エリヤとカルメル山     (U列王記18章)

 

1.はじめに

変貌の山で主のご最期について話し合うために現れたのはモーセとエリヤであった。また主の道を備えるためにエリヤのような人物がメシアの来臨の前に現れると預言されていて、初臨の前にバプテスマのヨハネが現れ、そして地上再臨の前に二人の預言者が現れる。彼らはエリヤのような力を持っている。さらにヤコブは義人の祈りは力があるとエリヤを例に説明をしている。神様は人類史を通して重要な場面でエリヤやエリヤのような人物を用いられるほどに、エリヤの信仰を喜ばれていたことがうかがえる。

2.偶像礼拝

(1)エリヤの時代

主が喜ばれたエリヤの信仰は、その時代と深い関係がある。イスラエル史上、最も偶像礼拝が幅をきかせていたときであった。エリヤがカルメル山で対決したバアルがまさにそれである。バアルはアハブ王が結婚して迎えたシドンの王の娘イゼベルが積極的に支援し、北イスラエル王国全土で礼拝されるようになっていた。

(2)第一戒と第二戒

かつて北イスラエル王国を建国したヤロブアムはその民が南のユダ王国のエルサレムの宮に礼拝に行き、その心がレハブハムに向くことがないように、金の子牛を作りべテルとダンに据え、「これがあなたがたをエジプトから連れ上ったあなたがたの神である」と宣言した。北イスラエル王国の歴代の王の生涯をそれぞれ総括するとき、その霊的状態を説明することばとして「ネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった。」という表現が慣用的に使われている。しかしそれはイスラエルの神を偶像化して、モーセの十戒の第二戒「偶像を造ってはならない。拝んではならない。」に反することにすぎなかった。けれどもバアルやアシェラを礼拝することは十戒の第一戒「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」に反することであった。十戒が神様の関心の大きさの順番に記されたとすれば、バアル礼拝全盛のこの時代は、北イスラエル王国の歴史の中で最も、自らを「ねたむ神」というほどまでにイスラエルを愛する神様の怒りが大きく燃え上がったときといえるだろう。

(3)偶像礼拝

「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」という第一戒に、神よりも優先するものがあることを、神様は実にお嫌いになることがよくわかる。私たちはそのようなものを持っていないだろうか。配偶者(Tコリント7:32〜34)、仕事など、よいもの、必要なことであっても、主に優先することを主は喜ばれない。

エリヤにはそれがなかった。ただ神様のみこころを、祈りを通してまったく自分の思いとし(ヤコブ5:13)、敢然とバアルにただ一人で立ち向かっていった。それが、主が喜ばれたエリヤの信仰であった。

3.三つの祈り

3年6カ月前、エリヤはいきなりアハブの前に現われ、「私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」と宣言した。(17:1)しかし聖霊はそれ以前に神との深い祈りの交わりがあったことを明らかにしている(ヤコブ5:17)。そしてこのカルメル山の対決の中でも、エリヤの三つの祈りの姿を見ることができる。

(1)隠れたところでの祈り

「さあ今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」と、エリヤはいきなりカルメル山での対決をアハブ王に仕掛ける。(19節)

3年半前、「雨が降らない」と宣言したときから、次に「雨が降る」と宣言するとき、その雨がイスラエルの神によるものであることを、アハブやイスラエルに明らかになるようにするにはどうしたらよいだろうか。ただ雨が降っただけであれば、バアルの預言者は、豊穣の神であるバアルが雨を降らせたと語るだけである。3年半、カラスに養われ、ツァレファテのやもめに養われながらずっと祈り続けて、そしてとるべき行動についてしっかりと答えを得ていたのではないだろうか。神から「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」(1節)とのことばがあったとき、エリヤはまっすぐアハブに会いに行き、そして先のことばを告げたのである。

最初にアハブの前に登場し、「私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」と宣言した(17:1)ときと同様、この宣言もまた、先に長く深い隠れた祈りがあったことを知ることができるのではないだろうか。

イエス様もいつも朝早く荒野に退いて祈ったり、夜を徹して祈られた御方であった。大事な出来事の前には特にそうであったことを覚える(ルカ6:12、9:18、22:41)。私たちも隠れたところでの熱心な祈りこそ大切であることを知る。

(2)主を動かした祈り

エリヤはバアルの預言者と対決するにあたって、主の栄光が現わされるよう演出する。@エリヤ一人対バアルの預言者450人(22節)、A雄牛をバアルの預言者に用意させ、自らは何の細工もできないことを明確に(23節)、B天から火をもって応えるという明快さ(24節)、Cバアルの預言者を先に(25節)、Dいけにえなどに水を注ぎ火がつきにくくする(34、35節)。これらは生ける神にとって何の障害にもならない。むしろますます神の御力が現わされる状況設定であった。

