「アロン」のことについて書きたいと思います。アロンについて考えるとき、ひとりの人間アロンの面と、
神様に召命された大祭司アロンとしての面を見ることができると思います。
そしてさらに大祭司アロンについて考えるとき、大祭司アロンがささげたいけにえのことについて
考えなければならないと思います。
またイエス様の雛型としての大祭司アロンについても考えなければならないと思います。
まずひとりの人間としてのアロンですが、すでにモーセのときにも書いたかもしれませんが、
アロンはモーセの3歳年上のお兄さんです(出エジプト7:7)。姉ミリアムと3人兄弟ですが、
おそらくモーセが神様に召命されてイスラエルをエジプトから救うために立った83歳のとき、
初めて兄弟は出会ったのではないかと思われます(出エジプト4:27)。
このときからアロンはモーセとともにイスラエルをエジプトから救い出すために働きます。
モーセとともに神様からのお告げに従い、エジプト王パロのもとにたびたび出向き、
いろいろな不思議なこと(奇跡)を行ない、
パロがイスラエル人をエジプトから追放するまで実に10回も繰り返します(出エジプト7〜12章)。
こうしてイスラエルはエジプトを脱出し、カナンの地をめざし荒野を旅します。
途中シナイの荒野で宿営しているとき、モーセはシナイ山に登り神様から律法を授かります
(出エジプト19〜31章)。しかしシナイ山からモーセが降りてくるのに手間取っている間に、
イスラエルはアロンに「モーセの安否がわからないので、自分たちを導く神を作ってくれ」と頼みます。
すると愚かにもアロンはそのことばを受け入れ、金の子牛を鋳て造り、
「これがあなたがたをエジプトから連れ上った神だ」と宣言し、祭りを布告するのです。
おそらくアロンはイスラエルの民の要望を断ったら自分の身が危うくなることを感じてそうしたのでしょう。
けれども事情がどうであれ、それはけっして許されることではありません。
ましてアロンはモーセとともにイスラエルを指導する立場にありました。
上に立つ者が信仰によって踏ん張ることができなかったら、多くの人を過ちに陥らせてしまうことになるのです。
偶像礼拝に陥ったイスラエルは乱れ、敵の物笑いとなっておりました(出エジプト32:25)。
このことはどのように解決されたでしょうか。シナイ山から降りてきたモーセはこの光景を見て怒り
、即座に金の子牛を破壊し、アロンを問い詰め、偶像礼拝をした民を殺し、
そしてその罪の大きさを教えました(32:19〜30)。
けれどもモーセのしたことはそれだけではありません。
この罪を犯したイスラエルのためにとりなしの祈りを神様にするのです。それはすさまじいものでした。
なんと自分が永遠のいのちを失ってもいいから、イスラエルの罪を赦してほしい、というのです。
「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。
自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・。
しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、
私の名を消し去ってください。」(出エジプト32:31,32)
神様はこのモーセのゆえにさばく者はさばきますが、民族全体を滅ぼすことをいたしませんでした。
イエス様を拒否し続ける者は死んだ後さばきを受けますが、
受け入れる者はイエス様の十字架のみわざのゆえに、赦されるのです。
アロンもまたモーセのとりなしによって赦されました。
またずっと後のことですが、姉ミリヤムの発言からでしょうが、アロンはミリヤムとともに、
モーセがめとっていたクシュ人の女のことでモーセを非難したことがあります。
そのことはおそらく正しいことであったのでしょうが、神様はそのとき、非難の内容ではなく、
非難したことそのことを問題にされました。ミリヤムはらい病になりました。モーセがとりなしたことによって、
死を免れますが、彼女は刈り取りをしなければなりませんでした。(民数記12章)
このとき、アロンは首謀者ではなかったと思いますから、
前のことも考えるとアロンは強く迫られると雷同するところがあったかもしれません。
モーセはこのとき、このように評されています。「さて、モーセという人は、
地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数記12:3)
このことばを考えるとモーセは非難されることばに対して応答しなかったのではないかと思われます。様にゆだねていたのでしょう。
私たちの主イエス様は、天の栄光を捨ててこの地上においでくださり、
罪人として私たちに変わって神様のさばきを受けてくださるほど低い立場をとってくださいました。
