預言者イザヤのエルサレムについての預言
その1


 イザヤ書は「ユダ(王国)とエルサレムについて」 (1:1)の預言の書です。イザヤは「ユダの王ウジヤ、 ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」(1:1)に生き、 「ウジヤ王が死んだ年に」(6:1) 預言者として召命されました。このころはちょうど、北イスラエル王国が アッシリアによって滅ぼされるときでもありました。 北方から勢力を拡大してきたアッシリアは、BC734、北イスラエル王国を蹂躙し、 その民を連れ去っていきました。それから13年後のBC721、もう一度やってきて 首都サマリヤを完全に制圧し、その残りの民も連れ去ります。 イザヤがまだ若かったときのことでしょう。そしてさらに数年後、 今度はユダ王国に攻め込んできます。エルサレムを除く町々はことごとく滅ぼされ、 最後にBC701、ユダ王国の首都エルサレムを包囲します。 イザヤの生涯はこのアッシリアの脅威との戦いでした。

強大な敵アッシリア

 世界四大文明は、エジプト文明、メソポタミヤ文明、インダス文明、 そして黄河文明です。このうちエジプト文明とメソポタミヤ文明を 古代オリエント文明といいます。メソポタミヤとは「ふたつの川の間」という意味で、 その川はチグリス川とユーフラテス川です。おそらく「エデンの園」も このあたりにあったのではないか、と想像します。メソポタミヤ文明は、 BC3500〜BC3000頃に興ったとされ、このふたつの川の下流域にバビロン、 上流域にアッシリアがありました。BC1800頃、シャムシ・アダド1世により 政治的な統一がもたらされ、その後バビロンのハムラビ王に征服されたりしますが、 BC1360頃、アッシュール・アバルリト1世により強い王国が復活し、 以来多少の変遷はあるものの、チグリス・ユーフラテス沿岸地域の 豊かなデルタ地帯を中心にアッシリアは繁栄します。

 BC880頃に登場したアッシュールナジルパル2世により征服政策が行なわれ、 それまでの戦車、歩兵による戦いに騎兵隊を導入、北方貿易路を確保して、 西のシリアなどを属国とし、小アジアの鉄、アマヌス山脈の銀、レバノンの杉を手に入れ、 帝国の基礎を築きます。それはまた征服地の大規模な強制移住政策と、 反乱民に対する残虐な行為によって支えられていました。

 BC740頃に即位したティグラテ・ピレセル3世によって大遠征が行なわれ、 周辺諸国を攻略して領土を拡大し、その後の140年間、 古代オリエント最初の世界帝国となるアッシリア帝国を確立していきます。 北イスラエル王国を滅亡させ、エルサレムを除く南ユダ王国を滅亡させるのは、 このティグラテ・ピレセル3世、シャルマヌエセル5世、サルゴン2世、 セナケリブの時代です。次のエサルハドンの時代に、アッシリア帝国の領土は、 現在のイラン西部からイスラエルを通り越してエジプト本土全域にまで及びます。

 預言者ヨナが、神様に遣わされた大きな町ニネベは、このアッシリアの都市でした。

周辺諸国の滅亡

 イザヤは、ユダ王国周辺諸国の滅亡を預言します。 @ユダ王国に西のペリシテ(14:28〜32)。 サウル王の時代からイスラエルの強敵でした。 Aユダ王国の東のモアブ(15,16章)。アブラハムのおいロトの子孫で、 ダビデの祖母ルツの出身地です。 Bユダ王国からイスラエル王国をはさんでその北に位置するダマスコ(アラムの首都)(17章)。 Cその成就はユダ王国よりも後になりますが、西南のエジプトとクシュ(エチオピア)(19,20章)。 Dユダ王国よりはるか東のバビロン、南のドマ(エドム)、南東のアラビア(21章)。 Eユダ王国から北イスラエル王国をはさんで北西のツロ(フェニキアの首都)(23章)。 これらの周辺諸国は、かつては北イスラエル王国や南ユダ王国と力が均衡していて、 取ったり取られたりを繰り返していました。それらの国々がことごとくイザヤの預言の後、 アッシリアの圧倒的な軍事力によって滅ぼされてしまったのです。

ちょうどこれまでの周辺諸国からの襲撃のように、私たちの人生にはいろいろな問題が 襲いかかってきます。病気、事故、自然災害、トラブル、等々。失望したり、 乗り越えて喜んだり、悲喜交々です。しかし私たちに襲いかかってくるアッシリアのような 圧倒的強大な敵、誰ひとりそれに打ち勝つことのできない敵があります。 それは言うまでもなく「」です。 静岡新聞には「おくやみ申し上げます」という死亡記事欄があります。 一応毎朝目を通すのですが、その多くは高齢者の方です。 ときどき若い方の病死、事故死も出ています。 また死亡原因が書かれていない中年男性などは自殺かなと想像することもあります。 は確実に私たちに襲いかかってきますが、 関係者でなければ、ページをめくってしまえばもうその記事のことは忘れてしまいます。 他人のことだからです。

