「イスラエルの残りの者たち」ということで書いてみたいと思います。
歴史書では、列王記、歴代誌の最後に、そして預言書にたくさん出てくる表現ですが、
預言者ミカの書をベースに考えていきたいと思います。
ミカが預言した
「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」
(ミカ1:1)は北イスラエル王国も南ユダ王国もけっして国力がなかったわけではありません。
むしろそれぞれ少し前のヤロブアム2世、ウジヤ王の時代には最も国土を拡大し、
ソロモンの時代を彷彿させる有様でした。その豊かさをもたらしたのは交易でした。
隣国フェニキアにはツロという良港があって広く世界とつながることができました
(T列王記5:1、9:28)。
乳と蜜の流れる地」(出エジプト3:8他)と言われたとおり中東世界にあっては、
日本のようにたいへん豊饒な地で、農業や牧畜に適し、
律法によって先祖代々の土地が子孫に引き継がれるよう、神様が定めてくださっておりました。
(レビ25:23〜28)
しかしこの頃、本来のイスラエルの産業である農業、牧畜から離れ、
交易を通して富を得た者たちが、貧しい者の相続地、その家や畑を取り上げていました
(ミカ2:1,2)。そのため神様は「見よ。わたしは、
こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。」(2:3)と宣言いたします。
また安らかに生活している者からの搾取も行われていました(2:8,9)。
ですから神様は「さあ、立ち去れ。
ここはいこいの場所ではない。ここは汚れているために滅びる。それはひどい滅びだ。」
(2:10)と告げます。これはアッシリア帝国による侵略、
バビロニア帝国による捕囚を語ったことばでした。
ミカはこのように、北イスラエル王国、南ユダ王国に対する神様のさばきの理由は、
偶像礼拝だけでなく神様をも恐れない社会にもあることを語っています(2〜3章)。
振り返って現代の豊かな国日本はどうでしょうか。グローバル化が進み、
世界調達の時代で、最適地生産ということで、企業はコストが安く
良質な労働力が得られる東南アジアに、また市場に近いということで
欧米や中国に工場を建設したりしています。私たちが毎日使っているパソコンや衣類、
家電品などはすっかり国内メーカーの海外製品になってしまいました。
一方、物を生産しないのに利益を得る商取引が最近では急成長しています。
バブル経済をもたらした土地への投機もそのひとつでしょう。
一気に膨れ上がり経済全体を崩壊させてしまいました。株式投資もそうです。
最近、個人投資家が増えているということですが、
額に汗を流すことなく富を得ようとするのはよいことではありません。
もっと悪いのは、知識のない人や力関係において
立場の弱い人を利用して私腹を肥やす輩です。巨悪はさばかれないとうそぶく者たちです。
今は豊かさと裏腹に神をも恐れない時代でもあるのです。
まさにミカの時代と同じではないでしょうか。神様はミカの時代、
さばきを下すと宣言なさり、そのとおりになさいました。遠からず、
神様のさばきのときが訪れることはまちがいのないことです。世界がさばかれるとき、
自分ひとりは善良だから助かるということがあるでしょうか。
神様の義の基準を満たしていなければ、まぬがれることはありえないのです。
エルサレムはアッシリアやバビロニアによって絶滅させられるのでしょうか。
確かに預言者イザヤはイスラエルの周辺諸国、民族、たとえばペリシテ(14:30)、
モアブ(16:14)、アラム(17:3)などが、これらの国によって全滅することを預言しています。
けれどもエルサレムについて、ミカはこのように言っています。
「ヤコブ(イスラエル)よ。
わたしはあなたをことごとく必ず集める。わたしは
イスラエルの残りの者を必ず集める。」(2:12)
確かに都市の滅亡は免れることはできないけれども、イスラエル民族をもう一度、
またエルサレムの地に戻す、集める、復興すると約束します。この預言の後、
実に100年を経て、エルサレムは滅亡します。しかしその民はバビロニアに捕囚となって行き、
さらに70年の後、その一部がエルサレムに帰還するのです。
ミカを通してエルサレムにこの約束をなさったのは、神様です。神様は約束されただけでなく、その約束を実現いたしました。
しかしすべてのイスラエル民族がバビロニアに行き、戻ってきたわけではありません。
「イスラエルの残りの者」と表現されているように、
それはわずかな神様に忠実な者だけでした。イスラエル人がかつて
エジプトを出発したときの人数は、「幼子を除いて、
徒歩の壮年の男子は約六十万人」(出エジプト12:37)もいました
。けれどもペルシャの王クロスによって捕囚の身から解かれて初めに戻ってきたのは
「全集団の合計は四万二千三百六十名」
(エズラ2:64)に過ぎませんでした。
「主よ。救われる者は少ないのですか。」
(ルカ13:23)と問われたとき、イエス様は
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、
その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、
それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13,14)とお答えになりました。
イスラエルの多くの者たちは、預言者たちを通して警告される神様のみことばに耳を傾けず
滅びの道を選びました。社会は豊かで災いが来るなどとは考えられなかったからです。
けれどもわずかな人たちは、預言者たちのことばを受け入れ、バビロン捕囚を経て
エルサレムに戻ってきたのです。
今もイエス様は、「狭い門からはいりなさい。」と
