人生の成功者と自認する方が、晩年、後進の若者たちのために「人生」
について語った書物を残されることがよくあります。最近では、
「九一歳の人生論」という
現代の名医日野原重明氏と昭和の名参謀と言われる瀬島龍三氏の著書があります。
しかしここに人生の失敗者として、人生についての教訓を残した人物がいます。
しかもその人は、この地上に現れた誰よりも、知恵も、富も、
行なった事業も抜きん出た人物でした。その人の名はソロモン、
イスラエルの最盛期の王様です。
ソロモンは王位に就き、神様から望むものを聞かれたとき、
神の民を治めるために「知恵」を求めました。神様はそのことを喜ばれ、
知恵とともに富と誉れをも約束してくださいました。(T列王記3:5〜15)
ソロモンの治世は40年です(11:42)。
4年目から20年を費やして神殿と王宮を建設しました(9:10)。
その志が達成されると心に隙が生じたのでしょう。神様とともに生きることから遠ざかり、
与えられた知恵と富とに生きるようになるのです。後の17年は王として内政、
外交に尽くし、表面的には繁栄を極めるのですが、
一方では信仰を捨てたがゆえの崩壊が始まっていました。
ソロモンは神殿と王宮を建てた他にも、数々の町々、城壁、
その他の建築物を建てるなどの事業をしました(9:15〜19)。
船団を設け貿易をして莫大な富を得ました(9:26〜28、10:11,12、15、22、28,29)。
シェバの女王初め全世界の者がその知恵を聞こうとして
謁見を求めて贈り物を持ってやって来ました(10:1〜10、23〜25)。
「銀はソロモンの時代には、
価値あるものとはみなされていなかった。」(10:21)
というほど富が集中するのです。
そして「七百人の王妃としての妻と
三百人のそばめ」(11:3)を得ました。ほしいと思うものは
何でも手に入れることができました。やりたいと思うことは
なんでもすることができました。能力もありましたし、権力も、富もあったのです。
ソロモンの最初の妻はエジプトの王パロの娘でしょう(3:1)。
しかしその後ソロモンは、政略結婚もあったでしょうが周辺諸国から妻を迎え、
彼女たちを愛します(11:1,2)。そして年老いたソロモンは
彼女たちが慕う偶像の神々を拒否することがなかったばかりか、その神々に従い、
高き所を築くことまでしてしまうのです(11:4〜8)。
事ここにいたって神様が怒らないはずはありません。神様はソロモンに告げます。
「あなたがこのようにふるまい、
わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、
わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。」
(11:11) と告げます。これから王国は分裂の道を
まっしぐらに下っていくことになります(11:14〜40)。
けれどもその分裂の時はソロモンの死後であることも告げられます。
神様はダビデとの約束を尊ばれます(11:12)。
このようにソロモンは華麗な生涯を送りました。
王国の分裂もソロモンがこの地上を去った後のことです。
あこがれるでしょう、このような華やかな人生を。
けれどもけっしてソロモンの心の中は、神様を捨てたその後半生は、
満たされていなかったようです。
歴史書(列王記、歴代誌)を読む限りでは、ソロモンの生涯の出来事は
それまでです(11:41〜43)。けれども「伝道者の書」を読むと、ソロモンが、
晩年悔い改めて、神様に立ち返ったことを知ることができます。
そして人生の失敗者として、神様を認めない人生は、
たとえどのようなものを手に入れたとしても空しい、と語るのです。
「伝道者の書」を見てみましょう。最初に「人生」について第1の結論が示されています。
「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」
(伝道者の書1:2,3) たいしたこともしていない人が語ったのであれば、
一笑に付してもいいでしょうが、ありとあらゆる事を経験した人が
このようなことを言うとしたならば耳を傾けなければいけないのではないでしょうか?
なぜ「すべては空しい」という結論に到達したのでしょうか?
人生について、ソロモンが知ったこと、行なったことを列挙していきます。
1.日の下の営み(1:4〜11)・・・
「日の下には新しいものは一つもない。」(1:9)
使徒たちの時代、ギリシャのアテネの人々は、
「何か耳新しいことを話したり、
聞いたりすることだけで、日を過ごしてい」(使徒17:21)ました。
確かに科学は進歩しています。
いろいろと便利で役立つものが作り出されています。
けれどもそれは自然界にあるものを解明しているだけであって、
日の下での営みは神が創造されたときから昔も今も変わってはいない、
果てしない繰り返しがあるだけです。
2.知恵と知識(1:12〜18)・・・
「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、
知識を増す者は悲しみを増す。」(1:18) 最近はどうかわかりませんが、
私たちが学んだ文学者の多くは自殺を遂げています。
川端康成、太宰治、芥川龍之介、etc.
