今回は預言者エリヤを取り上げたいと思います。エリヤは聖書に登場する人物の中で
たいへん特異な存在であると思います。その理由の第1は、
死を見ないで天にあげられたふたりのうちのひとりであるということ。
その理由の第2は、イエス様が十字架を前にして
その最期の時について話し合うために現われたふたりのうちのひとりであるということ。
そしてその理由の第3は、メシヤが地上に現われる前に遣わされると
預言されているということです。一言で言えば、非常に神様に重用されているのです。
その生涯が神様に喜ばれ信任を得たものであったということです。
以上のことを念頭におきながらエリヤの生涯を追ってみましょう。
どうしてエリヤはそのように神様に喜ばれ信任される者となったのでしょうか。
それは信仰の見られないところで信仰に生きた人であった
ということではないでしょうか。第1にその地方、第2にその時代。
まずその出身地から見てみましょう。
「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤ」
(T列王記17:1)と紹介されています。ギルアデは、イスラエルがカナンに入植する際、
ヨルダン川の東側でガド族に分割された地です。エリヤの先祖は、
そのとき神様の約束の地を目の前にして、そのギルアデの地が家畜に適した地であると、
ヨルダン川を渡って神様の約束の地に相続地を得るのを拒み、
神様の約束よりも家畜のことを優先させるという不信仰を貫いた人たちでした(民数記32章)。
このことは後々、物議をかもしたり(ヨシュア記22章)、周辺諸国、
特にアモン人からの脅威にさらされ、同胞を思うイスラエル全体に悩みを
残すことになります(T列王記22章他)。このような不信仰の地から
義人(ヤコブ5:16)エリヤが登場しました。彼は表舞台に登場する前に荒野にいて
祈りの生活をしておりました(ヤコブ5:17)。このことは大切なことです。
神様によって用いられる器は、隠れたところでの祈り、働きがあるのです。
こうして不信仰の地から信仰の人エリヤが登場しました。
次にエリヤの生きた時代から考えてみましょう。
エリヤのアハブ王への警告の言葉からエリヤの物語が始まります(T列王記17:1)。
当時、北イスラエル王国を統治していたのがアハブ王でした。
彼はその妻にシドン人の王エテバアルの娘イゼベルを迎えました。
彼女はバアルとアシェラという偶像をイスラエルに持ち込みました。
それまでのイスラエルの王様も不信仰を責められるものでしたが、
アハブ王は積極的にバアルを自ら拝み、バアルの宮を建て、
祭壇を築くのです(T列王記16:31〜33)。その勢いは、
イゼベルの食卓につくバアルの預言者が実に450人、
アシェラの預言者も400人にもなるのです(T列王記18:19)。
主の預言者たちはイゼベルによって殺され、オバデヤによってかくまわれた預言者たち
100人はほら穴に隠れているという始末でした(T列王記18:4、13)。
このような信仰的超暗黒時代にエリヤは、バアル礼拝を持ち込み
暗黒時代をもたらした張本人であるアハブ王の前に現われ、いきなり
「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」
(T列王記17:1)と宣言するのです。エリヤは状況に関係なく、
ただ神様のみを見上げる信仰の人でした。
このようにエリヤは、信仰の見られない時代に信仰に生きた人でした。
神様はエリヤの信仰を喜ばれます。
「エリヤは私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、
三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。」(ヤコブ5:17)
エリヤが荒野でイスラエルの神様の御名が汚されていることを思い、
イスラエルがバアル礼拝から主に立ち返る道を祈り求め、
考えついたのが「雨を降らせない」ということでした。
これはバアルとアシェラ信仰の特徴からいって、そのフィールドで戦うということでした。
神様はエリヤの祈りに応え、この方法を採用されました。そして
「私(エリヤ)のことばによらなければ、
ここ二、三年の間は、露も雨も降らないであろう。」
(T列王記17:1)という警告になるのです。
当然エリヤはアハブ王から命を狙われることになります。
また雨の恵みにエリヤもあずかれないことになります。
そこで神様は「ケリテ川のほとりに身を隠せ。
そしてその川の水を飲まなければならない。私は烏に、
そこであなたを養うように命じた。」とエリヤに告げます。
朝と夕、カラスがパンと肉を運んできて、川の水を飲んでエリヤは守られます。
(T列王記17:2〜6)。「神の国と
その義とをまず第一に求め」(マタイ6:33)たエリヤは、
「空の鳥を見なさい。
・・・天の父がこれを養ってくださるのです」(マタイ6:26)と言われた神様によって、
実に貪欲な鳥、カラスをもって養われるのです。人の物をも横取りしそうなカラスが、
エリヤのためにパンと肉を運んでくるのです。おもしろいですね。
やがてケリテ川の水もかれます(T列王記17:7)。すると神様は
今度は「シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。
わたしはそこにひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
(T列王記17:9)と言われます。エリヤは神様のみことばのとおりにツァレファテに行き、
ひとりのやもめによって2、3年の間、養われるようになります。
けれどもこのときのことについてイエス様の説明は立場が逆です。
大ききんのとき、ツァレファテのやもめのところにエリヤが遣わされた、
と言われているのです(ルカ4:25,26)。事実雨が降らないために起こった大ききんは、
イスラエル全土だけでなく、アハブ王の妻イゼベルの出身地、
バアルとアシェラ礼拝の本拠地シドンをも襲っていました。
そこに住むひとりのやもめは、「かめの中に一握りの粉と、
つぼにほんの少しの油があるだけで、・・・(最後に)それを調理し、