そして祈る。「主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。」(36節)結果、主の火は下り、全焼のいけにえとたきぎ、石とちり、そしてみぞの水をなめ尽くして、人々は「主こそ神です。主こそ神です。」と言い表わす。(38、39節)またバアルの預言者たちは捕えられ、殺される。(40節)

イエス様は十字架のときが近づいたとき、「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」(ヨハネ17:1)と祈った。またイエス様はまず神の栄光のために、そして自分の必要のために祈るように教えてくださった。(マタイ6:8〜13)祈りの目的がエリヤやイエス様のように主の栄光と自分の必要が一致していれば、なおすばらしい。

(3)みことばに基づく祈り

エリヤはすかさず「カルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめ」(42節)、祈る。そのとき空には雲ひとつなかった。

主から「この地に雨を降らせよう。」(1節)とのことばがあり、イスラエルの人々が、火が下るのを目の当たりに見て「主こそ神です。」と言い表わし、バアルの預言者たちが除かれた今こそ、降る雨が主によることがもっとも明快になるときであった。

若い者が海のほう(西)を7回確認してやっと小さな雲が上ってくるのを見つけ、やがて激しい雨が降る。「雨を降らせよう。」とのみことばに基づいた祈りであった。

主の祈りはいつも御父のみこころに基づいていた。最も大いなるみこころは、御子の犠牲により私たちを贖いみもとに迎えること、であった。十字架のみわざの最後に「完了した。」と主は祈られた。みこころが成ったことを確信してのことばである。必ず聞き入れられる祈りがある。それは、みことばの約束に基づく祈りである。

「再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(ヤコブ5:18)

4.協働と一致

(1)エリヤとオバデヤ

「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」(1節)とのことばがあって、アハブに会いに行く途中、エリヤはオバデヤに出会った。

オバデヤはイゼベルが主の預言者を殺したとき、主君アハブ王に内緒で、100人の預言者を救い出し、50人ずつ洞穴にかくまい、パンと水で養う(4節)という勇気ある行動をした人である。しかしエリヤと出会ったとき、恐れを抱き慇懃な態度で接している。それは彼自身の行動がなお主に対して完全に真実なものではないことを自覚せざるを得なかったからである。彼は神に仕え、そしてバアル礼拝を推進するアハブ王にも仕えていた。オバデヤにとって権勢を誇るアハブ王の王宮をつかさどる仕事は魅力あるものであったのだろう。エリヤにはオバデヤとともに行動するという発想はなかった。

キリストの御名を掲げる多くの教会がある。主に対する姿勢はさまざまである。中にはオバデヤがアハブ王に仕えていたように、所轄庁のもとにある宗教法人とする教会も多い。エリヤのように主のみこころの内をまっすぐに歩もうとすると、協働することは考えられない。けれどもまたオバデヤが、100人の主の預言者を助ける働きをしているようにそれらの教会が主の働きを担っていることも認めなければならない。救われるものが起こされ、キリストの徳を備えた方も大勢おられる。

(2)主の祭壇

カルメル山にあった主の祭壇は壊れていた(30節)。イスラエルの人々が自ら、主の契約を捨て、主の祭壇を壊し、主の預言者を殺した(19:10)ためだ。信仰の復興を願って主の祭壇を使用する、エリヤが、対決の場としてカルメル山を選んだ理由かもしれない。

エリヤは緊迫した対決のときにあってなお、バアルの預言者を見ていたのではなく、イスラエルの神の、あるみこころを心に留めていた。それはイスラエル12部族がひとつであるということだ。エリヤはヤコブの子らの部族の数にしたがって12の石をとり、「主の名によって一つの祭壇を築」いた(32節)。今は北の10部族と南の2部族に分裂していても神様にとって愛する一つのイスラエルなのである。

霊的な集会もまた、主の大いなる犠牲によって、ユダヤ人も異邦人もなく、すでに一つである、というみこころの奥義はたいへん大切である(エペソ1:9,10)。協働することはできなくとも、たがいに主にとっては貴いものであることを忘れてはならない。

5.おわりに

キリストの御名を掲げながら、ヤロブアムのようにキリスト像を拝む教会もある。オバデヤのような主に仕えかつ世になじむような教会もある。確かにオバデヤや7000人も主はご自身のゆえに残されている。しかしエリヤこそ、主の栄光だけが現れることを思い、祈り、行動した、そして主に喜ばれ、主に用いられ、死を見ずして天に引き上げられ、主の道を備えるものとして語られ、主のご最期について主と語り合った預言者である。私たちの集まりも主のみこころがそのまま反映されるものでありたい。また個々の生き方も同様でありたいと願う。