牧者アモスの預言


 今回は「アモス書」をみていきたいと思います。

 「アモス書」は小預言書として分類されますが、アモス自身は、 預言者ではなく、南ユダ王国のテコア(エルサレムのさらに南16kmほど)で、 牧者(羊飼い)、栽培農家(いちじく桑の木)として働いていた者でした。 ところが神様から、北イスラエル王国に向かってその滅亡と捕囚を預言するために 召されました(1;1、7:14,15)。

アモスの時代

 国家は繁栄を謳歌していると思われるとき、すでに内部から崩壊が始まっている、 というのは歴史が教えるところでもあります。権力につく者におごりが生まれ、 役人が官位奉職のみに関心を持つようになると、国民は省みられなくなり、 過酷な生活を強いられるようになります。そうして国家は自滅していきます。

 BC1400年頃、神様はモーセを通してイスラエル人に律法をお与えになりました。 その後カナンの地に入植したイスラエル民族は、モーセから400年が過ぎて、 ダビデによって王国を確立しますが、その孫のレハベアム王の時代に、 北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます(BC933)。 この北イスラエル王国は、BC721にアッシリア帝国に滅ぼされ、 その民は捕囚の身となります。今回取り上げるアモスが、 その滅亡と捕囚を預言したのは、そのわずか30年前のBC750頃のことでした。

 神様はイスラエル民族がカナンの地にあってどうあるべきかを予め、 モーセを通して律法というかたちにして教えておられました。その中のレビ記19章を読みますと、「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、 あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(2節)と宣言され、 具体的なこととして、@「父母をうやまうこと」(3節)、 A「安息日を守ること」(4節)、B「偶像礼拝をしてはならないこと」 (5節)をまず教えています。また神様に対して聖であることは、 隣人を愛することである、として 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」 (18節)と教えられます。そして具体的な行動として、 C「在留異邦人のため、収穫の落ち穂を残しておきなさい」(9、10節)、 D「隣人をしいたげたり、耳しいを侮ったり、盲人をつまずかせてはならない」(13、14節)、 E「性的な誤りを犯してはならない」(19、20節)、 F「正しいものさし、はかりを用いなければならない」(35、36節)などと教えられていました。

 けれども北イスラエル王国の歴史は、まさしくその教えを ことごとく踏みにじるようなものでした。王国が分裂して 北イスラエル王国が誕生したとき、時のヤロブアム王は、 人々がエルサレムまで礼拝に行って、民の心が離れることを恐れて、 金の子牛を造り、それがイスラエルをエジプトから救い出した神であると言って 礼拝することを求めました。B歴代の北イスラエルの王は ことごとくこの偶像礼拝から離れることができませんでした。

 アモスは次々とイスラエルの民が犯してきた罪を指摘していきます。 A人々は安息日を守っていましたが、その意味を軽んじていました。 「安息日はいつ終わるのか。 麦を売りに出したいのだが。」(8:5)と言って、 神様のみこころに触れることよりも商売を重んじていました。 CD「弱い者を銀で買い、貧しい者を一足の靴で買い取り、 くず麦を売るために。」(8:6、2:6、4:1) 自分が満たされるためには、 他人、特に弱い者、貧しい者として覚えられる在留異国人や不具者を思いやるどころか、 彼らを奴隷のように売買しているのです。E性的にもひどく乱れていました。 「父と子が同じ女のところに通って わたしの聖なる名を汚している。」(2:7)  預言者ホセアの妻は不倫の女でしたが、この時代、 それは特別なことではなかったようです。F悪徳商法は常態化していました。 「エパを小さくし、シェケルを重くし、 欺きのはかりで欺こう。」(8:5)  「彼らは、すべての祭壇のそばで、 質にとった着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を、 彼らの宮で飲んでいる。」(2:8) 悪代官と悪徳商人がニヤニヤしている、 そういう光景を想像してしまいますね。

 しかし、これらのことは現代社会でもまったく同じではないでしょうか。 隣りの人が何をしているのかわからないばかりでなく、 政治や行政はスキャンダルが常態化し、性の乱れは低年齢化し、 心痛む事件が新聞やテレビをにぎわしています。

アモスの預言

 神様はアモスを通して北イスラエル王国にその滅亡と捕囚を宣言します。 「神である主は、ご自分の聖にかけて誓われた。 見よ。その日があなたがたの上にやって来る。その日、 彼らはあなたがたを釣り針にかけ、あなたがたを最後のひとりまで、 もりにかけて引いて行く。あなたがたはみな、城壁の破れ口からまっすぐ出て行き、 ハルモンは投げ出される。」(4:2,3)  まさにこのとおりイスラエルの貴婦人たちは 唇に釣り針をかけられてアッシリアに捕われていったそうです。

 神様はいきなり滅亡と捕囚を宣言されたのでしょうか。 けっしてそうではありません。北イスラエルの歴史の中に、 エリヤやエリシャといった預言者を神様が遣わされてきたことを 私たちはすでに見てきました。

 こうしてアモスによって滅亡を告げながらもなお神様は 「イスラエル、 あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(4:12)と呼びかけ、 「わたしを求めて生きよ。」(5:4、6) と語りかけられるのです。神様の呼びかけを無視してはいけません。 やがて忍耐の終わりのときがやってくるからです。

 神様はアモスに告げられます。「見よ。 わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真中に垂れ下げよう。 わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。 イサクの高き所は荒らされ、イスラエルの聖所は廃墟となる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう。」(7:8,9)

