あるとき、イエスさまと弟子たちが道を歩いていると、ひとりの生まれつきの盲人が道端に座って 物乞いをしていました。この人について弟子たちはよく知っていたようで、イエスさまにこう質問しました。 「彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。 盲人本人を目の前にしてなんと心ない質問でしょうか。しかしこれは当時のイスラエルにおいて普通の考え方でした。 現在の日本においてもそうでしょう。この盲人はいつも容赦なくそう言われてきました。 そして自分自身でもいつのまにかそのように考えるようになっていたのではないでしょうか。 「きっと自分が生まれつき目が見えないのは前世で自分は何か悪いことをしたからに違いない。 そうでなければ両親が自分に言わない何か悪いことをしてそれがたたったんだ」。 彼の心は自分自身を責める気持ち、両親を責める気持ちでいつも穏やかでなかったでしょう。 そしていつの間にか人生を諦めただ日々物乞いにのみ明け暮れるようになっていたのではないでしょうか。 そこに弟子たちのイエスさまに質問する声が耳に入ってきました。 盲人にとって、もういやというほど聞かされ考えてきた言葉でした。 その回答に何の期待を持つこともなかったでしょう。なぜなら、「自分の罪のため」と指摘されても、 「両親の罪のため」と指摘されても何の解決も希望も生まれてくることはないのですから。
しかし、イエスさまの回答はまったく予想に反したものでした。「この人が盲目に生まれついたのは、 この人が罪を犯したのでもなく、その両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」。 この答えに弟子たちはもちろんですがこの盲人はどれほど驚きまた今まで忘れていた喜びと 希望を抱いたことでしょうか。まず、第一に盲目であることの原因を人を責めることにまったく求めませんでした。 そして第二にさらに前向きな言葉がありました。「神のわざ」が現れるためであるというのです。 おそらく彼は自分の人生について「何のために生まれてきたのだろう」「何のために生きているのだろう」 と自問することが多かったのではないでしょうか。あるいは答えを見いだせなくて考えることさえも しなくなっていたかもしれません。その彼の耳に「あなたの盲目は神のわざが現われるため」 という言葉がはいってきました。イスラエルの人なら誰でも天地万物を創造した神についてよく知っていました。 でもまさか自分の存在がその神のために何かできるなんて想像もしなかったことでしょう。 彼の心はもう完全に光につつまれていました。イエスさまをその心の中にすっかり受け入れておりました。
しかし彼は依然として盲目です。けれども今、彼の心の目は開かれ、自分の存在の目的を知ったことで 喜びに満たされておりました。生ける真の神は私たちひとりひとりを神のために働くことのできる存在として 造られました。造り主が目的を持って私たちを造られたのですから、私たちが神に対して心を開くならば、 人生の真の意義を見出すことができるのです。
彼はどのようにして「神のわざ」を現わしたのでしょうか。イエスさまはこの後「わたしは世の光です」 と言われ、この生まれつきの盲人の目をあけられます。盲人であった彼はイエス様に敵対する人々に 「おまえの目をあけたのは誰か」「神から来た者以外に人の目をあけることができるはずがない」と言われながら 「わたしはかつて盲目でしたが、今はイエスという御方によって見えるのです」と語り、 イエスさまについて正しく証言していくのです。
彼は今、目が見えます。けれども、彼の人生が変わったのは、目が開かれたときではなく、 イエスさまを心の中に受け入れたときでした。イエスとはどのような御方なのでしょうか。 神のもとから来られたひとり子の神です。あなたのために、私のために天の栄光を捨ててこの地上に 二千年前に来られ私たちをもう一度神のものとするため、十字架の上で神よりのさばきを受け、 この盲目であった人と同じように私たちに神との交わりを回復させ、 喜びのうちに歩む人生と永遠のいのちへの希望を与えてくださった御方です。 このイエスさまをまず受け入れるようお勧めします。