同胞の滅亡

 イザヤがアッシリアによる滅亡を語った預言の第7番めのグループがあります。 それは北イスラエル王国とエルサレムを除く南ユダ王国です。北イスラエル王国は、 BC734とBC721、アッシリアの圧倒的な力によって滅ぼされ、 その民は強制移住政策により連れ去られてしまいます(7:8,9、8:4、9:8〜10:4)。 このとき連れ去られた人々のその後の消息は依然不明です。 また南ユダ王国もエルサレムを除く城壁のある町々がことごとく破壊され、 アッシリアによって蹂躙されます(1:7,8、8:8、10:28〜32、33:8,9)。 エルサレムの人々はそれを目の当たりにしました。

 死は他人だけのことではありません。私たちの身近な愛するものにも襲いかかってきます。 私はすでに弟のひとりを失い、母も亡くなりました。 「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。 そこには、すべての人の終わりがあり 、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」 (伝道者の書7:2)という聖書のみことばがあります。 身近なもののに遭遇するとき、 それは自分自身にもやがて襲いかかってくる敵であることを心に留めるべきです。 備えをするためにそのような機会があるのです。 しかしに対しては誰も勝利することはできないと考えます。 そのものについて 解決を得ようとすることは不可能だと考えます。それを語ることはできないと考えます。 確かに解決のできない問題を指摘することは愚かなことです。けれども聖書は、 に対して勝利する道を語っているのです。

滅亡の預言の成就

 ここで踏みとどまって、イザヤのこれら周辺諸国の預言が成就したこと、 つまり歴史となったことを確認しておきましょう。

 アッシリアの王ティグラテ・ピレセル3世が、BC734、北イスラエル王国に侵入し、 その住民をアッシリアに捕らえ移します(ガリラヤ捕囚 U列王記15:29  ユダの王ヨタムの頃)。その後北イスラエル王国とアラムがユダ王国を攻め、 アハズ王の代わりにタベルの子を王に立てようとします(7:1〜6、U列王記16:5、 U歴代誌28:5,6)。そこでアハズ王がアッシリアに助けを求めます(U列王記16:7)。 それに応えてアッシリアの王ティグラテ・ピレセル3世が、アラムの首都ダマスコを攻め、 その住民をキルに捕らえ移します(U列王記16:9)。BC721、アッシリアの王 シャルマヌエセル5世がもう一度、北イスラエル王国の首都サマリヤを攻めて、 その住民をアッシリアに連れ去ります(U列王記18:9〜11 ユダの王ヒゼキヤの第6年)。 1年後のBC720、アッシリア軍は南下し、ペリシテの町々を占領し、 エジプトの軍隊を破り、ユダ王国に侵入します。そしてBC713、 アッシリアの王セナケリブはユダ王国の町々を攻め取ります(36:1、U列王記18:13  ユダの王ヒゼキヤの第14年)。このときペリシテ、エドム、モアブにも侵入します。 そしてついにBC701、アッシリアの王セナケリブはユダ王国の首都エルサレムを包囲し、 「アッシリアの王たちがすべての国々 ・・・を絶滅させた」(U列王記19:11)と言って降伏を求めます(36:16)。

エルサレムの人たちの備え

 周辺諸国や同胞北イスラエル王国、南ユダ王国の町々が アッシリア軍によって滅亡するのを見聞きし、また自らも 「おまえの最も美しい谷は戦車で満ち、 騎兵は城門で立ち並んだ」(22:7)状況に置かれた幻の谷(=エルサレム) の人々はどのようにして敵に備えたでしょうか。 @「ダビデの町(=エルサレム) に破れが多いのを見て、 下の池に水を集め」(22:9)ました。 A「家をこわして城壁を補強し」(22:10)ました。 ローマ市も帝国が分裂するとき同じことをしたようですね。 B「貯水池を造」(22:11)りました。 しかし、ことここにいたってこれらのことが何の役に立つでしょうか。 アッシリアの王セナケリブが指摘しているように、 アッシリアの強大な軍事力の前に立ち向かうことができる国も町もどこにもなかったのです。

 私たちもの前にはまったく無力な者です。 に対する備えとして 私たちが考えることができることといえば、生命保険、お墓の購入、遺書、 いろいろ挙げられるかもしれませんが、どれも そのものを撃退することはできません。敗北を受け入れながら対応策を考えるのみです。

