エゼキエルの神殿


 エゼキエル書から「エゼキエルの神殿」に注目したいと思います。

エゼキエルの召命

 バビロンの王ネブカデネザルは、エルサレムを3度攻撃し、 その地の民をバビロンに捕らえ移します。1回目はBC606、エホヤキム王の時代に ダニエルたちが連れて行かれます。2回目はBC597、神殿や王宮の財宝とともに エホヤキン王、そしてエゼキエル、高官、有力者、職人、鍛冶屋が連れて行かれます (U列王記24:13〜16)。そしてBC586、ついにエルサレムは炎上壊滅、 残りの民が連れていかれます(U列王記25:8〜11)。

 バビロンでの捕囚期間は70年(BC606~BC536)、そのうちエゼキエルが バビロンにいたのが、BC597〜BC570と考えられます。

 バビロンに捕囚になった者たちは、当初アッシリアに捕囚になった者たちのように、 民族としての尊厳をまったく奪われてしまうことになると恐れましたが、 バビロンでは国土と神殿は失ったものの、それ以外のことでは 変わりなく過ごすことができました。エゼキエルはケバル川のほとりのユダヤ人入植地に 自分の家が与えられ、ユダの長老たちとともに従来のユダヤ社会を継承している様子が 伺えます(エゼキエル1:1、8:1)。

 エゼキエルは捕囚になってから5年目に、主からの啓示があり 預言者としての働きを始めますが、そもそもは、祭司でした(1:1〜3)。 エゼキエル書の冒頭の「第三十年」(1:1) というのはいつを起点とするかわからないようですが、 仮にエゼキエルの誕生からとすると、ちょうどエゼキエルはこの年から 祭司として働く年齢(30〜50歳、民数記4:3)に達し、まさにこれから神殿において 祭壇のことに仕えようとしているときであったといえます。 祭司はアロンの子孫によって世襲される働きでしたから、幼いときから その志を抱いて成長してきたエゼキエルは、まさにあと5年もすれば神殿において 仕えることができるというそのときにバビロンに引いていかれ、 主にいけにえをささげることができなくなってしまっていました。

 エゼキエル書にはその最初(1章)と終わり(40〜48章)に2つの幻の記述があります。 それはまさに祭司としての奉仕と関係のあることでした。ちなみに先の仮定が正しければ、 最初の幻は30歳のとき(1:1)、終わりの幻は50歳のとき(40:1)であったと言えます。 この祭司であるエゼキエルを神様は召して、預言者として、 捕囚になって失望しているユダの民に、神様のご計画、イスラエルの民の再興を 示すことで異邦の国で、あるいはエルサレムでの苦難に耐える力を与えようと

エゼキエルの神殿

 エゼキエルは幻の中で見た神殿を実に詳細に、その構造と寸法を書き記しています (40〜43章)。それはまず外庭と内庭の門など神殿の周辺のもの(40章)、 次に神殿自体(41章)、そして敷地など(42章)、さらに祭壇(43章)と すべてのハードに及んでいます。そればかりでなく この神殿に関する定めというソフト面まで明らかにしています(44〜46章)。 まず祭司とレビ人について(44章)、次にささげ物について(45章)、 そして君主と民について(46章)です。神殿について準備万端、 何から何まで示されていて、もう今からでもこの仕様に基づいて 建築にかかることができそうです。

 まさに神様のご臨在のある国の再興を明確に示す神殿の幻でした。

 ところでこの神殿はいつ建築されるのでしょうか。バビロン捕囚から帰還したユダヤ人が 再建した神殿には採用されていません。検討した記述さえもありません。 その神殿はAD68にローマ軍により破壊され、その後現在に至るまで エルサレムに神殿はありません。ではいつでしょうか。 それは「わたしのしもべダビデ(=イエス様) が彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。 ・・・彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、 あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。」(37:24,25) という預言が成就するときです。イエス様が地上再臨されてスタートする 千年王国を待たなければなりません。

みこころにかなった神殿

 かつて幕屋が完成したとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました。 (出エジプト記40:34,35)

 ソロモンの神殿が完成し、契約の箱(主の箱)が至聖所に安置されると、 主の栄光で神殿が満たされました。(T列王記8:10,11、U歴代誌5:13,14)  イスラエルが偶像礼拝に走ったために、このソロモンの神殿から、 主が去ったときの様子がエゼキエルに示されます。実に名残惜しそうに、 主の栄光が、神殿の敷居を出、神殿の東の門から出、そしてエルサレムの東の山に、 と去っていきます。(エゼキエル10:18,19、11:22,23)

 その主の栄光が、エゼキエルに啓示された神殿が完成すると、 去っていったときとは逆に、東向きの門から神殿に入ってきます。 神殿は主の栄光に満たされます。(43:4,5) そしてその東向きの門は 直後に封鎖されてしまいます。 「主がここからはいられたから」ですが、 それはまた二度と主の栄光がこの神殿から去ることはないという 神様ご自身の宣言であるとも言えるでしょう。(44:1,2)

イスラエルの回復

 なぜエゼキエルに示された神殿だけが、神様が 「永遠にイスラエルの子らの中で住む所」(43:7)と、 それまでの神殿と区別されるのでしょうか。それはこのときまでの時代と区別して、 神様が人にはよらない、ご自身でこの地上にひとつのみこころにかなった時代をつくり、 ご自身がイスラエルのうちに住むことのできるようになさるからです。