 人々はアモスの語ることを理解することができなかったでしょうか。 けっしてそんなことはありません。ベテルの祭司アマツヤは イスラエルの王ヤロブアム2世に対して、 「ヤロブアムは剣で死に、 イスラエルはその国から必ず捕えられて行く。」とアモスが言っている、 と告げているのです(7:11)。そしてその上で、アモスに対しては 「イスラエルを出て行け」(7:12,13)と、アモスを通して語る神様のみ ことばを拒絶するのです。

 この様子も現在の社会と同じです。人々は福音に耳を傾けて 悔い改めることをしようとはしません。先日も、2年前に臨死体験をしたという方が、 もう死は怖くない、と言うので、死後のことも考えるべきだ、と言いましたら、 三途の川で釣りをするからいいよ、と笑われてしまいました。 時には限りがあります。まだ大丈夫、おもしろくないことは言うな、 と拒否していると、あるとき突然のように、滅亡がやってくるのです。

 「見よ。その日が来る。 ・・神である主の御告げ。・・その日、わたしは、この地にききんを送る。 パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、 主のことばを聞くことのききんである。」(8:11)  主イエス様が空中再臨され、患難時代に入ると、今と同じようには みことばの説き明かしをきくことができなくなります。 今、「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」 (4:12)という神様の呼びかけに応えてください。

救いは異邦人にも

 牧者アモスが、その罪と滅亡を語ったのは北イスラエル王国(2:6〜16) にだけではありませんでした。それはその周辺諸国のアラム(1:3〜5)、 ペリシテ(1:6〜8)、フェニキア(1:9,10)、エドム(1:11,12)、アモン(1:13〜15)、 モアブ(2:1〜3)、南ユダ王国(2:4,5)の8つの国に及びました。 けれども神様はダビデへの祝福の約束を忘れてはいませんでした。 北イスラエル王国はともかくとして、たとえ南ユダ王国が滅亡しても、 必ずダビデの王座は再興されると告げられるのです。 「その日、 わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、 その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。これは彼らが、 エドムの残りの者と、わたしの名がつけられた すべての国々を手に入れるためだ。・・これをなされる主の御告げ。・・」 (9:11,12)

 「わたしは、わたしの民 イスラエルの捕われ人を帰らせる。」(9:14)というみことばによって、 第2次世界大戦後、シオニズム運動により世界中に散っているユダヤ人が、 1948年5月14日にパレスチナの地にイスラエル共和国を建国して、 帰還したことを覚えさせられます。そのエルサレムにあって ダビデによって象徴される王の王イエス様が全世界を支配する千年王国時代に、 人々は平和で豊かな生活を満喫することになります(9:13〜15)。

 しかし、このみことばは未来を予言しているだけではなさそうです。 時代は大きく下りますが、主イエス様の弟であるヤコブが、 イエス様が昇天されたあと、重要な真理を説き明かしています。 福音は使徒たちによってエルサレムから始まってユダヤ、サマリヤの全土、 そして異邦人の地にまで伝えられ、異邦人の中からも 救われる人が起こされるようになります。 するとエルサレムにいるユダヤ教から改宗したクリスチャンの中から、 まず割礼を受けさせるべき、律法を守らせるべきという意見が出ます。 キリストの救いはユダヤ人のものという意識があったのでしょうか。 ユダヤ人や在留異国人のようになってからでないと クリスチャンになれないというわけです。しかしこれには大きな誤りが2つあります。

 ひとつは、救われる条件に、キリストの十字架の御業のほかに、割礼、 律法を付け加えて、キリストの御業が神様に受け入れられる必要十分であることを 認めていないこと、すなわちキリストが不完全なものであると言い放っていること、 これは大変なことです。救いがなくなってしまいます。

 そしてもうひとつは神様が明らかにユダヤ人も異邦人も みな恵みによる救いをお与えになろうとされていることに逆らうことであるということです。 神様はユダヤ人(イスラエル人)だけの神様ではなく、全人類の神様です。 神の御子イエス様の十字架の御業によって、すべての人に神様との和解が得られる道が 整えられたとき、救いはユダヤ人だけのものではなく異邦人にまで及ぶようになりました。 神様は異邦人の中にも救われるものを起こされ、彼らがキリストの御名によって、 すなわちクリスチャン(キリスト者)と呼ばれるようになさったのです。

 この福音の根幹に関わる問題を話し合うために、パウロとバルナバが上京し、 そしてペテロやヤコブを含むエルサレムの兄弟たちとこの問題を検討します。 そしてその最後に、神様のご計画をヤコブが先程のアモス9:11,12を引用して、 説明をしたのです。

 「ヤコブがこう言った。「 兄弟たち。・・・神が初めに、どのように異邦人を顧みて、 その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオン(ペテロ) が説明したとおりです。預言者(アモス)たちのことばもこれと一致しており、 それにはこう書いてあります。『この後、わたしは帰って来て、 倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、 それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、 わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、 主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、 こう言われる。』」(使徒の働き15:13〜18)

 初め、神様はご自身を、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエル民族に 啓示されました。そして時到って御子イエス様をこの世に遣わし、 救いの御業を完成なさいますと、全人類に、イエス・キリストを通して、 ご自身を啓示なさいました。ローマ人への手紙9〜11章には、 神様のそのご計画が明らかにされています。「ああ、 神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。 ・・・すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」 (ローマ11:33、36) この恵みからもれないよう、 「あなたの神に会う備え」 (アモス4:12)をしてください。