エルサレムの人たちに欠けていたこと

 神様はエルサレムの人たちにそのことを指摘されます。 「しかし、おまえたちは、 これをなさった方に目をくれず、昔からこれを計画された方を目に留めなかった。」 (22:11) 万軍の主である神様に助けを求めなかったのです。 神様の御手の内にあってこれらすべてのことが起こっていることに心を留めなかったのです。 神様はアッシリアを用いて、エルサレムに神様に立ち返るよう求めておられたのです。

 私たちも同じです。人にはどうすることもできない「」 という問題も、私たちを愛する対象として創造してくださった神様に心を留めるとき、 そこにに勝利する道があることを見出します。

神様の直接的介入

 ユダの王「ヒゼキヤは主に祈って言」(37:15)います。 「イスラエルの神、万軍の主よ。ただ、 あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。 ・・・主よ。アッシリアの王たちが、すべての国々と、その国土を廃墟にしたのは事実です。 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、 木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。 今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、 あなただけが主であることを知りましょう。」(37:16〜20)  神様は「あなたがアッシリアの王セナケリブについて、 わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。」(37:21) とヒゼキヤ王に言われます。そして約束します。 「それゆえ、アッシリアの王について、 主はこう仰せられる。彼はこの町(=エルサレム) に侵入しない。また、ここに矢を放たず、 これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもしない。 彼はもと来た道から引き返し、この町には、はいらない。――主の御告げ。 ――わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために。 わたしのしもべダビデのために。」(37:33〜35)  実はヒゼキヤ王が祈る前から神様は預言者イザヤを通して何度も何度も繰り返して、 アッシリア軍からエルサレムを守ること、 アッシリア軍を撃退されることを語っておられました (10:24〜34、29:5〜8、30:27〜33、31:4〜9、33:3〜4,21〜23、38:6)。

 そして、そのことは事実となります。 「主の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、 十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きてみると、なんと、 彼らはみな、死体となっていた。アッシリアの王セナケリブは立ち去り、 帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、 その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、 アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。」 (37:36〜38、U列王記19:32〜37)神はご自分の都エルサレムを守るために、 直接、介入なさったのです。

に対する勝利

 アッシリアの強大な軍事力の前に、エルサレムはまったく無力でした。 ただ神様が介入されたことによって助かることができました。神であり、 神の御子であるイエス・キリストの十字架と復活、とりわけ復活によって、 私たちはに勝利することができます。

 「罪から来る報酬は です。」 (ローマ6:23)。聖書は、の原因は 罪であるとはっきりと説明します。イエス様は十字架において、罪のあがないの御業を 成し終えました。の原因である罪の問題を 解決されたのです。原因が取り除かれたのですから、 は十字架の御業を受け入れた人を 支配しつづけることはできません。確かにアダムの性質を 受け継いでいるこの肉体は死ななければなりません。 けれどもその後も死の支配を受けつづけることはありえないのです。

 イエス様は十字架の上で死んで、葬られ、そして3日目によみがえりました。 よみはイエス様をとどめておくことができませんでした。 パウロはイエス様が「初穂」としてよみがえった、と説明します(Tコリント15:20)。 つまり初穂の後に多くの実りが続くということです。キリストにある者が イエス様の空中再臨のとき、一瞬のうちに栄光のからだによみがえって 天に引き上げられるのです(Tテサロニケ4:13〜17)。 今のこの朽ちてしまう肉体ではなく、朽ちることのない、 もはやの支配を受けることのない 栄光のからだに変えられるのです。そのとき 「は勝利にのまれた。」 (Tコリント15:54)まさしくそのとおりになります。 「よ。 おまえの勝利はどこにあるのか。 よ。 おまえのとげはどこにあるのか。」(Tコリント15:55)  逆に私たちの最大の敵であるを 支配することになるのです。

キリストのよみがえりが事実か?

 神の御子イエス様が死んで葬られ3日目によみがえったことは 4つの福音書すべてに記されています。そしてそれと同時に弟子たちも、 初めイエス様の復活を信じることができなかったことがそのまま記されています。 「死人は生き返りません。 死者の霊はよみがえりません。」(イザヤ26:14) あたりまえのことです。 12弟子のひとりトマスは、「ほかの弟子たちが彼に 「私たちは主を見た。」と言った」とき、 「トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、 私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、 決して信じません。」と言」いました(ヨハネ20:24〜29)。 ペテロは復活した主イエス様にお会いした後でも、 多分抱いていたメシヤ像との違いに戸惑っていて何をしたらいいかわからず、 とりあえず「私は漁に行く。」と言うと 他の弟子たちも従うのです(ヨハネ21:1〜3)。あれほど繰り返しイエス様が、 ご自分が殺されるけれども3日目によみがえることを語っていた (マタイ16:21、17:9,23、20:19)にもかかわらず理解していなかったのです。 けれども弟子たちは変わりました。よみがえった主イエス様と交わり、 自分たちの抱いていたイメージのメシヤではなく、 神の御子である真のメシヤを知ったのです。 その後は聖霊の力をいただいて命をかけてイエス・キリストの救いを 宣べ伝える者となりました。

