神様は完全な義であるお方であり、同時に完全な愛であるお方でもあります。
今回、「預言者ホセアとその妻ゴメス」のことを考えてみたいと思います。
そこに現わされているのは、神様の忍耐に甘えて偶像礼拝という姦淫の罪から
悔い改めようとしないイスラエルに対して神様がいよいよさばきを下さざるを
得なくなったとき、その不貞のイスラエルをなお愛していることを語り、
やがて多くの苦しみを通して神様に立ち返ろうとした時、
神様の変わることのない愛を思い起こして回復できるよう、
神様はホセアの経験を通して、みこころをイスラエルに語るのです。
預言者ホセアが用いられたのは、ほぼ先回の牧者アモスと同時代、
もう少し正確に言えばその少しあと、BC740頃のことと思っていただいていいと思います。
ヤロブアム2世の治世下、繁栄を誇る北イスラエル王国では、その実、
内部から政治的腐敗、宗教的堕落が始まっていました。民衆もまた厭世的、
退廃的な気持ちに支配され、道徳的にもひどく乱れていました。
若者ホセアは、牧者アモスが神様からの啓示を受けて、
イスラエルの国家的な罪を責め、「イスラエルは
その国から必ず捕えられて行く」アモス7:11,17)
という警告を聞いていたことでしょう。ホセアは神様のみこころを
思い憂えていたに違いありません。そんな純真な信仰を持っていたホセアに対して
神様はそのみこころを語り始めておられました(1:2)。
そしてあるとき、「行って、姦淫の女をめとり、
姦淫の子らを引き取れ。」(1:2)と神様からお告げを受けました。
ホセアにとってかなりショッキングな命令であったことでしょう。
神様のご性質にふさわしく、聖く正しい行ないをすることに喜びを見出していたでしょうし、
結婚ということにはそれなりに理想を抱いていたことでしょう。こともあろうに、
自分の生き方とはまったく対極にある神様の最もお嫌いになる不品行の罪の中に生きている女を
人生の伴侶にせよとは・・・、結婚ではお互いに相手を愛し尊敬することがなければ
成り立たないではないか・・・、愛せないような生き方をしているものを妻に迎え、
愛せよ、と神様はおっしゃるのか・・・。ホセアの心の中では
一気にそんな思いが駆け巡ったことでしょう。
けれどもホセアの信仰は神様に対して純粋でした。
そこに「この国は主を見捨てて、
はなはだしい淫行にふけっているからだ。」(1:2)
と神様の何らかの国家的啓示があることを知らされたからでしょう。
そこでホセアは「そこで彼は行って、
ディブライムの娘ゴメルをめと」(1:3)ります。
ホセア自身のことについてもホセア書にしか出てきませんので詳しく知ることができません。
ましてゴメルにいたってはその素性を知る手立てはありません。
ただ清廉潔白であったであろうホセアが、淫行にふける生き方をしている女を
知っていたとするなら、幼なじみであって、
その生き方を憂えていた存在であったのかもしれません。
「サマリヤの女」(ヨハネ4章)は、5人目の男性と同棲していましたが、
そのような生き方をしていたのでしょうか。当時はバアル信仰の影響から
神殿娼婦という女性もいたようです。ゴメルには、
姦淫の結果生まれた子どもたちもいました(1:2)。
ホセアの親族や友人に祝福される結婚ではなかったでしょう。
ゴメルの両親にとっては、困った娘の貰いてが突如現れたのですから、
喜んだことでしょう。
たぶん結婚式はなく、ふたりの、いえ、ゴメルの連れ子たちを含めた結婚生活が
始まります。そしてやがて子どもたちが生まれます。男、女、男、の順番でした。
うがった見方かもしれませんが、
1番目は「彼に男の子を産んだ」(1:3)、
2番目と3番目は単に「産んだ」(1:6、8)となっていて、
また早くも姦淫の罪に戻ってしまったのか、と思わせられます(2:2〜5)。
今までホセアのように、自分を真実に愛してくれる男性を知らなかったゴメルも、
少なくとも3、4年一緒に暮らす中で、その愛される喜びを知ることができたでしょうか。
しかし残念ながらゴメルのからだの中に深く染み付いてしまった不品行を慕う性質、
自堕落な性格は、ホセアの愛をもってしても覆いきることはできませんでした。
やがて彼女は夫を捨て、子どもたちを捨てて、
また姦淫の罪の世界へ戻っていってしまいます。
ゴメルにとっては、ホセアの愛も、恋人たち(2:5、7)の愛も変わらないように思えました。
むしろ恋人たちのほうが、衣食を満たしてくれ(2:5)、快楽を満たしてくれ(2:2)、
