今回は「ダビデの油そそぎ」ということで聖書の記述を見ていきたいと思います。
「イエス・キリスト」・・・なんとなく名前と姓のように思っている人が多いと思います。
しかし、聖書の中では、「イエス・キリスト」と表現しているところもあれば、
「キリスト・イエス」と記されているところもあります。確かに「イエス」は名前なのですが、
「キリスト」は姓ではないのです。言うなれば称号のようなものでしょうか。
「キリスト」はギリシャ語です。ヘブル語で言うと「メシア」です。
日本語であれば「救い主」です。その意味は「主に油そそがれた者」なのです。
イエス様の弟のヤコブや、弟子のペテロやヨハネの書いた手紙はすべて
「イエス・キリスト」と表現されていますが、パウロの書いた手紙では「イエス・キリスト」と
「キリスト・イエス」の両方が出てきます。先の人たちは、イエスに会って、
その方がキリストであった、ということであったのに対し、
パウロは初めからキリストであるイエスに会ったことによるのでしょう(使徒9章)。
イエス様はガリラヤで伝道を始めてまもなく、ご自身が育ったナザレに行かれ、
そこの会堂でお話をなさいました。そのとき預言者イザヤの書が手渡されたので、
61章をお開きになり読まれました。そこにはこのように書かれていました。
「わたしの上に主の御霊がおられる。
主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、
わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。
捕われ人には赦免を、
盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18,19)
そして宣言します。「きょう、聖書のこのみことばが、
あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)
イエス様はご自身を主に油そそがれた者、主より遣わされた者、として宣言したのです。
イエス様はどのように、神様から油をそそがれたのでしょうか。
「わたしの上に主の御霊がおられる。」
(ルカ4:18)とイエス様が語られているように、それは聖霊の降臨をさしています。
事実伝道に入る前、イエス様がバプテスマを受けたときに天から聖霊が鳩のように下りました。
このときから聖霊はイエス様とともに歩み、十字架のついた後半の時間、
すなわち罪人として神様からのさばきを身代わりとして受けた12時から3時までの時間を除いては
つねにイエス様と一緒でした。
イエス様に油がそそがれた目的は、先程の預言のことばの中にはっきりと記されています。
それは福音を宣べ伝え、罪の束縛にあるものを解放し、神の国の民とすることでした。
旧約聖書の時代、イスラエルにおいては、特に「王」、「祭司」、「預言者」
に限ってその任職のとき、油がそそがれていたようです。「王」様では、
ダビデを初め歴代のイスラエルの王に油がそそがれました。
しかし必ずしも神様の任職によって行われたケースばかりでなく、
自分たちが望むものを王に仕立てようとするときも行われていました。
「祭司」では、大祭司アロンを初めとする祭司たちに油がそそがれ、
律法の中にもその規定がしっかりと定められていました(出エジプト28章)。
「預言者」では、主の命により、預言者エリヤがエリシャに油をそそいだ例があります
(T列王記19:16)。
王(ユダ族から)であって祭司>(レビ族から)であるというような、
兼任は基本的にありませんでした。しかしただひとつの例外があります。
律法の制定されるよりも前、アブラハムの時代にイエス様の雛型として覚えられる
「メルキゼデク」という人物です。彼は「サレムの王で、
すぐれて高い神の祭司でした」(ヘブル7:1)。小弟はこのメルキゼデクなる人物、
実は旧約の歴史の中に現れたイエス様ご自身であると考えています。
イエス様ご自身は、王であり、祭司であり、預言者であるお方です。
さて、ダビデですが、彼は実に3回も油を注がれているのです。
最初は預言者サムエルによってです(Tサムエル16:13)。まだ少年のときでした。
サウル王に仕えるよりも前、羊飼いとして野にいたときでした。2回目は、
サウル王とヨナタンがペリシテとの戦いで死んだあと、イスラエル全体の南半分、
当時ユダといっていた地方の人々が、ヘブロンでダビデに油をそそぎ、
ユダの家の王としました(Uサムエル2:4)。そして3回目は、
サウル王亡き後の内乱が収まったあとで、イスラエルの全長老がヘブロンのダビデのもとに来て、
ダビデに油をそそぎ、全イスラエルの王としました。
先にも書いたとおり、聖書の記述にあるいろいろな油そそぎを見てみますと、
神様の任職による油そそぎと人々の思いから出た油そそぎがあるようです。
その意味では、ダビデの主よりの油そそぎは、
まだ少年であったときのサムエルによって行われたそのときであったと言えます。
少しそのときの様子を見てみましょう。
当時は、さばきづかさの時代を終え、イスラエルの人々が
「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」
(士師記21:25)ところから、やっと精神的な支柱であるサムエルと、
サウル王のもとに国がまとまろうとしているときでした。しかしながらサウル王は、
「主のことばを退けたので、
主もあなたをイスラエルの王位から退けた」(Tサムエル15:26)と言われたように、
神様のみこころに従った道を歩むことができませんでした。
