しばらくぶりに南ユダ王国の王様のお話に戻りたいと思います。
ヒゼキヤは南ユダ王国の第13代の王様です。
「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。
彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」
(U列王記18:5)とあるすばらしい王様でした。
このヒゼキヤの治世の第6年に北イスラエル王国は、その不信仰のゆえに、
アッシリヤ帝国によって滅ぼされてしまいます(U列王記18:10)。
このアッシリヤの脅威は南ユダ王国とヒゼキヤ王にも及んできます。
ヒゼキヤ王の生涯には三つの大きなできごとがありました。
第一は25歳で即位した第1年目から行った主の宮の奉仕の回復です。
第二はその治世の第14年のアッシリヤの来襲です。
そして第三は病気とそれがもたらしたことです。
ヒゼキヤ王の記述は、U列王記18〜20章、U歴代誌29〜32章、
そしてイザヤ書36〜39章の3箇所に出てまいります。列王記とイザヤ書はよく似ています。
歴代誌はダビデの王位を受け継ぐ南ユダ王国の歴代の王の記録です。
そのダビデの志は神様を礼拝する神殿の建築でした。ですから神殿を中心に書かれている、
とも言えます。そのようなわけで、歴代誌には、
ヒゼキヤが王位について最初に行った宮きよめ、過越の祭り、そして祭司、
レビ人の制度の再徹底が3章を割いて詳しく記されています。
列王記はその名前のとおり、北イスラエル王国と南ユダ王国の王たちの記録です。
ヒゼキヤ王についてはその生涯で最も大きな国家的歴史事件、
すなわちアッシリヤ帝国の来襲に2章を割いています。そして病気と
その快癒の約束の証拠としての奇跡、またバビロン捕囚の原因となったできごとが
1章にまとめられています。
そしてイザヤ書。イザヤはヒゼキヤ王とともに
イスラエルの信仰の回復のために活躍した預言者です。
そしてイザヤ書はその預言の書物です。
ですから歴史としてヒゼキヤ王を記録した列王記によく似ているのですが、
そのヒゼキヤ王を預言の観点から記していると言えるでしょう。
このことはイエス様の生涯が、マタイ、マルコ、ルカ、
ヨハネの4つの福音書を通して知ることができることを連想させます。
いろいろな角度からイエス様を見ることによって
私たちは正しくイエス様を理解することができます。マタイ、マルコ、
ルカの三つの福音書は記事がよく似ていることから共観福音書と呼ばれます。
礼拝の回復
先代の父アハズ王は、偶像礼拝を積極的に行った悪い王様でした。
それだけにそれを見ていたヒゼキヤは25歳で王位につくと満を持していたように、
ユダ王国だけでなく、イスラエル王国においても信仰が回復するようにと
次々と神殿にかかわることについて命令を下していきます。
まずそれまで閉じられていた
「主の宮の戸を開き、これらを修理し」
(U歴代誌29:3、7)ます。続けて
「主の宮を聖別し、
聖所から忌まわしいものを出してしまい」(29:5、16,17)ます。
そして主の宮で罪のためのいけにえと全焼のいけにえをささげます(29:20〜24)。
さらにダビデが定めた神様を賛美するための歌うたいやラッパ手を復活させます(29:25〜28)。
そして感謝のいけにえ(和解のいけにえ)をささげます(29:31〜35)。
これらのことは「即座に行なわれ」
(29:36)ました。こうしてまず主の宮がきよめられました。
続けて過越の祭りを復活させます。過越の祭りはかつて神様が
イスラエルをエジプトの苦役から救い出してくださったことを記念して行うよう、
神様によって定められた祭りです(出エジプト12:24)。宮きよめに時間がかかり、
本来の第一の月の十四日には間に合わなかったものの、律法の定め(民数記9:1〜11)
を適用し第二の月に行うことを決議して、ユダ王国だけでなく
北イスラエル王国の部族にも参加を呼びかけます(30:1,2)。
そして第二の月の十四日に過越のいけにえがほふられます。
ヒゼキヤの信仰は全イスラエルの心ある者たちの信仰を呼び覚ましたのです。
祭司たちの祈りは天に届き、神様がこの過越の祭りを喜ばれたことが
明らかにされます(30:27)。
すると民は自ら「ユダの町々に出て行き、
