ギリシャ語には、日本語の「愛」に相当する単語は3つあるそうです。まず「アガペー」。
これは自分を犠牲にする愛をあらわします。神の愛はまさにこれです。
ご自身を犠牲にするキリストの愛もまさしくアガペーです。
次は「フィーリオ」これは友情、対等の愛をあらわします。そして最後に「エロス」です。
これは男女の愛、相手を求め奪う愛をあらわします。
聖書の中には単語としては「アガペー」と「フィーリオ」しか出てきません。
この3つの愛について考えてみましょう。
まず男女の愛です。ヤコブがラケルを愛した愛はこれでしょう(創世記29:18)。 その姿も顔立ちも美しかったからです。ヤコブはラケルを妻に迎えるためにその父ラバンに7年間仕えましたが、 ラバンはヤコブをだましてラケルの姉のレアを妻として与えました。 そのためヤコブはラケルのためにさらに7年ラバンに仕えるのです。
またダビデ王の子アムノンの恋は悲劇を生みました。彼は異母姉妹のタマルを愛し(サムエル記第2 13:1)、 仮病を使って、力づくで彼女と寝てしまうのです。すると今度はひどい憎しみにかられて彼女を嫌ってしまいます。 そしてこのことを知ったタマルの兄アブシャロムはアムノンへの復讐を企て、 異母兄弟であるアムノンを殺してしまうのです。
しばしば男女の愛においては、自分の期待を相手に要求するものであるようです。
次は友愛です。そのもっとも美しい例は、ダビデとヨナタンの友情でしょう。 このときヨナタンはイスラエルの王子、ダビデは神によって次の王位を告げられたものであって、 普通ならばライバル関係であったでしょう。けれどもダビデはヨナタンが戦死したとき、このように言っています。 「あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、 女の愛にもまさって、すばらしかった。」(サムエル記第2 1:26) かつてねたみにかられたサウル王におわれたダビデを、ヨナタンは父王サウルの本心を探り、 その友情のよってダビデを逃がしたことがありました。ヨナタンは王子という立場よりも、 神様がダビデを選んでいることを認めそれを喜ぶことのできる人でした。 そのヨナタンもペリシテとの戦いで父王サウルに従い戦いに出ていき、サウル王とともに戦死してしまうのです。 ダビデはヨナタンとの友情を女の愛に勝るものであったと歌いました。
このような友人がいたら、どんなに心強いことでしょう。
最後に神の愛です。それは自分を犠牲にすることをいとわない愛です。 おそらくこの世で一番近いのは母親の愛情でしょうか。イエス様は、十字架にかかる前、 ご自身を受け入れることのなかったイスラエルについてこのように言われました。 「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、 わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。 それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(ルカ伝13:34) 大火があると母親が幼子をかばうように丸くうずくまった焼死体が見つかることがあります。 自分は火だるまになってもいいから子どもだけは助かってほしい、その気持ちそのままの姿です。 その母親の自分を犠牲にしてまで幼子を助けようとする姿は多くの人の涙をさそいます。
神様は、神様に背を向ける人々のためにご自身のひとり子イエス様を遣わし、 私たち罪人の代わりにこのお方を十字架につけて身代わりとしてさばいてくださいました。 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、 なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第1 4:10)
愛はその払われた犠牲の大きさによって計ることができるといいます。 イエス様は、まず天の栄光を捨ててくださいました。次に人に仕えて神を現し、 苦しみのご生涯を送ってくださいました。そしてとうとい命を十字架のうえに捨ててくださいました。 このイエス様はどのような御方でしょうか。神様によって「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 (マタイ17:5)と言われる御方です。ことばをもって天地万物を創造された神様でもあります。 この偉大な御方があなたを愛し、また私を愛してご自身を犠牲にしてくださったのです。
この神の愛を知るとき、私たちはただ感謝するほかありません。そしてそのような愛をもって神を愛し、 人を愛することができたらと願うばかりです。
私と家内はちょっとばかり身長差があります。家内が家の中を掃除するとき、その目の届く範囲に限られますから、 ときどき私は高いところに残されたほこりが掃除されないまま残されているのを見つけることになります。 視点を変えるとき、ものの見方がすっかり変わることがあります。愛について考えるとき、 神の愛をまず知ることがさいわいであると私は思います。そうすると見えなかったものが見えてくることでしょう。
愛するひとり子イエス様を遣わし、十字架の上に身代わりとしてさばく程までに、 あなたに対する愛をあらわしてくださっている神様の愛に、あなたの心を向けてみませんか。