我が家の三男は障害児です。生後10ヶ月のときの患った髄膜脳炎がもとで、
身体障害者手帳には、「四肢マヒ」と記入されるようなことになってしまいました。
今回は「四肢マヒ」ではなく「二肢マヒ」の「足なえ」のお話です。
ダビデは、サウル王が亡くなり、全イスラエルの王となったとき、
先住民族のエブス人が支配していたエルサレムを攻略し、そのシオンの要害を住まいとして
「ダビデの町」と呼びます(Uサムエル5:7,10)。そこはかつて神様がアブラハムに
その子イサクをささげるよう命じたモリヤの山でした(創世記22章)。山、
と表現されているように小高く、周辺を谷に囲まれた要害としては格好の地形でした。
外敵からは知られないところに川から水を補給するための地下道もありました(Uサムエル5:8)。
攻略しにくく、篭城しても何日も持ちこたえられるいわゆる難攻不落の要害だったのです。
このシオンの要害を力攻めしようとするダビデに対して、中にいるエブス人が
「絶対攻略できない」という意味で、「めしいや足なえでさえ、
あなたを追い出せる」(5:6)とあざけるのです。
聖書の中で「めしい」と「足なえ」はしばしば並べて記されています。そしてそれは、
人の中でも最も力のない者、弱い者を意味しています。このときも引き合いに出され、
ダビデを愚弄するために用いられています。
ダビデの攻撃命令のことばが振るっています。
「ダビデが憎む足なえとめしいを打て」(5:8)。
もちろん、足なえやめしいを打ったとしても戦いに勝てるはずがありません。
敵地に入ってまずそのような者にかまっていたら、
その間に強い敵に自分が打たれてしまいます。「女、子どもも容赦するな。全滅せよ」
という意味でしょう。取るに足りないと思われるものでも、
エブス人に属するものはことごとく滅ぼせ、ということでしょう。エブス人が
「めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる」
と言ったことばを受けてそのような表現を用いたと思われます。このため後に
「めしいや足なえは宮にはいってはならない。」
と言われるようになりました。もちろんダビデがそのように言ったのではなく、
ダビデにへつらう人たちが言ったことばでしょう。ここでの宮は、
ダビデの宮である王宮のことであると思います。エルサレムには
後に主の宮(神殿)と王宮が建てられますが、神殿については律法に
「祭司であるアロンの子孫のうち、
だれでも身に欠陥のある者は、主への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。
」(レビ記21:21)とそもそも定められているからです。
このようにめしいや足なえはダビデの王宮に入ってはならない、と言われました。
幕屋や神殿の祭壇では、牛や羊などがいけにえとしてささげられておりました。
それは必ず傷のないものでなければなりませんでした(レビ記1:3,10etc.)。
初子であっても特にひどい欠陥として認識される「足なえか
盲目など」(申命記15:21)の動物はけっしてささげてはなりませんでした。
足のなえたものは最も価値のないものであったのです。
「その日(千年王国の時代)
、・・主の御告げ。・・わたしは
@足のなえた者を集め、
A追いやられた者、また、
Bわたしが苦しめた者を寄せ集める。
わたしは@足なえを、残りの者とし、
A遠くへ移された者を、強い国民とする。
主はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。」(ミカ4:6,7)
これは預言者ミカが、将来、イエス様が地上をエルサレムにおいて支配する王国に
どのような者が迎えられるか語ったことばです。そこではまず「足なえ」なのです。
すでに見てきましたように、人の中にあって最も弱いもの、
最も価値のないものとみなされる足なえが、イエス様の王国にあっては
まず最初に迎えられるのです。イエス様はそのようなものにこそ、
みこころを留めておられるのです。
バプテスマのヨハネが獄につながれていたとき、弟子をイエス様のもとに遣わして、
「おいでになるはずの方は、あなたですか。
それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:3)
と尋ねたことがありました。ヨハネこそイエス様を
「私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」
(ヨハネ1:27)と人々に紹介した人でしたが、イエス様がなさっていることを獄中で聞いて、
その活動の真意を測りかね、イエス様がイスラエルの救世主あるかどうかを直接確認したい
と考えたのでした。その質問に対してイエス様は
「あなたがたは行って、
自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、
らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、
貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。」(マタイ11:4,5)と回答なさいました。
イエス様のなさっていることをよく吟味し、自分で判断しなさい、ということでしょう。
キリストの王国は、力による支配ではなく、愛とあわれみにより、
この世にあって最も弱いもの、最も価値のないものと思われている人たちが、
まず恵みにあずかるところなのです。
現在イエス様がご臨在なさるところは、キリストの御名のもとに集められている集会です。
パウロはコリントの集会に対して、どのような者たちがそこに集められているか、
再認識するように勧めています。「兄弟たち、
あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、
権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、
