「その死によって、
@悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし
、
A一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放
してくださるためでした。」
(ヘブル2:14,15)
ヘブル書2章は、イエス様が人となられたゆえに
御使いよりも優れたものであることが記されています。
「その死によって」(2:14)とあるように、肉体を得たことにより、
「死」という神にはない選択肢を行使することができるようになって、
「その死によって」救いの道を確立されたので、
御使いよりもはるかに勝ったものであるというのです。
私の子どもが病気をしたとき、その回復の過程で、食べるという
私たちが何気なく行っている行為が咀嚼することと呑み込むことの2つのことによって
成り立っているのだということを痛感しました。咀嚼することができるようになっても、
呑み込むことができなければ、食べ物は胃に送られていかないのです。
ここでヘブル書の著者は、イエス様の死の効力を
一連の2つの事柄に分けて説明しています。第1に、悪魔の行く末を定め、
第2に、私たちを死の恐怖から解放したのです。
このことを今日はエステル記の出来事を通して確認してみたいと思います。
それではエステル記を開きたいと思います。
「アハシュエロス王は、アガグ人ハメダタの子
ハマンを重んじ、・・・すべての首長たちの上に置いた。」(3:1)
まず悪魔のひな形である、ハマンの登場です。その前に背景を説明しましょう。
舞台は、アハシュエロス王の第12年(BC473、3:7)の、
ペルシャ帝国のシュシャンの城です。一部のユダヤ人はエルサレムに戻りましたが、
その多くはなおバビロニア帝国の支配を継承したペルシャ帝国全土に留まっていました。
実にペルシャ帝国の支配領域は、東はホド(インド)から西は
クシュ(エチオピア)にまで及んでいました(エステル1:1)。
第2次ペルシャ戦争から戻ったアハシュエロス王は、
(このアハシュエロス王は世界史ではクセルクセス1世と称して
第2次ペルシャ戦争でギリシャとのサラミスの海戦で敗北、
撤退を余儀なくされた王様として知られています。) エステルを妃に迎え、
モルデカイの注進によりアハシュエロス王暗殺計画を阻止したところでした
(エステル2:17,21〜23)。
さて、ハマンですが、
「アガグ人ハメダタの子ハマン」(3:1)
とあります。アガクというのは、アマレク人の王家の名称です。
ハマンはアマレク人の王族の血をひく者でしたが、ユダヤ人と同様、
今はペルシャ帝国の支配下にあって生きる者でした。
アマレクの本質を見てみましょう。そもそもその始祖アマレクは、
ユダヤ人の先祖ヤコブの双子の兄エサウの孫((創世記36:12)です。
エサウの子孫をエドム人と言いますが、その一氏族を形成します(36:16)。
そして歴史的には常にユダヤ人の敵となって登場します。
モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルに最初に立ちはだかった敵は、
アマレクでした。その後もアマレクはイスラエルを悩ませる存在でした
(民数記14:45、士師記6:33)。ついに神様はサウル王に
「行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。
容赦してはならない。」(Tサムエル15:3)と命じられます。
このときに聖絶できなかったアガクの子孫が今一度ユダヤ人の敵として、
そのときから600年近くたったペルシャ帝国で立ちはだかるのです。
「書簡は急使によって王のすべての州へ送られた。
それには、第十二の月、
すなわちアダルの月の十三日の一日のうちに、若い者も年寄りも、子どもも女も、
すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪えとあった。
」(エステル3:13)
アガク人ハマンは、彼の前にひざまずくように、という王の命令にもかかわらず、
けっしてハマンにひざまずこうとしないユダヤ人モルデカイの態度に
業を煮やしていました。そこで王の許可を得て、このような法令を
王の指輪の印を押して発布します。第1の月の13日のことでした。
ペルシャ帝国内のすべてのユダヤ人が11ヵ月後に殺されることになりました。
モルデカイ憎しが全ユダヤ人殺害の法令になりました。
シュシャンの町は混乱に陥りましたが、王宮にいるアハシュエロス王も
王妃エステルもそのことを知りませんでした。けれどもユダヤ人であるエステルも
また例外ではありませんでした。
かつて悪魔の化身であった蛇がアダムとエバを誘惑したことにより、
人は死ぬものとなりました(創世記3:19)。同じように、
王の印を預かって死の力を持つハマンによってユダヤ人は死に定められたのです。