呼びかけておられます。多くの方が行く道だから正しいというわけではありません。
その道が果たして真理に導く道であるか、神に至る道なのか、
自分で吟味しなければなりません。
イスラエルの残りの者たちがバビロン捕囚から
再びエルサレムに集められる預言を見てきました。
もうひとつの預言があります。
「わたしは足なえを、残りの者とし、遠くへ移された者を、
強い国民とする。主はシオンの山(エルサレム)
で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。」
(ミカ4:7) このようにミカはバビロンからの帰還だけでなく、
イエス様が地上に王国を確立し、エルサレムにおいて支配をするときのことも語っています
(4〜7章)。
イエス様が誕生したとき、東方の博士たちがエルサレムにやってきて
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」
とヘロデ王に聞きました。ヘロデ王は民の祭司長たち、学者たちに
「キリストはどこで生まれるのか」と問います。すると即座に彼らは
「ユダヤのベツレヘムです。」と答え、その根拠として
「ベツレヘム・エフラテよ。
あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、
イスラエルの支配者になる者が出る。」(ミカ5:2)
というミカの預言を示すのです。実にその誕生の700年も前に、
その誕生の地が明確に預言されていました。
そして当時の学者たちそれを正確に研究し確信していたのです。
それだけイスラエルの救世主としての王の誕生が待望されていたということでしょうか。
(マタイ2:1〜6)
このイエス様はユダヤ人によって拒絶されてしまいますが、
もう一度この地上においでになり、シオンの山エルサレムにあって支配なさいます。
そのとき、イスラエルの残りの者たち、主に忠実であった者たちが
王国に迎えられるのです(ミカ4:6〜8)。
「イスラエルの残りの者たち」という表現は、地上のエルサレム帰還と
再建に関して用いられているので、新約聖書の中には出てきません。
ただ神様の全人類の救いのご計画が明らかにされているローマ人への手紙9〜11章の中で、
この旧約聖書でなじみのある「残りの者たち」という表現を用いて、
イスラエル人にわかりやすく神様の人に対するみこころ、
その恵みとあわれみを教えています。
11章の「恵みの選び」の方を先に見てみましょう。
かつて預言者エリヤが偶像の神バアルの預言者と対決したとき、
イスラエルにはもはや主の預言者はエリヤひとりしか残されていないように思われました。
その対決で精根尽き果てた後もなおエリヤの命を狙うイゼベルの追っ手を前にしてエリヤは、
「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、
あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。
彼らはいま私の命を取ろうとしています。」と訴えました。
すると神様は「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、
わたしのために残してある。」と答えられました。
エリヤのような表立った行為に及ばないながらも偶像バアルにひざをかがめない人たちを
神様は恵みによって選んでおられました。
救いは行ないによって達成されるものではありません。神様の恵みによる選びがあり、
それに答える信仰によって与えられるものです。
恵みを恵みとして受け止め素直に受け入れることができたらさいわいです。
9章のあわれみによる召しについても見てみましょう。
前提となっていることは、私たちは「神に言い逆ら」
(9:20)って生きてきたものであるということです。生まれたときから今日まで
神様とともに生きてきたと言い切れるでしょうか。そのような私たちではありますが、
神様は「あわれみの器」(9:23,24)を召し出すというのです。
@ユダヤ人からだけでなくあわれみによって異邦人からも召しだす。
Aイスラエル人はイスラエル人だからという理由でみな救われるのではなく、
「残された者」(9:27)、
すなわち神様に忠実なわずかなものだけが神様によって救われる。そして
B神様があわれみによって子孫という残りの者を与えてくださらなかったら
不信仰な今の世代をもってイスラエルは絶滅してしまう、と預言を引用して説明しています。
神様に逆らって威張って生きている
「滅ぼされるべき怒りの器」(9:22)
である私たちはイスラエルに属する者であろうと異邦人であろうと救われることはないのです。
にもかかわらず神様は「あわれみの器」として召し出し、
ご自分の御用に私たちを用いたいとなおも願っておられます。
このみこころにぜひ応えてほしいのです。
神様はいつでも誠実です。自分本位に生きる私たちに、
忍耐しながらさばきがあると警告されています。神様は神様を愛するものに対して
赦しを持って導いてくださいます。「あなた(神様)は、
咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、
怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。」(ミカ7:18)
それゆえ神様は「人よ。何が良いことなのか。
主(神様)は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、
へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」
(ミカ6:8)と呼びかけてくださっています。素直に応えましょう。