次に大祭司としてのアロンについて考えたいと思います。
神様は律法の中に祭司の職務を規定しました(出エジプト28,29章)。
このとき神様はアロンとその子ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルを祭司と定め、
アロンを大祭司として指名なさいました。そこには祭司の装束の規定と任職式の規定が記されております。
祭司の最大の務めは礼拝です。そのささげ物については、レビ記1〜7章に5つのささげものが記されています。
これはいずれも私たちの主イエス様をあらわすものと覚えることができます。
1.全焼のいけにえ
2.穀物のささげ物
3.和解のいけにえ
4.罪のためのいけにえ
5.罪過のためのいけにえ の5つです。
少しこれらのささげ物について説明しましょう。
全焼のいけにえ(レビ記1、6章)は、牛、羊、やぎ、山鳩または家鳩でなければなりませんでした。
それは傷のないものでなければなりませんでした。そして何よりもすべて焼き尽くされ、
香ばしいかおりが天に向かって立ち上らなければなりませんでした。
切り分けられて人がとる分は一切ありませんでした。
すべてが神様のみこころを満たすためになだめのかおりの火によるささげ物となりました。
これは主イエス様が、まったく神様のみこころを満足させる完全なささげ物であったことを教えます。
イエス様の公生涯の初めバプテスマを受けたときと、十字架にかかる直前、
最期のときについてモーセやエリヤと話をなされたときの2回、神様は、
イエス様について「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
3:17、17:5)と証言なさいました。
次は穀物のささげ物(レビ記2,6章)です。これは小麦粉でなければなりませんでした。
それに油を注ぎ、乳香が添えられました。これを祭壇の上で焼き、香ばしいかおりが立ち上り、
主へのなだめのかおりの火によるささげ物となりました。
ささげ方はいろいろあってその他にかまどで焼いてパンやせんべいにした上でささげたり、平なべで焼いたり、
深なべで作ったりする方法も教えられています。
ただいずれにしてもパン種(イースト菌)と蜜は入れてはなりませんでした。
また塩を添えてささげるよう教えられています。
穀物のささげ物は何を教えるでしょうか。それはまず何よりも人となられたイエスさまを教えます。
小麦粉は、小麦が粉々になるまで砕かれたものです
。碾臼というものがありますから挽いたといったほうがいいかもしれません。
いづれにしても「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、
人の子には枕する所もありません。(マタイ8:20)と言われるほどに、イエス様はへりくだり、
働かれました。
また油(聖霊)、乳香(神様にとってのよき香りとしての主のご人格)は添えられましたけれども、
パン種や蜜など一般的にはよいと思われるものでも入れてはなりませんでした。
それは混じりけのないご人格をあらわすのでしょう。
3番目は、和解のいけにえです(レビ記3、7章)。これは牛、羊の雄雌いずれでもいいのですが傷のないもの、
またはやぎでなければなりませんでした。そして脂肪が主のものとして、祭壇の上で全焼のいけにえに載せて、
焼いて煙にし、主へのなだめのかおりの火によるささげ物とされました。そして肉はささげた人だけでなく、
汚れていない者であれば誰でも食べることができました。これは神様との和解を喜ぶささげ物ですから、
人が喜び、喜びを分かち合う部分もありました。
和解のいけにえの教えるところはもちろん、イエス様の十字架のみわざによる神様と私たち罪人との和解です。
「今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、
私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:11)
4番目は罪のためのいけにえ(レビ記4,6章)、5番目は罪過のためのいけにえ(レビ記<5,7章)です。
まず罪と罪過の違いをはっきりさせなければなりません。
最もわかりやすいのはヨハネの手紙第1 1:8〜10節のみことばでしょう。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、
真理は私たちのうちにありません。」(8節)
「罪はない」というのは神様の御前における根本的な罪を指します。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、
