アブラハム


 今回は「アブラハム」のことについて書きたいと思います。 創世記12〜25章に登場しますが、聖書のキーパーソンですので、いろいろな場面で登場します。 新約聖書から7つのポイントを覚えて拾っていきたいと思います。

 @ 神様はアブラハムに繰り返し繰り返し祝福を約束されています。新約聖書を開くとまず、 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。 」(マタイ1:1)と書かれています。 なぜイエス様の系図を記すのにアブラハムとダビデが登場するのでしょうか。 それは、このふたりの人物に、その子孫からメシアが誕生すると神様が約束されたからです。 紀元前2000年、すなわちイエス様が誕生する2000年前のアブラハムと、紀元前1000年のダビデ。 預言のとおり誕生した、というわけです。ガラテヤ書には「ところで、 約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、 多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。 その方はキリストです。」(3:16)とあります。また「 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、 その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」 (3:14)ともあります。アブラハムへの祝福は何度も繰り返されておりますが、 その一つは、「あなたの子孫によって、 地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」(創世記22:18)というものです。 それゆえ約束の子孫として「アブラハムの子孫」 と記されました。 神様はもう一つの祝福をアブラハムに与えられました。それはアブラハムの 子孫たちを祝福する、ということでした。 「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、 海辺の砂のように数多く増し加えよう。」その子孫たちというのは、 系図によって表される子孫ではなく、信仰を同じくするものこそ、その子孫だといっています。 「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、 アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」 (ガラテヤ3:7〜9)その祝福を受け継ぐのはクリスチャンです。

 A では、なぜアブラハムはそのように神様から祝福を受けたのでしょうか。言うまでもなく、 その信仰を神様が喜ばれたからです。「私たちは、 「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っています」 (ローマ4:9)とあります。これは「 「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」 (創世記15:5,6)という記事に基づくことですが、割礼という行ないの前に、 すでに信仰によって義と認められ、神様に受け入れられていたことが、 ローマ書には続けて記されております。宗教は行ないを求めますが、神様は信仰のみを求められます。 アブラハムのその信仰の歩みはヘブル人への手紙11章の信仰の勇者たちの記事の中に 大きく取り上げられております。8〜19節にアブラハムのことが書かれています。 一部を記します。「信仰によって、アブラハムは、 相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、 どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に 他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。 その都を設計し建設されたのは神です。・・・信仰によって、アブラハムは、 試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、 自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者が あなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中から よみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。 これは型です。」(ヘブル11:8〜10,17〜19)

 このアブラハムの信仰を喜ばれた神様は、聖書の中でただひとり、 アブラハムを「友」と呼んでおります。「そして、 「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、 彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ2:23)

 B 神様に受け入れられる道、すなわち義と認められるために、神様から求められるのは、 割礼に代表される律法を行うことによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるのだ、 ということを説明するために、アブラハムが引き合いに出されています。 ローマ人への手紙3:21〜4:25>にそのことが書かれています。 アブラハムが神様によって義と認められたのはいつだったか、それが問題です。(4:10) 「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」 (創世記15:6)とあるのは、神様からの祝福をいただいたときに単純にそれを信じたときでした。 その後、神様は祝福の契約を証としてアブラハムに割礼という行ないを求められました。 (創世記17:10)このことは割礼という行ないによってアブラハムが義と認められたのではなく、 信仰によって義と認められたのだと言うことを論証するために説明されています。 「どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。 割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。 割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき 信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。」 (ローマ4:10,11)宗教は献金や奉仕などの行ないを求めます。 けれども神様はただ信仰だけを求められるのです。

 C さて、別の観点からもアブラハムは引き合いに出されています。イエス様は、 神様は生きている者の神であることを、論証するときに、「 わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とあります。 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」 (マタイ22:32)と語られました。サドカイ派の人たちは、復活はない、 死後はないと主張していました。サドカイ派の人たちをはじめユダヤ人が、 神様のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と慣用句的に言っていることばをもって、 アブラハムもイサクもヤコブも生きている、すなわち死後も復活もあることを説明なさいました。

