちにとってはイスラエル共和国はパレスチナに存在する国家ですが、
実にAD90、ユダヤ人はその地を追われ世界に離散していました。
それが1930年代から突然世界中からパレスチナの地に帰りはじめ
ついに1948年5月14日に国家を再建し、さらに1967年6月5日、
第三次中東戦争(六日戦争)を経てエルサレムも手に入れるのです。
このパレスチナへの帰還は「主は、
・・・イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を
地の四隅から集められる。」(11:12)
などと預言されていましたし、国家再建は「・・・
地は一日の陣痛で産み出されようか。
国は一瞬にして生まれようか。ところがシオン(=エルサレム)
は、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」
(66:8)などと預言されているのです。
しかしイザヤ書には、現在のエルサレム共和国とは
似ても似つかないエルサレムを中心とする国家像がたくさん描写されています。
それは「神の国」と呼んでもいいと思われるすばらしい国です。
この神の国については後半(40〜66章)だけでなくイザヤ書全体を通して語られています。
まずその首都はエルサレムに置かれ、イエス様が全世界を治められます。
「終わりの日に、主の家の山(=エルサレム)は、
山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、
私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、
シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。」(2:2〜4)
「こうして、おまえ(=エルサレム)
のさばきつかさたちを初めのように、
おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、
忠信な都と呼ばれよう。」(1:26)
平和の君であるイエス様が支配されますから、戦争がなくなります。
「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、
国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(2:4)
国連の理念として国連ビルにこのみことばが刻まれているそうですが、
イエス様が支配する時代が来るまでは実現することはないでしょう。
争いは動物の間でもなくなります。「狼は子羊とともに宿り、
ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、
小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、
獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、
これらは害を加えず、そこなわない。」(11:6〜9)
土地も豊かに実を実らせるようになります。「主は、
あなたが畑に蒔く種に雨を降らせ、その土地の産する食物は豊かで滋養がある。」
(30:23) 「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、
サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。」(35:1)
病気もなくなります。「そこに住む者は、
だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」(33:24)
障害もなくなります。「そのとき、盲人の目は開かれ、
耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、
おしの舌は喜び歌う。」(35:5、6) 寿命も長くなります。
「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、
寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、
百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。」(65:20)
やがてイエス様がエルサレムから地上を支配されるとき、
このようなすばらしい世界になるのです。けれども地上の神の国は
永遠の世界ではないようです。もうひとつの神の国の様子も
少しだけ明らかにされているのです。
「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。
先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、
いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、
その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。
そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」(65:17〜19)
「「わたしの造る新しい天と新しい地が、
わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、
あなたがたの名もいつまでも続く。毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に
、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。」と主は仰せられる。」(66:22、23)
この新しい天と新しい地はまったく新しく創造される永遠の世界です。」
(66:8)などと預言されているのです。
イザヤ書には「贖(い)」という字が31回出てまいります。
ユダとエルサレムの住民に語っているときには、バビロン捕囚から
エルサレムに帰還することに関連してのことですが、その意味は
「その労苦は終わり、その咎は償われた。」
(40:2)とありますから、罪の結果のさばきを受け終わったということでしょう。
しかし「あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、
主は・・・」(43:14他)
という表現が多く使われています。それは神様がユダとエルサレムの住民の罪の代償を
支払ったということです。この両方を合わせて考えると、ユダとエルサレムの住民は
罪の結果としての捕囚というさばきを受け、神の贖いにより祝福を回復し、
エルサレムに帰還することができるようになったということでしょう。
刑法犯が刑に服し、その後被害者の赦しを得て和解したという感じでしょうか。
二重三重の意味を持つエルサレム帰還と国家再建ですが、BC536のときについては、
神様がこのときまでにどのような形で贖いをなさったのか分かりませんが、
将来イエス様が地上に王国(神の国)を築くことについては、
聖書ではしばしば未来の確定的なことを過去形で表現しますので、
このときから言えば未来にあたるイエス・キリストの十字架の贖いの御業にあずかることを
意味しているのでしょう。神の選民であるユダヤ人も
私たち異邦人も等しく神の御子イエス様の贖いによることなしには
神様の赦しをいただいて神の国に入ることはできません。
ユダとエルサレムの人たちは罪の結果のさばきとしてのバビロン捕囚を
経験しなければなりませんでした。しかし神様の贖いによって祝福を回復しました。
現在の恵みの時代の私たちはイエス様が罪の結果のさばきも
十字架の上で負ってくださいましたし、背を向けていた神様との和解も
十字架によって成し遂げてくださいましたので、罪のない者とみなされて
天の祝福を受け継ぐものとして神の子という立場が与えられ神の国に入れられる約束が
与えられています。
ですからエルサレムへの帰還を52章まで語ったそのあと53章で
「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
(53:6)とまさしく贖い主となってくださったお方の贖いの御業を預言しています。
神様は神の御子イエス様を贖い主として遣わしてくださいました。
そしてこの御方は神の国にあってダビデの王座につく御方ですから、
イザヤ書にはイエス・キリストについての預言が数多く語られております。
次回、それを覚えましょう。
イザヤは「ユダとエルサレムについて」(1:1)
預言しました。アッシリアの軍隊にエルサレムが包囲され、
続いてバビロンに捕囚されるという民族の危機にあたって、あらかじめ、
再びエルサレムに帰還することと国家が再建されることを預言したのです。
エルサレムの住民にとってはまさにこれから置かれようとする試練に耐えるために
ちょうどよいときに神様は未来の希望を啓示してくださったのです。
このイザヤ書の後半40〜66章の冒頭で、慰め
を必要としているその民に向かって、イザヤはこのように呼びかけています。
「「慰め
よ。慰め
よ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、
その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、
二倍のものを主の手から受けたと。」」
(40:1、2)「未来の事、来たるべき事」(44:7)を語ることができるのは、
人によって造られた神(44:9〜17)ではなく、人を造られた永遠から
永遠までご存在なさるまことの神(44:6〜8)のみです。この御方には力があり、
優しく導いてくださいます(40:10、11)。また永遠の神、
地の果てまで創造された方であって、その英知は測り知ることができません(40:28)。
それゆえこの御方を正しく知り信頼するとき、
「主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」
(40:31)経験をするのです。
現在イエス様を信じる者、つまりクリスチャンは、イエス様の十字架の贖いの御業が
自分の罪のためであったことを信じ感謝している者です。
ですから神の国に迎え入れられる約束をいただいて喜んでいます。
イエス様は「わたしの父の家には、
住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、
あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」
(ヨハネ14:2、3)と約束してくださっております。この希望を持っているのです。
確かにこの世の生活において起きることは
クリスチャンであろうとなかろうと変わりありません。
しかしこの希望をもっているので慰められ、
今のときをいつも喜んで生きることができるのです。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを
慰め
てくださいます。
こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰め
によって、どのような苦しみの中にいる人をも
慰める
ことができるのです。それは、
私たちにキリストの苦難があふれているように、
慰め
もまたキリストによってあふれているからです。」
(Uコリント4:1、2) どうぞあらゆる慰めに源である神様とイエス様を知ってください。