そこで神様はみこころにかなった王を立てようとなさいます。
そして神様は預言者サムエルに「角に油を満たして行け。
あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、
わたしのために、王を見つけたから。」(Tサムエル16:1)と告げられます。
そして神様が「エッサイの息子たちの中に」としか明らかにされていませんでしたから、
サムエルの前にエッサイの息子たちが集められます。ものの道理でサムエルは長男エリアブを見て
「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」
(Tサムエル16:6)と思いました。それは王として遜色のない風貌であったのでしょう。
しかし神様はサムエルに仰せられました。「彼の容貌や、
背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。
人はうわべを見るが、主は心を見る。」
(Tサムエル16:7) たいへん重い言葉ですね。
次にアヒナダブ、それからシャマと進ませられましたが、そこにいた7人ともが
選ばれた者ではありませんでした。サムエルは7人目のときにはとまどいがなかったのでしょうか。
そのことは書いてありません。そして尋ねます。
「これで全部ですか。」(Tサムエル16:11)
エッサイは羊の番をしている末の子を呼びに行かせます。
ダビデは父の目から見ても初めからはずされるように、まだ年がいっていなかったのでしょう。
そしてダビデがサムエルの前に連れてこられます。
「主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。
この者がそれだ。」サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。
主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」(Tサムエル16:12,13)とあります。
神様が選ばれたイスラエルの王ダビデの誕生です。このようにしてダビデに油がそそがれました。
実際、ダビデが表舞台に登場するまでには今しばらくのときが必要でした。
しかし神様は羊飼いの少年ダビデをやがて不思議な経過をたどりながら、
一代でイスラエルの栄光の時代を築き上げる王として導いていかれるのです。
ダビデは、主によって油をそそがれることが、どれほど重いことであるかをよく知っておりました。
それはサウル王のねたみを買い、サウル王から命を狙われ、追われているとき、逆に、
2度かサウル王の命を奪うチャンスがありました。ダビデに付き従う者たちが、
「神様から与えられたチャンスだ」と言うのですが、ダビデは頑として
「主に油そそがれた者に手を出してはならない」と主張いたします。ダビデは、
「主に油そそがれる」ということの重さをよく理解していました。
それは神を恐れるものであったからです。(Tサムエル記24、26章)
最後のもう一度、イエス様についての預言にふれてみたいと思います。
それはダニエルの70週の預言と呼ばれるところです。ここにイエス様は主に油そそがれたものと語られています。紀元前550年頃の預言です。そう長くないので全文を引用します。
「@あなたの民とあなたの聖なる都については、
A七十週が定められている。
Gそれは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、
永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
それゆえ、知れ。悟れ。
B引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、
C油そそがれた者、
君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
Dその六十二週の後、
油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。
Eやがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。
その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
F彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、
いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。
ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9:24〜27)
少しずつ解説していきましょう。
@まずこれは「あなたの民とあなたの都について」の神様からの啓示です。
あなたというのはダニエルのこと(ダニエル9:22)ですから、
イスラエル人とエルサレムの町についての啓示ということです。
A次に、70週などの表現とその解釈ですが、
「一年に対して一日とした」(エゼキエル4:6)
という観点から考えると、1週7日は7年で、70週ですから、7×70で、
イスラエル人とエルサレムについての490年の神様のご計画について語りましょう、
ということになります。
Bそして、この預言の基準となる日ですが、それはエルサレムの再建命令が出た日である、