 ヘブル人への手紙の著者は、神様の比類なき御方であることを説明するために、 アブラハムを祝福するときに神様が誓われたことばを引用しました。「 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、 ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、 あなたを大いにふやす。」・・・確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、 確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、 神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、 誓いをもって保証されたのです。」(ヘブル6:13,14,16,17)

 E またイエス様は、ご自分が永遠から永遠までご存在なさる神様であることを説明するときに、 アブラハムを引き合いに出されました。「 「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。 彼はそれを見て、喜んだのです。」そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。 「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。 アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」」(ヨハネ8:56,58)

 ユダヤ人たちはイエス様が「まことに、まことに、 あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、 その人は決して死を見ることがありません。」(ヨハネ8:51) と言われたことばに怒りを覚えました。そして先祖アブラハムよりも偉大なのか、 と怒りました。イエス様はそのアブラハムは「私の日を見ることを思って大いに喜んだ」 と言うのです。神様はアブラハムのひとりの子孫によって全人類を祝福する、 と言われたことはすでに見てまいりました。その約束の子孫であるイエス様のおいでになる日を アブラハムは期待し、待ち望み、喜んでいました。イエス様はそのことを言われたのです。 でもその言い方は明らかに見てきたようであったので、ユダヤ人はさらに怒りを覚えて 「50歳のもなっていないのにアブラハムを見たのか」と反論します。そこでイエス様は、 見てきたばかりでなく、アブラハムが存在するよりもずっと前からご自分は存在する永遠の神である、 と言われたのです。

 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。 初めであり、終わりである。」(黙示録22:13)

 F ヘブル人(ユダヤ人)への手紙を書いた著者は、イエス様の偉大さをユダヤ人の偉大な先祖 アブラハムを基点として証明しています。かつて、ケドルラオメル王たちの連合軍により ソドムとゴモラの町が襲われたとき、アブラハムのおいロトとその財産が奪い去られてしまいました。 アブラハムはそれを聞くとすぐさまこれを追跡し、打ち破りすべてのものを取り返しました。 その凱旋帰路に、現れたのがシャレム(平和)の王メルキゼデクでした。このメルキゼデクは、 創世記14章のこの記事のところにしか歴史的には現れないのです。そこで 「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、 いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。 」(ヘブル7:3)と紹介されています。 すなわち永遠の存在であるイエス様のひな形として紹介されているのです。

 さてそれをふまえた上で、二つの比較によりイエス様の偉大性が証明されます。 その比較の第一は、メルキゼデクとアブラハムです。アブラハムはメルキゼデクに 戦利品の10分の1をささげ、メルキゼデクはアブラハムを祝福しました。 そこには明らかに上下の関係があります。言うまでもなく、 ユダヤ人の偉大な先祖アブラハムよりもイエス様のひな形であるメルキゼデクの方が上です。

 比較の第二は、アブラハムとレビです。アブラハムの子のひとりはイサクです。 イサクの子のひとりはヤコブです。ヤコブの子のひとりはレビです。 このレビの子らがイスラエルの中にあってレビ族として、 幕屋に仕える特別な家系として働くことになります。祭司もレビ族からたてられました。

 そして比較の第三になります。すでにメルキゼデク−アブラハム−レビの順番が できてしまっていますから、結論は明らかですが、 メルキゼデクの大祭司職とレビ系の祭司職の比較です。 アブラハムがメルキゼデクに10分の1をささげたとき、 レビはアブラハムの腰の中にいたと表現されています。 ですからアブラハムを介してメルキゼデクはレビに勝っていると説明されています。

 結局何を言おうとしているのでしょうか。レビ系の祭司職によって 人類の贖いは完成することはありませんでした。 メルキゼデクの位に等しい大祭司であるイエス様が現れて初めて、 全人類の贖いが十字架の上で完成されました。「また、 このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、 私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、 まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。 というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」 (ヘブル7:26,27)私たちの罪が完全に取り除かれるためには、 神の子であるご自身の尊い命をささげて下さったイエス様に感謝して受け入れること、 それでいいのです。

 アブラハムは、ユダヤ人にとって、父祖であって尊敬する絶対的な存在です。 ですから、福音をユダヤ人に、旧約の教えとの違いを説明しながら、理解してもらうために、 アブラハムを引き合いに出すことはたいへんわかりやすかったものと思います。