モルデカイからこのことを知らされた王妃エステルは、この事態を打開しようと
決死の行動に出ます。
ある日、アハシュエロス王とハマンは、王妃エステルが主催する酒宴に招かれました。
その席で王妃エステルがアハシュエロス王に直訴します。
「もしも王様のお許しが得られ、
私の願いを聞き入れて、私にいのちを与え、
・・・私の民族にもいのちを与えてください。私も私の民族も、売られて、
根絶やしにされ、殺害され、滅ぼされることになっています。」
(エステル7:3,4) 美しい王妃の口から、穏やかでないことが語られました。
アハシュエロス王は尋ねます。
「そんなことをあえてしようとたくらんでいる者は、
いったいだれか。」(7:5) エステルが答えます。
「その敵は、この悪いハマンです。」(7:6)
ハマンはアハシュエロス王に大抜擢され、大臣となり、
王の印を預かるまでに信任を得ていました。しかし、
このように王妃エステルに私怨による陰謀を暴かれ、そして10節で、
殺され、柱にかけられてしまいます(7:10)。
かつて、エバを誘惑して、人に神に背く罪を犯させた蛇に対し、神様は
「彼(イエス様)
は、おまえ(悪魔)
の頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
(創世記3:15)と語りました。つまり悪魔はイエス様を十字架につけて
勝利したかに思えたそのことによって、悪魔の永遠のさばきが決定的になると、
宣言なさったのです。イエス様の十字架の死は、
悪魔という死の力を持つものの滅びを決定づけました(ヘブル2:14)。
同じように、ユダヤ人に死をもたらす策略をしたハマンは滅びました。
さあ、これで安心でしょう。いいえ、12月の13日が来れば、
すべてのユダヤ人を死が襲うという法令は生きたままです。
同じように十字架で悪魔の滅びは決定づけられても、
すべての人が死の支配の下に置かれていることは変わりません。
この死そのものについても、解決がなければなりません。
ペルシャ帝国の法令は、近隣諸国も知る非常に明快な特徴がありました。
それは一度発布されてしまうと王様といえどもこれを取り消すことができない、
ということです(1:19、8:8)。ダニエル書の記事のほうがわかりやすいので
引用しましょう。「それで、この大臣と太守たちは
申し合わせて王のもとに来てこう言った。「ダリヨス王。永遠に生きられますように。
国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し
、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、
あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、
獅子の穴に投げ込まれると。王よ。今、その禁令を制定し、
変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディアと
ペルシャの法律のようにしてください。」」(ダニエル6:7〜9)
バビロニア帝国での出来事ですが、隣国ペルシャの法令が引き合いに出されています。それほどペルシャの法令は取り消しができないものとして知られていました。
死もまた同じです。
人は「死」という事実に対して知恵を絞ってきました。仏教は「諦念」といって、
誰でも行く道だから、死を素直に受け入れなさい、そこから
生き方についての考え方がスタートするのです、と教えます。
医学の進歩によってずいぶんと寿命が延びました。植物状態になっても
器械によっていのちを延ばすことができます。生命保険も整備され、
残された者が少しでも困らないようにと備えておくことができるようになりました。
今では生前に見晴らしのよいところに
りっぱなお墓を用意しておられる方もいらっしゃいます。しかしながら、死ぬ、
と言う事実がなくなるとは誰も考えません。人の努力によっては、
死を取り去ることはできません。それは神様に背いた罪の結果ですから、
ペルシャ帝国の法令のように、取り消すことのできない定めなのです。
イエス様の救いを信じたクリスチャンは神様と和解をいただいたものです。
罪の赦しをいただいたのですから、罪の結果である死は取り消されて、
ずっと生き続けるようになったり、その時点でエノクやエリヤのように
天に生きたまま引き上げられてしまってもよさそうにも思えますが、
そうはいかないのでしょうか。そうはいかないのですね。例えば殺人をした人が
その後、後悔したからといって刑を免れることはできません。
罪の結果を刈り取らなければなりません。そうでなければ法は立ち行きませんし、
正義が貫かれることがなくなります。神様は正しい御方ですから、
罪は罪で刈り取らなければなりません。クリスチャンも死を免れることはできません。