 イスラエルを再生することについて、こう預言しています。 「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。 主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。 わたしが おまえたちの中に息を吹き入れるので、 おまえたちは生き返る。・・・ わたしは 、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。」 (37:4,5、14) この骨とはイスラエルのことです(37:11)。 現在中東の地にはイスラエル共和国があります。これは1949年に独立を成し遂げた国家です。 しかしそれは人の力によって建国されたものです。ここで神様が強調しているのは、 神様ご自身が、死んで墓場に葬られ骨と化してしまった、つまり神様の御前に 霊的に死んで枯れてしまったイスラエルをよみがえらせるということです。 そのときの王は「わたしのしもべダビデが 永遠に彼らの君主となる」(37:25)、すなわちイエス様です。

 神様がイスラエルを霊的に回復し、イエス様が統治される国家、 それは実は神様がアブラハムに約束し、モーセに告げた国家の形が そのまま実現するときです。かつて確かにそれは擬似的に実現していましたが、 神様が告げたそのとおりに、すなわちカナンの地、ヨルダン川と地中海の間に 実現するのはそのときです。その様子はまた47,48章に詳細に描かれています。

 そのときの神殿がエゼキエルに示された神殿で、イスラエルが霊的に 神様にふさわしく整えられた国家となったときの神殿ですから、 これは永遠に存在しうるのです。

ささげ物

 神殿はまず神様がご臨在なさるところです。それはすでに見てきました。 次に神様に礼拝をささげるところです。かつての幕屋、神殿においても、 礼拝としていけにえがささげられておりました。 そしてこのエゼキエルの神殿においても当然のようにいけにえの定めがあります(45,46章)。

 エゼキエルの神殿でささげられるささげ物は、かつてイスラエルにモーセを通して 示されたレビ記1〜7章の「全焼のいけにえ」、「和解のいけにえ」、「穀物のささげ物」、 「罪のためのいけにえ」、そして「罪過のためのいけにえ」の5つのささげ物と まったく同じです。またかつてイスラエルに示された主の例祭、 すなわちレビ記23章と民数記28,29章の「過越の祭り」、「種を入れないパンの祭り」、 「初穂の祭り」、「刈り入れの祭り」、「ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合」、 「贖罪の日」、そして「仮庵の祭り」と一年を通して行なわれる7つの祭りや新月の祭り、 安息日が同じように教えられています(45:17、46:4〜12)。モーセの時代の後、 イスラエルにおいて、神様が示されたとおりに行なわれなかったこれらのことが、 千年王国において完全に行なわれることになるのでしょう。

 話は横道のそれますが、「全焼のいけにえ」、「和解のいけにえ」、「穀物のささげ物」、 「罪にためのいけにえ」、そして「罪過のためのいけにえ」の5つのささげ物を レビ記に登場する回数とエゼキエル書40〜46章に登場する回数の割合を単純比較すると、 「罪過のためのいけにえ」が非常にその割合が少なくなっていることに気づきます。 それはサタンがハデスに縛られ、人の罪の性質に働きかける力がなくなるからでしょう。 そのため人の寿命は延びて、創世記5章にある初期の人々が九百歳前後まで生きたように、 「百歳で死ぬ者も、なお若い者」 (イザヤ65:20)と言われるようになります。 だから罪過のためのいけにえをささげることも少なくなるのでしょう。

 かつてイスラエルがささげたささげ物は、当時の人々は理解していませんでしたが、 イエス様ご自身とその十字架の御業を予表するものでした(ヘブル10:1〜10)。 では、千年王国時代のイスラエルはすでに本体であるイエス様がこの世に来られ、 十字架の上で贖いの御業を完了してしまっている(ヘブル10:12、18)のですから、 何のためにこれらのささげ物をするのでしょうか。それは現在、 クリスチャンがイエス様のご命令に従い、週の初めの日にパンと杯とをいただいて、 主イエス様ご自身とその御業を覚えている(Tコリント11:23〜26) のと同じ目的ではないでしょうか。ただ彼らイスラエルは、背信の罪に加え、 神様が自分たちのために遣わされたメシヤであるイエス様を退けて 十字架につけてしまったという歴史を持っています。それでもなお神様は ご自分の選びの民である彼らイスラエルに真実を尽くされます。 彼らはイエス様を正しく知ることになります。神様の尊いみこころを覚えながら、 彼らにとって贖い主であり、王でもある主イエス様ご自身と その御業を覚えるのではないでしょうか。

 選民意識の強いイスラエルですが、実は自分たちイスラエルではなく、 イエス様こそ神様のみこころにかなった御方であったこと(全焼のいけにえ)、 神様のもとからご自分の国に来られて仕えてくださったにもかかわらず、 その民であるイスラエルからバッシングされた御方であったこと(穀物のささげ物)、 それでも、神様との和解の道を十字架において用意してくださった御方であること (和解のいけにえ)、そして神様に背き続け、自分たちのために遣わされた御子をも 十字架につけてしまった罪を、その十字架によって覆ってくださった御方であったこと (罪のためのいけにえ)。このようにいけにえをささげるたびに、 イエス様のご人格と御業を覚えるのでしょう。

まとめ

 神様への礼拝をよく知る祭司であるエゼキエルを神様は預言者として召しだされました。 それはまず、イスラエルは回復し、かつてアブラハムやモーセに神様が約束された、 その民のうちに住む時代が必ず来ること、またイスラエルが、 神様が彼らのために遣わされた御子イエス様のご本質を理解して 礼拝をささげることになることを示されたかったのでしょう。

 神様のみことばは中途半端に実現するものではなく、 必ずそのとおりに実現するものです。イスラエルへの約束がそのとおりに実現するのは、 この千年王国の時代です。

 私たちはすべてを見通すことができません。中途半端なところで議論するものです。 けれども神様は真実な御方です。