ということです。当時エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、イスラエル人はバビロンに
捕囚として連れて行かれていました。このエルサレムの再建命令はバビロンの後、
世界征服を果たしたペルシャの王によって出されます。この命令は、
記録ではBC536、457、444の3回、出されているようなので、そのどのときを基準にしたらよいかは、
今のところ小生にははっきりわかりません。ただ聖書の記述から追っていきたいと思います。
Cここに最初の7週と62週についての預言があります。新改訳聖書の表現で説明しにくいので、
一般的な解釈に従って区切り説明いたします。
ここに今回のテーマである「油そそがれた者」が登場します。
すなわちキリスト(メシヤ、救い主)がエルサレムに来るまでに7+62=69週(697=483年)
という期間が決まっているというのです。イエス様が
「油そそがれた者、君主」(ダニエル9:25)
としてエルサレムに入るのは、十字架につく少し前、ろばの子に乗って、
群集の「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。
主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
(マタイ21:9)という叫びを聞きながらのときでした。
仮にエルサレム再建がBC457とすると、イエス様のエルサレム入城はAD26ということになるでしょうか
(483‐457=26)。イエス様が「教えを始められたとき、
イエスはおよそ三十歳」(ルカ3:23)という年齢を30歳ぴったりと考えないで
もう少し幅を広くして理解すれば、すんなり納得できることとなります。
なお、ここで7週がありますが、これはエルサレム再建の命令が出てから、
ネヘミヤなどの働きでエルサレムの広場やほりが
建て直された苦しみの時代のことをいっているのだと思います。
Dそしてこの62週の終わりに「油そそがれた者」
(ダニエル9:26)は断たれます。すなわち十字架の死です。
これは「油そそがれた者」(キリスト、メシヤ、救い主)の使命でした。
E「やがて来たるべき君主の民」(ダニエル9:26)とは
終末の時代に再建されるローマ帝国が、イエス様の十字架の死の後に存在していて、
そのローマ帝国の民がエルサレムの町と聖所を破壊するというのです。
事実ローマ軍がAD70年、エルサレムを破壊したことを歴史として今の私たちは知っています。
そして洪水のように激しい迫害がイスラエル人に終わりの時代まで続くというのです。
このこともイスラエル人はエルサレムが破壊されたときから世界中に散らされ、
異民族の中で迫害されながらも行き続けてきた歴史を私たちは知っています。
ナチスによる迫害では600万人ものユダヤ人がホロコーストに送られ殺されました。
62週の後、このところは「
その終わりには洪水が起こり、
その終わりまで戦いが続いて」
(ダニエル9:26)とあるように期限が明らかにされておりません。
イスラエル人にとっては長いブランクのときですが、
異邦人にとっては『教会時代』といわれるときになります。
Fそして再びイスラエル人とエルサレムについての1週について語られるのです。
これは未来のことです。そしてその期間は1週、すなわち7年間です。
その最初に「彼は」(ダニエル9:27)とあります。
これはおそらく、先程「やがて来たるべき君主」
(ダニエル9:26)とありましたが、その君主、すなわち、再興したローマ帝国の君主、
政治的指導者のことを指しているのではないでしょうか。彼は7年間の契約期間の契約を、
多くの者、たぶん全世界の国々とイスラエル国家について、何らかの協定を結ぶのでしょう。
そして半週の間、すなわち3年半、そのとき並び立つ宗教的指導者を拝むよう、
「いけにえとささげ物とをやめさせ」
(ダニエル9:27)ます。しかし3年半が過ぎたとき、突如彼、すなわち「荒らす忌むべき者」は、
「翼」、すなわちエルサレムの神殿に現れ、自分自身を拝むことを強要するようになるでしょう。
神殿は神様がご臨在なさり、神様を礼拝するところです。神様の位置に自分を置いたとき、
この荒らす忌むべき者は、本来その位置にいらっしゃるはずの、油そそがれた者、主イエス様によって、
滅ばされます。
「定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」(ダニエル9:27)と記されています。
Gイスラエル人とエルサレムについてのこの預言の目的がその最初に記されていました。
「それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、
永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」
(ダニエル9:24) 7年の期間が終わり、主イエス様が地上に再臨され、主イエス様ご自身が、
油そそがれた者として、千年間、この地上を支配する、平和な時代がやってきます。
ダニエル書からは、油そそがれた者のことだけでなく、
それ以外のこともその記述から多くを書きましたが、油そそがれた者、
すなわち「王」としての主イエス様は、まずその国民を罪の支配のもとから解放し、
神の国の民として回復するために、十字架の死という、
あがないの御業を成し遂げなければなりませんでした。「王」として「救い主」として、
イエス様は、その国民をたいへん愛されました。
ぜひともこの神の御国の国籍を得られますようお勧めします。