それを食べて死のう」(T列王記17:12)としているところでした。
そこにエリヤが遣わされてきて、このやもめとその息子は命をつなぐことになるのです。
またこの後、その息子が病死するのですが、エリヤによってよみがえらされます
(T列王記17:17〜24)。エリヤはツァレファテのやもめのために遣わされ、
ツァレファテのやもめによってエリヤは養われるのです。
3年目に神様はエリヤに「アハブに会いに行け。
わたしはこの地に雨を降らせよう。」(T列王記18:1)と告げます。
そしてアハブ王に会ったエリヤは、バアルの預言者との対決を申し出ます。
そのルールは、450人のバアルの預言者たちがバアル神の名を呼んで、
バール神の祭壇にささげられたいけにえを、天より火を降して応えれば、
バアル神の勝ち、同じように、エリヤが主の御名を呼んで、
主の祭壇にささげられたいけにえを、天より火を降して応えれば、主の勝ち、
ということです(T列王記18:23,24)。エリヤはイスラエルの民衆に訴えます。
「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。
もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」
(T列王記18:21)
まず、バアルの預言者たちから始めます。朝から昼過ぎまで身を傷つけたりしても
何の反応もありませんでした。続いてエリヤの番です。祭壇の上のいけにえとたきぎに
水をかけて水浸しにした上で、主の御名を呼びます。すると主の火が降ってきて、
全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりを焼き尽くし、溝の水もなめ尽くしてしまいます
(T列王記18:25〜38)。こうしてイスラエルの民は
「主こそ神です。主こそ神です。」
(T列王記18:39)と言い表し、バアルの預言者たちを捕え、皆殺しにしてしまいます
(T列王記18:40)。こうしてエリヤはバアルを退け、イスラエルの神の栄光を取り戻します。
そして雨が降ってきます(T列王記18:45)。
アハブ王からカルメル山での出来事を聞いたイゼベルは烈火のごとく怒り、
エリヤを殺すと、エリヤに告げます。するとエリヤはイゼベルを恐れて逃亡し、
実に40日40夜歩いて、シナイ半島のかつてモーセが十戒を授かった神の山
ホレブにまでやってくるのです(T列王記19:1〜8)。ほら穴にいるとき、
「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
(T列王記19:9)と神様はエリヤに尋ねられます。エリヤは答えます。
「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。
しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、
あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、
彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」(T列王記19:10、14)
あの大勝利を得た面影はなく、すっかりエリヤは気弱になっています。
ひとり頑張ってあの大勝利を成し遂げたのに、イスラエルの人々の中に
信仰のリバイバルが見られるどころか、自分の命を狙っている、もう耐えられない、
というのでしょう。しばしば大きな仕事を成し遂げた後にやってくる心のすきを悪魔は
巧妙についてきます。神様は静かに答えられます。
「主の働き人はエリヤひとりだけではないよ。必要に応じて
わたしは自分のしもべを用いることができるんだよ。今後のことはハザエル、
エフー、エリシャを用意しているし、今でもバアルに従わなかった者7000人も残しているんだよ」
と(T列王記19:15〜18)。エリヤから力みが取り去られます。
あの激しさがエリヤから消えるのです。
こうしてエリヤは神様の御前に謙虚であるべきことを学びます。
この後、アハブ王がイズレエル人ナボテの血を流した罪により、
神様がアハブ王とイゼベルの死を宣告するようエリヤをアハブ王のもとに遣わします。
このときエリヤはかつてのように神様の忠実なしもべとしてアハブ王の前に立ちます
(T列王記21:17〜29)。
アハブ王が戦死(T列王記22:37)し、その子アハズヤが王となります(T列王記22:40)が、
病気になります(U列王記1:2)。そのときアハズヤ王は
その病気が直るものかどうかをエフロンの神バアル・ゼブブに伺いを立てるために
使者を遣わします(U列王記1:27)。神様はエリヤをその使者たちに会わせ、
「バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか」と詰問し、
「その罪のゆえにアハズヤ王は死ぬ」と宣告します(U列王記1:3〜16)。
もはや神様のみこころと自分にゆだねられた働きを知ったエリヤには
躊躇するものは何もありませんでした。
これから取り上げる3つの事柄は、冒頭に書きましたように、
他の人には見られないエリヤ特有のことです。そのひとつめが、その生涯の終わりです。
死を見ないでそのまま天に引き上げられたのです。火の戦車と火の車に迎えられ、
たつまきに乗って天に昇っていったのです(U列王記2:11)。
この出来事は後継者であるエリシャばかりでなく、エリコの預言者のともがら50人も
見ていたかもしれません(U列王記2:6〜8)。エリヤはなぜ死を見ないで
天に引き上げられたのでしょうか。もうひとり、聖書の中で
天に引き上げられた人エノクについてはこう端的に記述されています。
「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、
彼はいなくなった。」(創世記5:24) このみことばから押して測ると、
エリヤの生涯は神様とともに歩んだものであって、それを神様が喜ばれていた、
というあかしであろうと思われます。確かにエリヤはバアル礼拝全盛の時代に現われ、