石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り落とし、・・・高き所と祭壇を取りこわして、
絶ち滅ぼした。」(31:1) 国全体がきよめられるのです。
それから「彼(ヒゼキヤ)
は、エルサレムに住む民に、
祭司とレビ人の分を与えるように命じ」ます。
これは「祭司とレビ人が主の律法に専念するためで」
(31:4)、それぞれの生活の糧は他のイスラエルの人々から受けるように
定めていたからです(民数記18:8〜14、21〜24)。
このことがなおざりにされていましたから、主の宮の奉仕がなおざりになっていました。
こうして若くして王位についたヒゼキヤでしたが、
「神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、
心を尽くして行ない、その目的を果たし」(31:21)ました。
ヒゼキヤ王の第4年にアッシリヤの王シャルマヌエセルが
北イスラエル王国の首都サマリヤを包囲し、ヒゼキヤ王の第6年に陥落させます
(U列王記18:9〜12)。この間、南のユダ王国の王ヒゼキヤは先に見てきましたように、
信仰によってエルサレムに神殿礼拝を回復いたします。
そしてそれが完了したとき(U歴代誌32:1)、すなわちヒゼキヤ王の第14年に、
アッシリヤの王セナケリブがユダ王国を攻め、城壁のある町々を落とします
(U列王記18:13、イザヤ36:1)。アッシリヤの将軍ラブ・シャケは、
「国々の神々が、だれか、自分の国を
アッシリヤの王の手から救い出しただろうか。ハマテやアルパデの神々は今、
どこにいるのか。セファルワイムやヘナやイワの神々はどこにいるのか。
彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。国々のすべての神々のうち、
だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを
私の手から救い出すとでもいうのか。」
(U列王記18:33〜35、イザヤ36:18〜20)とののしります。
エルサレムの民はよく耐えます。またヒゼキヤ王は預言者イザヤに窮状を訴えます
(U列王記18:36、19:2、イザヤ36:21、37:2)。するとイザヤは神様からのことばとして
「今、わたしは彼(アッシリヤの王セナケリブ)のうちに
一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。
わたしは、その国で彼を剣で倒す。」
(U列王記19:7、イザヤ37:7)と伝えます。
さらにイスラエルの神を冒涜するアッシリヤの王セナケリブのことばを
ヒゼキヤは神様に訴えます(U列王記19:8〜19、イザヤ37:8〜20)。
すると神様は「彼(アッシリヤの王セナケリブ)
はこの町に侵入しない。
・・・彼はもと来た道から引き返し、この町には、はいらない。」
(U列王記19:32,33、イザヤ37:33,34)と約束してくださいます。
そしてその夜神様は約束を実行に移されます(U列王記19:35)。
「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、
十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、
彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、
帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、
その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し・・・た」
(U列王記19:35〜37、イザヤ37:36〜38)。
この後、アッシリヤがエルサレムに攻めてくることはなくなりました。
ヒゼキヤ王の信仰に応え、神様がエルサレムを救われました。
このころ、
「ヒゼキヤは病気になって死にかかってい」
(U列王記20:1、U歴代誌32:24、イザヤ38:1)ました。預言者イザヤが神様の
「死ぬ。直らない。」と言うことばを告げに来たとき、
ヒゼキヤは大声で泣いて神様に訴えます。すると神様はその祈りを聞いていやしてくださり、
