「イサク」のことについて書きたいと思います。創世記21〜28,35章に登場します。
イサクに関連する3つの出来事からイエス様のことを覚えてみたいと思います。
@ イサクの誕生のことは創世記21章1〜7節に記されています。
先回書きましたように神様はアブラハムを祝福し、「
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」(22:18)
という約束と「わたしは、
あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。」(17:6)
という約束を致しました。これはともにまずアブラハムに子どもが与えられなければ実現しないことです。
ですから約束の子イサクの誕生はたいへんな意味を持っていたのです。
さて、このイサクが誕生したとき、父アブラハムは100歳になっていました。
最初に神様がアブラハムを祝福されたのは、75歳のときでした。(12:4)
けれどもその約束を継承する子どもがなかなか与えられませんでした。10年ほど経ったとき、
妻のサラは夫アブラハムにサラの女奴隷ハガルを与え、彼女によって子どもを得るように勧めます。
愚かにもアブラハムはこれを受け入れて得た子どもがイシマエルで、アラブ人の先祖です。
イスラム教も一神教でアブラハムを先祖とするのは、ここから分かれているのです。
このことは神様のみこころにかなったことではありませんでした。
あくまでも正妻サラによって与える子どもこそ神様の約束を受け継ぐものでした。
ただ神様はイシマエルもアブラハムの子どもであるからと、その数を増すことを約束されました。
(16:11)それが現在も続くイスラエルとアラブの抗争の原因となっているわけです。
その後さらに15年ほど経って、やっと具体的に子どもが与えられることが告げられましたが、
そのときにはアブラハムは99歳、妻サラは89歳になっていて、
とても子どもができるような年齢ではなくなっていました。(17:17〜21)
その後もう一度イサクの誕生が告げられたときにもサラは、年寄りにそんなことはあり得ない、
と笑いました。(18:12)しかし人間的な可能性がなくなったところで、
神様は、神様としての力を現され、約束のとおりイサクは誕生致しました。(21:1)
イスラエルの歴史の中でイエス様の誕生は繰り返し預言されていました。
先回も「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
」(マタイ1:1)と新約聖書の一番最初の書かれている理由を書きました。
マタイ伝はそれに続いて、イエス様の誕生にまつわるいろいろな出来事をひとつひとつ取り上げては、
それが旧約聖書において預言されていたことであることを証明するために、
旧約聖書の預言をいちいちひいては説明をしています。
イサクは約束されていて、誕生しました。イエス様も、イエス様によって信じるすべての人が
天の祝福を受け継ぐために、その誕生が約束されていて誕生しました。
ユダヤ人は、神様がユダヤ民族(=アブラハム)に約束された救い主(メシア=ヘブル語、
キリスト=ギリシャ語)の誕生を待望しておりました。そのためバプテスマのヨハネが
悔い改めを宣べ伝え始めると質問します。「ヨハネの証言は、こうである。
ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」
と尋ねさせた。彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。」
(ヨハネ1:19,20)
また使徒たちに時代にはいってからですが、使徒たちの行動がユダヤ人議会の問題になったとき、
イスラエルで、昔から自分こそメシアだと言って立ち上がって群衆を扇動した人たちのことが
引き合いに出されたことがありました。「というのは、
先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、
彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、
あとかたもなくなりました。その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、
民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。
」(使徒5:19,20)
そして、イエス様自身にはいつもメシアであるかどうかが問われていました。
けれどもそのメシア像はユダヤ人が描いていたローマ帝国からのユダヤ人の解放ではなく、
罪からの全人類の解放でした。ですから先ほどのバプテスマのヨハネは、
イエス様をこのように紹介しました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』
と言ったのは、この方のことです。」(ヨハネ1:29,30)
あるときイエス様自身が弟子たちに尋ねました。「さて、
ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。
「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、
エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、
また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、
わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「
あなたは、生ける神の御子キリストです。
」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。
あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、
天にいますわたしの父です。」(マタイ16:13〜17)
救い主(メシア、キリスト)の誕生が期待されていて、多くの政治的扇動者が現れたけれども、
魂の救い主として、預言(約束)のとおり現れたのはこのイエスであるということをマタイは
その誕生にまつわる出来事をいちいち、旧約の預言と照らし合わせて紹介しました。
処女降誕と称号 | 記事:マタイ 1:20〜25 | 預言:イザヤ7:14 |
誕生地ベツレヘム | 2:1〜9 | ミカ5:2 |
エジプトに下ること | 2:13〜15 | ホセア11:1 |
2歳以下の男子が殺されること | 2:16〜18 | エレミヤ31:15 |
ナザレに住むこと | 2:22,23 | イザヤ11:1 |
A イサクの特筆すべき記事の第2は、創世記の22章に記されている全焼のいけにえとして
ささげられようとしたときの記事です。あるとき神様はイサクの父アブラハムに
「
全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