 パウロはイエス様が事実よみがえったことを証明するために、証人たちを列挙します。 「@イエス様と3年半寝食をともにした、 質という点においてけっして見まちがえるはずのないケパ(ペテロ)に現われ、それから A十二弟子に現われたことです。その後、 B量という点からですが、 キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。 その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。 これを書いている時点で多くの生き証人がいるからぜひ確認してください。 その後、キリストは C肉の弟で幼いころからよく知っている やはりけっして見まちがうはずのないヤコブに現われ、それから D使徒たち全部に現われました。そして、 E最後に、月足らずで生まれた者と同様な私(パウロ)にも、 現われてくださいました。」(Tコリント15:5〜8)  このようにイエス様の復活は、証人の質においても、量においても、 確かなことでした。

どのようなからだでよみがえるのか

 イエス様によってよみがえらされた3人の方がいます。 @死後まもなくの会堂管理者ヤイロの娘、12歳でした(ルカ8:40〜42,49〜56)。 A埋葬のため運ばれていく途中であったナインのやもめの息子、 青年でした(ルカ7:11〜15)。そして死んで4日経っていたラザロ(ヨハネ11:1〜44)。 しかし彼らは老いやがて朽ちていくこのからだによみがえったのですから、 また死に、今は存在していません。

 イエス様がよみがえったときのからだは、 どうもこのからだとは違ったもののようです。イエス様は復活した後、 戸を閉じて、イエス様を捕らえ十字架につけた当時の支配階級に捕らえられることを 恐れて隠れていた弟子たちのいる家の中に突如、現われました。 壁も戸もイエス様のよみがえりのからだには障害となりませんでした(ヨハネ20:19)。 といっても幽霊ではありません。 そう思う弟子たちのために焼いた魚を食べて見せました(ルカ24:36〜43)。 明らかに現在の血肉のからだのように制約のあるからだではない、 まったく別のからだを、イエス様は復活した後にはまとっていたことが分かります。

 同じようにイエス様に属するものも、よみがえっていただくからだは、 そのような御霊のからだ(Tコリント15:44)、天上のかたち(Tコリント15:49)と呼ばれる、 朽ちない、死なないからだ(Tコリント15:53)なのです。 そう、の支配から完全に脱却したからだなのです。 このからだが与えられるのは終わりのラッパが鳴るとき(Tコリント15:52)、 イエス様が空中再臨されるときです(Tテサロニケ4:16,17)。 天の都は「もはや もなく、 悲しみ、叫び、苦しみもない」(黙示録21:4)ところです。 それにふさわしいからだが与えられるのです。

の滅亡

 「アダムにあってすべての人が死んでいるように、 キリストによってすべての(キリストにある)人が生かされ」 (Tコリント15:22)ます。その順番は、 @初穂であるキリスト、A空中再臨のときキリストに属している者、そして B終わりが来ます(Tコリント15:23,24)。その終わりにまた順番があります。 B-1 キリストの支配がこの地上で行なわれる千年王国の時代、このときあらゆる支配、 権威、権力をその足の下におきます(Tコリント15:25)。 サタンはハデスに縛られます(黙示録20:2,3)。ですから罪は大幅に抑えられ、 「百歳で死ぬ者は若かったとされ、 百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされ」(イザヤ65:20)るほど、 罪の結果であるもまれになります。 B-2 「千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され」 (黙示録20:7)ますが、「悪魔は火と硫黄との池 (ゲヘナ)に投げ込まれ」(黙示録20:10)、 「とハデス (も)・・・火の池(ゲヘナ) に投げ込まれ」(黙示録20:13)ます。 つまり「最後の敵である も滅ぼされ」 (Tコリント15:26)るのです。 そしてB-3 すべてのものを従わせられたイエス様も父なる神様に従います。 こうして「神が、すべてにおいてすべてとなられる」 のです。罪が人類に入って神に背を向けたときから が入りましたが、こうしてすべてのものが キリストに十字架と復活により神のもとに回復するのです。 もちろんその過程で、そのものも滅びます。 このことは永遠に神とともに生きる者にとってさいわいですが、 永遠にゲヘナにあって苦しむ者にとっては恐ろしいことです。 という終わりがないのですから。