・・・この世の愚かな者を選び、・・・この世の弱い者を選ばれたのです。また、
この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」
(Tコリント1:26〜28) 集会は、無に等しい者の場所なのです。
さて、ダビデのシオンの要害攻略から時が経ち、ダビデがさらに勢力を増し加え
周辺諸国を従えるようになって国に落ち着きが出てきたとき、
ダビデは亡き親友ヨナタンとの約束を果たしたいと考えました(Tサムエル20:14,15、
Uサムエル9:1)。そして生き残っているヨナタンの子の捜索が行われ、
メフィボシェテが連れてこられました。メフィボシェテは、
前王サウルの孫にあたるものですから、新政権のもとでは命を狙われないようにと
隠れて住んでいました。ダビデ王のもとに連れてこられたときには
命をとられるものと覚悟していたことでしょう。けれどもダビデからかけられたことばは、
「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、
あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。
あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」(Uサムエル9:7)というものでした。
このできごとは、メフィボシェテは私たちのこと、ヨナタンはイエス様のこと、
そしてダビデは神様のことを教えます。まさしくダビデに敵対する立場にありながら、
メフィボシェテはヨナタンのゆえに、ダビデの恵みにあずかる者となったのです。
私たちも神様から隠れて生きるものでしたけれども、神様によって捜し見いだされ、
そしてイエス様の十字架の贖いの御業のゆえに
恐れなく神様の御前に出ることが許される者なのです。
これがクリスチャンの姿です。
ところで、このメフィボシェテは足なえでした。5歳のとき、ペリシテ人との戦いで、
祖父サウル王と父ヨナタンが戦死(Tサムエル31:1,4)し、その悲報を聞いて、
乳母急いでメフィボシェテを抱いて逃げるときに、彼を落としてしまい、
両足ともになえてしまったのです(Uサムエル4:4)
ダビデはメフィボシェテに
「あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」
(Uサムエル9:7)と言いました。思い出してください。
かつてダビデがシオンの要害を攻略したときから人々は
「めしいや足なえは宮にはいってはならない。」(5:8)
と言い伝えてきました。けれどもダビデは何のためらいもなく
「ヨナタンの子であっても足なえはダメだ」ということなく、
その食卓に迎えることを約束するのです。そしてその後
「メフィボシェテはエルサレムに住み、
いつも王の食卓で食事をした」(9:13)のです。今、イエス様によって贖われた者たち、
すなわちクリスチャンと呼ばれる者は週の初めの日ごとにイエス様の招きにあずかり
「主の食卓」(Tコリント10:21)
につく恵みをいただいているのです。
聖書には盲人や足なえなど不具の人がたくさん登場してきます。
それは実際に身体的ハンディキャップを負った人たちです。
なぜそんなにたくさん出てくるかと言えば、事実神様がみこころを留めている存在である
ということもひとついえるでしょうが、私たちすべての者の姿を映し出している鏡でもある
といえるのではないでしょうか。
私たちの足は神様のために働いているでしょうか。
むしろ「「彼らの足は血を流すのに速く、
彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」」
(ローマ3:15〜17)と指摘されるように、
平和よりも争いに走ってしまうものではないでしょうか。
また“口”について言うなら「「彼らののどは、開いた墓であり、
彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」」(ローマ3:13,14)
と指摘されているとおりではないでしょうか。それゆえ、私たちは「よいもの」
として神様によって創られたのですが、私たちの姿は神様にとって
「すべての人が迷い出て、みな、
ともに無益な者となっ」(ローマ3:12)てしまったのです。
その意味で私たちは皆、神様にとって足なえ、めしいのようなものなのです。
キリストの王国がまず足なえを迎えるように、神様はそのような私たちをあわれみ、
私たちが自分自身の姿に気づくのを待っておられます。
どうかこれらの不具の人を聖書の中の登場人物としてとらえるだけでなく、
自分自身の姿としてとらえていただきたいのです。
「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」(ルカ14:16〜24)
これはイエス様のたとえ話です。最初に招待された人々はイスラエルの指導者や一般の人々のことでしょう。彼らはキリストの国への招待を断りました。それで町の大通りや路地の貧しい人、不具の人、盲人、足なえに声をかけました。これは文字通りイスラエルのそのような方々やあるいは神様の御前に自分自身の姿がそのようなものであることを見い出した方々のことでしょう。彼らはすでに見てきましたようにキリストの国に迎えられるのです(ミカ4:6,7)。それでもまだキリストの王国には余裕がありました。そこで街道や垣根のところにいる人々にも声がかけられました。これは私たちイスラエルに国籍を持たない異邦人にキリストの国へのご招待が及んだことを意味しているのでしょう。パウロはこのことをローマ人への手紙9〜11章で詳しく説明しています。メフィボシェテが王の食卓についたように、キリストの王国において食卓につくのです。
私たちは神様に対して霊的な足なえです。でも多くの人はそれを自覚していません。
神に対して足のなえた者であることを認めると、私たちはメフィボシェテのように
キリストのあわれみによって人々には退けられても、
キリストによって真っ先に王の食卓に迎えられます。