(22:2)と言われました。ヘブル書の記者は「
彼は、
神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。」(11:19)
と説明しておりますが、その信仰を試すためにたいへんな試練が与えられました。
このときイサクは全焼のいけにえのためのたきぎを背負っていくのですから、
すでにそれなりの若者に成長していたと思います。進んでいく途中で質問します。
「
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、
「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、
全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。
「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」
こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、
アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、
祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、
刀を取って自分の子をほふろうとした。」(22:7〜11)
年老いた父から逃れようとすればいくらでもチャンスはあったはずです。
けれどもイサクはそうしませんでした。むしろ父の心を理解し自ら進んでいったと思われます。
これはイサクの信仰でした。
イエス様もまた、父なる神様のみこころを理解なさって、自ら天の栄光を捨てて地に来られ、
十字架の上になだめの供え物となってくださいました。「
キリストは、
神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、
仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
(ピリピ2:6〜8)
B イサクの生涯で結婚のときは信仰的にたいへんさいわいであったと思います。
創世記24章にその記事は記されています。それはまさしく聖霊の導きを象徴するような結婚でした。
父アブラハムはしもべに「
あなたは私の生まれ故郷に行き、
私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」(24:4)と言いつけました。
しもべは出かけていき、ナホルの町に着くと井戸のかたわらで祈ります。
その祈りはすぐに応えられてアブラハムの親戚筋にあたるリベカが現れます。
そしてその家に案内され、リベカの父ベトエルと兄ラバンにことの次第を話します。
するとふたりは「
このことは主から出たことですから、
私たちはあなたによしあしを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。
どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。
」(24:50,51)と即座に答え、リベカ自身の気持ちを確かめて、祝福し、
送り出されます。そしてしもべからの報告を聞いて、イサクはリベカをめとります。
この美しい結婚への過程は、聖霊の導きによる結婚のひな形として学ばれるところです。
ちょうどしもべは、聖霊を象徴しているようです。 さて、またイサクとリベカの結婚は、
私たちの主イエス様とからだなる集会(教会)の結婚を象徴する出来事でもあります。
以前にも説明をしたかと思いますが、聖書には、ふたつの集会(教会)が記されています。
ひとつは単数形で、からだなる集会とも普遍的集会ともいわれる霊的な集会です。
これについて今花嫁としての姿を見ます。そしてもうひとつが複数形の集会で、
諸集会とも地域集会ともいわれるこの地上の各地域にある集会です。寺島町にある集会もそのひとつです。
キリストとからだなる集会との関係はこのように記されています。「
また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、
いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、
いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
(エペソ1:22,23)
また夫婦の関係を説明した個所ではキリストとからだなる集会の関係を引き合いに出して
説明しております。「
妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、
自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、
ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
教会がキリストに従うように、
妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。
キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、
あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、
教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、
聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、
夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は
自分を愛しているのです。」(エペソ5:22〜28)キリストがご自身をささげる程までに
愛する集会(教会)、そしてかしらとしてキリストに従う集会、
これがキリストの花嫁であるからだなる集会の姿です。
その婚姻は患難時代、すべての信者が引き上げられた天において行われます。
「
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、
花嫁はその用意ができたのだから。」(黙示録19:7)
この花嫁である集会はすべての信者によって構成されるものです。
私たちひとりひとりは救われたものですけれども罪人にすぎません。けれども状態如何に関わらず、
この霊的な集会は、神様によってまったくきよいものと見なされるのです。「
私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」
(コリント第2 11:2)
2代目の特徴かもしれませんが、イサクはアブラハムやヤコブに比べると、線が細いように思えますが、
その若いときの信仰に、イエス様のひな形としてみることのできることがあることはさいわいです。