自由にふるまわせてくれるのでいいように思えました。
ホセアの真摯な愛情は空気のようでもあり、ときにはうっとうしくも思えました。
ゴメルは夫を捨て、子どもたちを捨て、恋人たちの後を追います(2:7)。
けれども恋人たちにとっては、もうゴメルは利用価値がなくなっていました。
ゴメルはそのときやっと気がつくのです。
ホセアとの結婚生活は地味なものではあったけれども、
実はその愛に包まれていて落ち着いたしあわせな時間であったこと、を(2:7)。
一方、ホセアは、自分を捨てていったゴメル(2:2)も、ゴメルの連れ子たちや、
ゴメルの姦淫によって生まれた子どもたち(2:4,5)も、
もはや愛する気持ちはなくなっていました。当然でしょう。
愛しても愛してもけっして自分のほうにその心を向けることはなかったのですから。
ホセアはゴメルを憎み、ゴメルがその行なってきたことを理解し、
罪の結果を刈り取ることを願います(2:3)。
またゴメルの衣食住すべてを満たしていたのは
ホセアであったことを知らしめようと決意します(2:8〜13)。
しかしながら一方でホセアはゴメルを愛する気持ちを失ってはいませんでした。
何とか連れ戻して幼子のような純粋な気持ちで愛を語り合いたい、
ゴメルから「わたしの夫」と呼ばれたい、そのように思っていました(2:14〜16)。
そのようなとき、また神様からホセアに「再び行って、
夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。」(3:1)とお告げがありました。
ホセアはすぐさまゴメルを迎えに行きます。
ホセアはゴメルがどこで何をしているか知っていたのです。
そして「銀十五シェケルと大麦一ホメル半で
彼女を買い取」(3:2)ります。代価を払ったことで、
ゴメルが奴隷か神殿娼婦に身を落としていたことが分かります。
からだを売って主人に利益を得させていたのでしょう。華やかに見えても、
その実はたいへん過酷な世界です。かつての貧しくても
家族が一つ屋根の下で暮らしていたときのことを思い出しては泣いていたことでしょう。
その当時は特別魅力を感じていなかった夫も、
実は本当に自分を誠実に愛してくれていてその愛の中に守られていたんだなあ、
と自分のいたらなかったことを悔やんでいたことでしょう。
しかし今はそんなことを思っても自分で自分をどうすることもできないのです。
ただ誰かが代価を払って自由にしてくれない限り、この世界からは抜け出せないのです。
夫のもとに帰りたいと思っても自由がありません。
そこにまさかあんなによくしてくれたのに裏切って、
子どもさえも置き去りにしてきて、顔をまっすぐにとても見ることのできない、
あの夫ホセアが見受けにきてくれたのです。号泣したでしょうか。
それとも身の置き所を見出せないほど小さくなりながら震えていたでしょうか。
ホセアはゴメルに言います。「これから長く、
私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。
私も、あなたにそうしよう。」(3:3)
ホセアの真実な愛に気付いていたゴメルはもうけっしてホセアの元を去ったりしないことを
強く心に決めたことでしょう。
ホセアとゴメルの物語は、そのまま神様とイスラエルの関係を物語っています。
神様はイスラエルを愛します。何のすぐれたところもなかったのですが、
アブラハムの信仰のゆえに彼らは神様に愛されるものとなったのです。
けれどもエジプトから出て荒野を旅した頃はともかく、
カナンの地に入るとその地の偶像礼拝の影響を受け、
王国が分裂した後の北イスラエル王国のバアル礼拝にいたっては、
まさしくホセアを捨て恋人たちの後を追い、身を男たちにゆだねて生きるゴメルの姿そのもの
になっていました。そこで神様は、神を捨て偶像に身をゆだねるイスラエルに
その罪を自覚させなければならないと決意するにいたります。
それがこれからイスラエルの国に起こることでした。国家は滅亡し、
その民はアッシリア帝国に捕えられていくのです。これは特に牧者アモスの使命でした。
ホセアの使命は、そのイスラエルをなおも神様は愛しておられる、
そしてイスラエルは神様の愛の中に回復するときがやってくる、
ということを伝えることでした。
ホセアは愛しても愛してもそれに応えないで、自分のもとを去り、
男たちを追いかけていく妻ゴメルとの関係を経験することによって、