私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(10節)
「罪を犯してはいない」というのは、人に対する罪、日常生活の中で犯してしまう罪をいいます。
これには賠償が伴いますから、罪過のためのいけにえの記述の中には賠償規定が盛り込まれています。
それでは罪のためのいけにえについてみてみましょう。罪のためのいけにえは、
罪を犯したものによってささげるものが定められておりました。
そして罪を犯したものがそのいけにえの頭の上に手を置き、自分と一体であって身代わりとなることをあらわした後、
これをほふりました。そして脂肪は祭壇の上で焼いて煙にされましたが、
肉や内臓など祭司の取り分を除いたものすべては宿営の外の灰捨て場で焼かなければなりませんでした。
神様は罪人を愛してくださいますが、罪は憎まれます。「
罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)
罪に対するさばきは正しい神様にとって当然のことです。
かしその罪に対するさばきはいけにえによって代えることができました。
私たちの主イエス様は私たちに代わって神様のさばきを十字架の上で受けてくださいました。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント2:21)
そしてイエス様というしみも傷もない神様によって完全に受け入れられる御方がさばきを受けてくださいましたから、
信じるすべての人の罪は永遠に贖われるのです。そ れゆえ神様はこう言われました。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
(ヘブル10:17)
感謝してイエス様の身代わりのみわざを受け入れてください。
最後は罪過のためのいけにえです(レビ記5,6,7章)。
罪過のためのいけにえはその経済的背景を配慮されたかたちで定められています。子羊、やぎならば雌、
次は山鳩、家鳩、それもかなわかければ小麦粉1/10エパでした。これは神様にささげるものですが、
神様の御前に出る前に人に対して犯した罪ですからまず、罪の償いをしなければなりませんでした。
その罪のつぐないは「元の物」に1/5を加えて、元の所有者に返すよう定められています。
主イエス様は私たちが生活の中で犯す罪のためにも十字架の上で血を流してくださいました。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
(ヨハネ1:7)
ここで「すべての罪」と表現されています。これは複数を表しますが、
この罪過のためにも死んでくださいました。
(ちなみに根源的な罪は聖書の中では言うまでもなく単数で表されています。)
5つのささげ物は、イエス様ご自身とそのご生涯、十字架をよくあらわしていると思います。
これらのささげ物は、ささげるものが祭司のところに持ってきて、祭司によってささげられました。
さて、いよいよ大祭司アロンについて覚えたいと思います。
アロンの祭司職は言うまでもなく、主イエス様の大祭司職の雛型です。見方は逆になるかもしれませんが、
イエス様のことからアロンと大祭司職の記述を見ていきたいと思います。ヘブル人への手紙は、イエス様のことについてよく教えてくれますが、まずその5章1〜5節を引用します。「大祭司はみな、
@人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。
それは、B罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。彼は、
自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。そしてまた、
その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。
まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、Aアロンのように神に召されて受けるのです。
同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。」
イエス様は神として栄光の中にお住みでありましたけれども人としての姿を持って
この地上に現れてくださいました。ですからこのように記されています。「
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、
私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)
次に大祭司は神によって任命されました。アロンの任職についてはすでに触れました。