「私の仕えているイスラエルの神、
主は生きておられる。」(T列王記17:1)と言って、信仰に立ってこれと戦い、
イスラエルに神の栄光を回復する先がけとなるのです。
2つめのエリヤ特有の事柄は、変貌の山に現われたことです。
イエス様が十字架にかかる前、高い山に登られ祈っていると栄光の姿に変わりました。
そのときモーセとエリヤが現われ、イエス様が
エルサレムで遂げようとしておられるご最期について話し合われました
(マタイ17:2,3、ルカ9:28〜31)。なぜ話し合われたのでしょうか。
なぜモーセとエリヤだったのでしょうか。
ひとつの考えは、律法を象徴するモーセと預言者を代表するエリヤだというものです。
律法は幕屋やいけにえなどを通してキリストとその御業の型となるものでした。
また預言はキリストとその御業についてあらかじめ語ったものでした。
ですからモーセとエリヤによって旧約聖書の中に現わされたキリストと
その御業のすべてが現わされる、ということになります。そしてそのご最期、
すなわち十字架の御業について話し合われたのです。
もうひとつの考えは、イエス様が空中再臨され、
すべてのキリストにあるものが携挙されるときに関連しているというものです。
「キリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ
、空中で主と会うのです。」(Tテサロニケ4:16,17)
モーセがすでに死んでいる者を現わし、エリヤが生きたまま引き上げられる者を現わし、
このふたりによってすべての主にあるものが天に引き上げられて
いつまでも主とともにいる祝福に与ることを現わしているということです。
十字架はまさにこの祝福をもたらすための御業でした。
3つめのエリヤ特有の事柄は、メシヤの先がけとして現れることが
預言されていることです。
イエス様が人の姿をとって歴史の中に現れたのではないかと思われる人物が
旧約聖書の中に登場してきます。メルキゼデク(創世記14 章)などがその例です。
けれども逆に旧約の聖徒が新約聖書の中に登場するのはモーセとエリヤだけです。
彼らが登場するということは人間は死んで終わりではないということを
教えてくれていると思います。
そしてその登場があらかじめ告知されているのはエリヤだけです。
旧約聖書の一番最後にそれは記されています。
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、
預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、
子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、
のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(マラキ4:5,6)
福音書を読みますと、当時のユダヤ人はエリヤの再来を
たいへん気にとめていたことがわかります。バプテスマのヨハネに対して
「あなたはエリヤですか」
(ヨハネ伝1:21)と聞いています。イエス様に対しても
「彼はエリヤだ」(マルコ6:15)という人々がいました。
「律法学者たち(は)、まずエリヤが来るはずだと言ってい」
(マタイ17:10)ました。
バプテスマのヨハネの誕生をその父ザカリヤに告知した御使いは
「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、
父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、
こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(ルカ1:17)
と伝えています。まさにマラキの預言そのままです。イエス様ご自身が、
バプテスマのヨハネについて2回、エリヤであると語っています。
「あなたがたが進んで受け入れるなら、
実はこの人こそ、来るべきエリヤなのです。」(マタイ11:14)
「「エリヤはもうすでに来たのです。・・・」
そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」
(マタイ17:12,13) もちろんバプテスマのヨハネ自身が「そうではありません」
(ヨハネ1:21)と言っているように、同一人物ではなく、
その働きをもって象徴的にエリヤだといわれているのです。
その働きは、御使いがザカリヤに告げたように
「整えられた民を主のために用意する」
(ルカ1:17)ことでした。
さて、ご承知のとおり、ユダヤ人はイエス様を救い主として受け入れませんでした。
その結果、神の国の実現は先送りになりました。今度イエス様が地上においでになるとき、
やはりエリヤは現われなければならないようです。
イエス様が「エリヤはもうすでに来たのです。」
(マタイ17:12)と過去形でバプテスマのヨハネについて語ったその直前に、
未来形で「エリヤが来てすべてのことを立て直すのです。」
(マタイ17:11)と、未来におけるエリヤの働きについても語っているのです。
イエス様が地上再臨される前、患難時代に「ふたりの証人」
(黙示録11:3)が1260日(3年半)の間、預言することが記されています。
そのふたりのうちのひとりはエリヤのようです。預言をしている期間は
雨が降らないように天を閉じる力を持っています(黙示録11:6)。
もうひとりはモーセのようです。彼は「水を血に変え、
その上、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている」
(黙示録11:6)のです。このふたりの証人があかしを終えると、
底知れぬところから上ってくる獣が彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまいます
(黙示録11:7)が、それから主の地上再臨があるのです。
エリヤは神様とともに歩んで、バアル礼拝と戦い、
イスラエルに信仰の回復への道を整えました。メシヤの来臨にあたって、
やはりその道を整える働きを担っておりました。