神様に対するイスラエルの姿を学ぶのです。同時に預言者として、
実際の体験を通して、神様のイスラエルに対する限りない愛のみこころを学ぶのです。
神様は正しい御方です。ゴメルはとことん、自分の非を認めるまで
落ちていかなければなりませんでしたが、イスラエルも自分たちが神様に対して
背信の民であったことに気づくまで、民族として平安なときはやってきません。
しかし必ず民族として回復するときがやってきます。
今よりもさらに苦難のときである患難時代を通って自分たちが十字架につけたイエスこそ、
自分たちに遣わされた王の王、キリストであったと気づいて悔い改めるとき、
神の愛を満喫する千年王国を迎えるのです。
ホセアの最初の子どもは「イズレエル」
と名づけられます(1:4)。イズレエルはアハブ王家に属するものをエフーが
ことごとく撃ち、多くの血を流したところですU列王記10:1〜14、17)。
その後そのエフーが王位に就きます。そしてその曾孫が、
ときの王ヤロブアム2世でした(U列王記14:23、ホセア1:1)。
そのヤロブアム2世が取り除かれ、その後完全に北イスラエル王国は滅亡します。
バアル礼拝からの解放を神様は喜ばれましたが、
血を流したことにはけじめをつけられます。イズレエル、それは王家の滅亡、
王国の滅亡を預言する名前でした。
ふたりめの子どもの名前は、「ロ・ルハマ」
と名づけられます(1:6)。「愛されない」
という意味です。3番めの子どもは「ロ・アミ」
と名づけられました。「わたしの民ではない」
という意味です(1:9)。いずれもひどい名前です。私たち日本人は、子どもには、
いいと思える名前を一生懸命検討してつけます。けれども聖書の登場する人物を見ると、
そのときの社会や家庭の状況を反映した名前をつけることが多かったようです。
北イスラエル王国はもはや神様の愛の対象ではないことを告げられます(1:6)。
ただしダビデの家系である南ユダ王国はそうではない、ということです(1:7)。
確かに北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされたあと、再興されません。
けれども南ユダ王国は、その罪の結果、バビロン帝国によって滅ぼされますが、
70年後再建されるのです。もはや神様の忍耐の終わりをかわすことはできません。
けれども彼らを「アミ(わたしの民)」、
「ルハマ(愛されるもの)と呼ぶように、
ホセアは子どもたちに告げます(3:1)。改名、このことも事情が変わると
当然のようにイスラエルでは行なわれたようです。例えばアブラム(→アブラハム)、
ヤコブ(→イスラエル)などの例があります。一度は、神様はその偶像礼拝のゆえに
イスラエルを退けますが、その愛は変わることがなく、
ホセアが悔い改めたゴメルを迎えたように、
やがてイスラエル民族の回復のときがやってくることを現わします。
私たち日本人は神様という存在について、きわめて無頓着な民族であると思います。
12月25日にクリスマスを祝い、大晦日には除夜の鐘をついて、元日には初詣に行くのです。
また子どもが誕生するとお宮参りに行き、結婚式は教会であげ、
葬儀は先祖伝来の仏教宗派にしたがって行なうのです。
これを実に平然と行なうことができるのです。
あるとき隣保の方にお宮やお祭りに関わることができないことをお話したことがあります。
けれどもなぜそうなのかなかなか合点が行かないようです。
聖徳太子が大陸の文化を受け入れるため、神道の日本に仏教を受け入れることを
やってのけたときから、それが日本の伝統になっているからです。
しかしよく考えてみてください。自分の奥さんが、
昨日はA男性のところへいそいそと出かけ、今日はB男性のところへおしゃれして出かけ、
明日はC男性と約束があるとうきうきしていても、もし何も思わないとしたら、
それこそおかしいでしょう。もし深い仲にでもなっていたら激怒して当たり前でしょう。
姦淫は赦されないのです。愛していれば当然のことです。偶像礼拝も同じです。
神様は私たちひとりひとりを創造し愛しいとおしく思っておられますから、
他の神々を拝むならねたむのです。愛しているから当然なのです。
その愛に気づいていただきたいのです。
北イスラエル王国は滅亡しました。南ユダ王国はダビデのゆえに愛され続けます。
あなたは神様の忍耐のとき、「今は恵みの時、
今は救いの日」Tコリント6:2)と言われている間に、
神様の愛に気づき、その翼の中に入らなければなりません。