「あなた(モーセ)は、イスラエル人の中から、
あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、
あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。」(出エジプト28:1)
そしてアロンのために栄光と美を表わす聖なる装束が用意され(28:2)、
頭に油を注いで任職いたしました(29:7)。
私たちの大祭司であるイエス様も「同様に、
キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。」
(ヘブル5:5)
そして祭司は罪のためのささげものといけにえをささげる役割がありました。
祭司は毎日聖所に立って礼拝の務めをなし同じいけにえを繰り返しささげました。
けれどもそれらはけっして罪を除き去ることはできませんでした(ヘブル9:6,10:11)。
また大祭司は至聖所に年に一度贖罪の日に入って贖いのいけにえをささげましたけれども、
やはりそれも罪を除き去ることはできませんでした(ヘブル9:7)。
アロンはイスラエルの民のためにいけにえをささげなければなりませんでしたけれども、
アロン自身も罪人でしたから自分自身のためにもいけにえをささげなければなりませんでした。(ヘブル5:3)
私たちの大祭司イエス様は、動物のいけにえではなく、ご自身を十字架の上にささげてくださいました。
「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、
ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)
イエス様は十字架の贖いの御業によりたった一度で永遠の贖いを成し遂げ、
神様との和解を完成してくださいました。
贖罪の日について少し触れておきましょう(レビ記16章)。
一年に一度、イスラエルのすべての罪から彼らを贖うために、神様はこれを定められました。
これは毎年7月10日に行なわれました。その日、贖われるのはイスラエルのすべてです。
すなわち、(至)聖所、会見の天幕(幕屋)、祭壇、祭司たちとイスラエル人の会衆のすべての人たちでした。
それは大祭司アロンの務めでした。
アロンは自分自身の罪のためのいけにえと全焼のいけにえを用意し、簡素な白の亜麻布の装束を着ます。
そしてイスラエル人の会衆のための罪のためのいけにえと全焼のいけにえを取ります。
そしてまず、アロンは自分と家族の罪のためのいけにえである雄牛をほふります。それから祭壇から炭火をとり、
香炉を持って垂れ幕の内側、至聖所に入ります。そして香の煙が契約の箱、「贖いのふた」を覆うようにします。
それからほふった雄牛の血を「贖いのふた」の東側と正面に振りかけます。
このようにして祭司のための贖いをいたします。
次にイスラエル人の会衆が用意した2頭のやぎのためにくじをひき、主のくじにあたったやぎをほふり、
その血を持って至聖所に入り、先に雄牛の血をもってしたのと同じように、
やぎの血を「贖いのふた」の東側と正面に振りかけます。このようにしてイスラエル人の会衆と聖所、
会見の天幕の贖いをいたします。また雄牛と雄やぎの血をとって祭壇の角に塗り、祭壇に振りかけて、
祭壇の贖いをいたします。
さらにアロンは生きている雄やぎの頭に両手を置いてイスラエル人のすべての罪を告白し、
これを係りの者の手をもって荒野に放ちます。このやぎはアザゼルといわれ、
イスラエル人のすべての罪を負います。
それからもう一度会見の天幕に入り、亜麻布の装束を脱ぎ、身をきよめ、
大祭司の正装である栄光と美の装束を着ます。
そして自分の全焼のいけにえの雄羊と民の全焼のいけにえの雄羊をささげます。
このとき自分の罪のためのいけにえの雄牛の脂肪と、
民の罪のためのいけにえの雄やぎの脂肪もいっしょに祭壇の上で焼いて煙にします。
あとはかたづけですが、まずアザゼルのやぎを放ったものは身をきよめなければなりません。
また罪のためのいけにえの雄牛とやぎの血と脂肪を除くすべてのもの、すなわちその皮、肉、汚物は、
宿営の外に持ち出し火で焼かなければなりません。これを焼くものもあとで身をきよめなければなりません。
以上が贖いの日に大祭司アロンの行なうことです。会見の天幕には誰も入ることが許されません。
すべてアロンがひとりで立って行なわなければなりません。贖いが行なわれることをイスラエル人の会衆は
誰一人見ることはできません。ただ固唾を飲んでその日一日行なわれることを、仕事を休んで待つのです。
私たちの主イエス様が十字架の上で贖いのみわざを成し遂げてくださったことを私たちは見ることができません。
けれども私たちは確かに贖いが行なわれたことを信仰によって知るのです。