3日目には主の宮に上ることと15年の寿命を与えることを約束してくださいます。
ヒゼキヤがその保証を求めると、「影が十度あとに戻る」と告げ、
イザヤが祈るとそのとおりになりました。(U列王記20:1〜11、イザヤ38:1〜8)
日時計の影が十度あとに戻った、ということは、10°/360°×24時間ですから、
45分間、即座に一日が伸びた、ということになります。とても不思議なことですが、
神様はヒゼキヤの求めに応じて、誰も違和感を持たないままに地球の自転を操作されたのです。
実は、歴史の中でもう一回、神様が同様のことをやってのけられたことがあります。
それは遡ること約550年、イスラエルがモーセの後継者ヨシュアの下、
約束の地カナン征服のため原住民との戦いを進めているときのことでした。
エモリ人の5人の王たちの連合軍を討つためのギブオンでの戦いにおいて、
神様は天から雹の石を降らせたばかりでなく、
「日は動かず、月はとどま」り、
「まる一日ほど」停止させられたのです。
(ヨシュア10:1〜14)
「まる一日ほど」とあって
正確な時間は記されていませんが、仮に23時間15分とすると、
神様は歴史の中にちょうど24時間を組み込まれたことになります。
聖書の中で神様が「時」を動かされた、実に痛快な記事です。
ヒゼキヤ王のお見舞いに、アッシリヤ帝国の南の遠い小国バビロンから
使者がやってきます。すでに快癒していたヒゼキヤ王はたいへん喜んで宝物倉を開いて
すべてのものを見せてあげます。全快とお見舞いの喜びのあまり高ぶり、
心にすきができてしまったのでしょう。神様はイザヤを通して
「すべて、バビロンへ運び去られる」、
また「あなた自身の息子たちのうち、
捕えられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう」と告げます。
実にアッシリヤ帝国全盛の時代、まだバビロンが台頭するはるか以前のことでした。
すべては神様のご計画のうちにあることですが、神様の宣告に反して、
いのち長らえることを求めたヒゼキヤ王の代償は、
ヒゼキヤ王のすばらしい信仰と業績に大きな汚点を残すことになりました
(U列王記20:12〜19、U歴代誌32:25,26、イザヤ39:1〜8)。
「このヒゼキヤこそ、ギホンの上流の水の源をふさいで、
これをダビデの町の西側に向けて、まっすぐに流した人である。」
(U歴代誌32:30)とあります。ヒゼキヤ王は多くの業績を残した王様ですが、
その中でも特に水道を引いたことは特筆されるべきことでした。
以下は2003年9月11日の静岡新聞の「ヒゼキヤ王の水道を確認」という記事です。
[ロンドン10日時事] イスラエルに残っている地下水道の遺跡は
紀元前七〇〇年頃建造されたもので、古代ユダ王国のヒゼキヤ王
(在位紀元前七二七−同六九八年)が水道を造ったとの旧約聖書の記述は
史実であることが確認された−。十一日発売の英科学誌ネイチャーは、
イスラエル人学者らによるこのような論文を掲載した。それによると、
エルサレム北方の「ギホンの泉」から
古都エルサレムのシロアム貯水池に水を運んだ地下水道(シロアム・トンネル)
の床十五ヵ所に穴を開け、水漏れ防止のため塗られていたしっくいを採取したところ、
その中から非常に保存状態のよい炭化した草木の断片が見つかった。
1880年に碑石が発見されたこの地下水道(トンネル)は全長620m以上あり、
岩に沿って掘り進められていました。
ヒゼキヤ王にとって最大の関心は、過越の祭りを南ユダ王国の民だけでなく、
北イスラエル王国の同胞も含めて全イスラエルの民によって、
神様の定められたとおりにエルサレムの神殿において行うことでした。
そのために宮をきよめ、祭司とレビ人の働きを復活させました。
そして過越の祭りを行いました。民の目を生けるまことの神様に向けたことが
ヒゼキヤ王の最大の功績でしょう。ですからアッシリヤ帝国の脅威があっても
民はヒゼキヤ王とともに神様により頼み、神様によって救いを得たのでした。
ヒゼキヤ王は「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
(マタイ6:33)をそのまま実証したすばらしい王様でした。
あなたも、ヒゼキヤ王のように神様のことを第一にするなら、
本当に必要としている救いをいただくことができるでしょう。