凡人には知ることのできない悩みの中で苦しんだ末のことでしょう。
3.快楽(2:1〜11)・・・
「日の下には何一つ益になるものはない。」
(2:11) 笑い(2:2)、
酒(2:3)、
音楽(2:8)、
女性(2:8)は一時的なものであって、
その後に空しさがやってくることは誰でもが経験していることでしょう。
事業(2:4)、
財産(2:4〜8)は、
夢として語られるものです。しかし夢中になっているときには
あらゆることを忘れて没頭していても、
やはりそれを達成したときにやってくるものは空虚さだけのようです。
4.知恵と労苦(2:12〜26)・・・
「知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。」
(2:16) ソロモンは知恵を尊びました。しかし、
死はそれを空しいものとしてしまうのです。
労苦によって得たものもまた、
死の向こうには持っていくことができないのです。
秦の始皇帝は中国全土を統一するという偉業を達成したときに、
自らを皇帝と宣言し、神と宣言しました。
そのとき不老不死の薬を求めたことは有名な話です。
死はすべてのものを征服していくのです。ある人は名を残すこともあるでしょうが、
その人の永遠には何も残らないのです。
5.宿命(3:1〜22)・・・「すべての営みと、
すべてのわざには、時がある」(3:17) 人間は自分の努力で
すべての営みが成し遂げられると考えますが、
実は神様の定められたときにしたがって行っているのにすぎない、
人も獣もその点について同じではないか、という。
確かに聖書の預言とその成就を照合していき、まさに100%、
預言のとおりに成就している事実に注目すると、
人は神の予定としてすでにあったことの中に、今もこれからも生き、
動き、存在しているに過ぎないものであることが教えられます(3:14,15)。
等々、11章まで、生けるまことの神を認めないで、自由に生きる人生が、
実はどのようなものであるかを語ります。こうしてつぶさに考えてみると、
何のために生きているのかわからなくなってしまうでしょう。逆説的に、
どうせ死ぬまでの命なのだから、心の赴くまま生きよ、
と言っているようでもあります。けれども、けっしてそうではありません。
第2の結論に到る前に、
「人間には、
一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」
(ヘブル9:27)ことに心を留め、その上で人生設計をするように、警告するのです。
伝道者の書には、若さと老いの対比も随所に見られます。
死の前に一般的には、老化という問題が横たわっています。
老いが来ると体力的な衰えだけでなく、思考においても貪欲さがなくなります。
生きる意味を求める意欲も衰え、諦めが支配するようになります。
ですからソロモンは、第2の結論として、若者に勧めます。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」
と言う年月が近づく前に。」(12:1)と言います。
イエス様がなさったたとえ話にこういう短いお話があります。
「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、
もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、
見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、
友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、
いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。」(ルカ15:8,9)
この失われた銀貨は持ち主の手に戻って価値が回復しました。
私たちの人生に価値を見出すとしたら、
私たちの創造者のもとに帰ったときと言えないでしょうか。
私たちは神様によって目的をもって創られたのです。
ソロモンは、神様とともに歩むことを捨てた後半生を、
知恵と知識を駆使して繁栄を謳歌したように見えますが、
その実は、事業や外交、家庭内のことでも、
平安のない悩みの多いときを過ごしたようです。晩年に悔い改めて、
この「伝道者の書」を残して人生に失敗した者として、若者に、神のない、
死を考えない、永遠を考慮に入れない空しい人生を送ることのないように、
勧めるのです。若さは前途が無限に広がっているように思います。
しかし知恵も権力も富も、あらゆる物を手に入れた者がはっきりと語っているのです。
改めて自分の人生において、その実験を繰り返す必要はありません。
ソロモンは最終的な結論を出します。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、
すべてのわざをさばかれるからだ。」(12:13,14)
番外編として、少し書いてみたいと思います。
ソロモンは神様から与えられた知恵をもっていましたので、
最初の自然界の営みを語っているところなどでは、
科学がずっと後の時代になってから解明したことをいともさりげなく語っています。
「風は南に吹き、巡って北に吹く。
巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。」(1:6)
これは気流について語っていることばでしょう。第2次世界大戦のとき、
アメリカが日本本土を空爆する際、ジェット気流に悩まされたそうです。
知らなかったのですね。また日本が気流を利用してアメリカ本土に風船爆弾を飛ばし、
爆発させました。これがどこから飛んできたのかも不思議だったようです。
それからジェット気流の研究がはじまったそうです。
風が全地球規模で流れているというスケールの大きな考えは
なかなか気がつかないことでした。
「川はみな海に流れ込むが、
海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。」(1:7)
これは水の循環を語っていることにすぐ現代の私たちなら気がつきます。
ここで表現されてない蒸発の概念は、当時は考えられないことでは
なかったのではないでしょうか。蒸発、降雨、そして川の流れの循環、
これもまたスケールの大きな考えです。
番外編として、少し書いてみたいと思います。
もうひとつ、番外編。
老化と死を実に見事に表現しています。
40代も後半になると老化現象が現れてきます。歯肉炎、老眼、前立腺肥大症等々。
それはともかく、老化と死をソロモンはこのように表現しています。
括弧の中は私の類推です。
「その日には、家を守る者(腕は震え、
力のある男たち(腰)は身をかがめ、粉ひき女たち(歯は少なくなって仕事をやめ、
窓からながめている女の目(目)は暗くなる。通りのとびら(口は閉ざされ、
臼をひく音(咀嚼)も低くなり、人は鳥の声に起き上がり(早起き、
歌を歌う娘たち(声)はみなうなだれる。彼らはまた高い所を恐れ
(高所恐怖、道でおびえる。アーモンドの花(白髪)は咲き、
いなご(足はのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く(いのちの終わりのしるし)。
だが、人は永遠の家へと歩いて行き(死、嘆く者たちが通りを歩き回る(葬儀)。
こうしてついに、銀のひも(脊髄は切れ、金の器(脳)は打ち砕かれ、
水がめ(肺は泉のかたわらで砕かれ、滑車(心臓)が井戸のそばでこわされる。」
(12:3〜6) そして「ちりはもとあった地に帰り、
霊はこれを下さった神に帰る」(12:7)のです。
これは比喩ではなく、そのままですね。
番外編として、少し書いてみたいと思います。
最後にもう一度、覚えましょう。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、
すべてのわざをさばかれるからだ。」(12:13,14)