それでは王妃エステルもすべてのユダヤ人も死を免れることができないのでしょうか。
悔悟した殺人者が助かるためには、新たに別の法律が必要です。
例えば国家の慶事のときに恩赦とか特赦とかが適用され救済されることがあります。
ハマンの法令を取り消すことができなければ、それに対抗でき、
さらにユダヤ人を救うことができる法令を発布すればよい、
とモルデカイは考えます。そしてアハシュエロス王の名前で書き、
王の指輪で印を押した新たな法令を作り、全国に送りました。
「そ(法令)の中で王は、どこの町にいるユダヤ人にも、自分たちのいのちを守るために集まって、彼らを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼすことを許した。」(8:11) つまりユダヤ人に敵意を抱いている者に対し先制攻撃をすることができる、というものでした。ただしこれも「第十二の月、すなわちアダルの月の十三日の一日のうちに行うようになってい」 (8:12)ました。
法令が発布されるとユダヤ人の立場は逆転しました。死の恐怖から解放され、
それは、ユダヤ人にとって、光と喜びと楽しみと栄誉になりました(8:13〜17)。
モルデカイがユダヤ人を死に定める法令を打ち消し、
かつユダヤ人を保護する法令を打ち出したように、イエス様の十字架の死は、
この肉体のいのちに勝る、永遠のいのちを約束することによって、私たちを
「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を
解放してくださ」(ヘブル2:15)っただけでなく、
さらに大きな喜びと希望に導きいれてくださったのです。
ここまでイエス様の十字架の死の2つの目的を
エステル記の記事からともに見てきました。ひとつは悪魔を滅ぼすためであり、
いまひとつは人々を死の恐怖から解放してくださるためでした。
エステル記の話はここで終わりにしたいのですが、エステル記の記事は続いています。
この話では蛇足になりますが、聖書を読む上で注意しなければならないことなので
触れておきたいと思います。
9章は十字架のひな形としてはまったく当てはまらない、
むしろ逆で、ユダヤ人が暴走してしまった記録です。聖書は真実を教える書物であって、
けっしてきれいごとでまとめることはありません。神の友といわれたアブラハムの失敗
(創世記12:13、20:2)も、神様がこよなく愛したダビデの失敗(Uサムエル11章)も
ちゃんと記されています。そしてここにユダヤ人の大きな過ちが
堂々と記録されているのです。ユダヤ人は神様の摂理により、
モルデカイの出した法令により、民族の滅亡を回避した後、単なる民族主義に走って、
ユダヤ人の敵を大量虐殺してしまいます(9:12,15,16)。モルデカイは
「自分たちのいのちを守り、
彼らの敵を除いて休みを得た」日として、12月の14,15日を、
プリムの日と定めます(9:27,28)。これは、神の律法から完全に逸脱した行為です。
12月の13日、その日が来てもユダヤ人は
モルデカイの出した法令によって守られているのですから、
一日を静かに過ごせばよかったのです。確かに今までどおり、
敵対する者はなお存在し続けるでしょうけれども、
人を殺めることはしなくて済んだはずです。神様が愛したダビデは
チャンスと思えるときであっても、サウル王を殺めることをしませんでした
(Tサムエル24:6、26:11)。
イエス様は「『目には目で、歯には歯で。』
と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。
悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、
左の頬も向けなさい。・・・『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』
と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、
わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、
迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:38〜44)と教えられました。
けれども現在のクリスチャンの一部には、当時のユダヤ人と同じように、
「やられたらやり返せ。やられる前にたたけ」という考えを持つ者がいて、
まったく神を語りながら、神様のみことばに耳を傾けない様子が見られます。
これは全世界的に民族主義が台頭してきているからといって
容認されていいということではありません。
神様のみこころに背くことであって、けっしてあってはならないことです。
もう一度ヘブル2:14,15に戻ります。イエス様が十字架の死によってまず第1に、
「悪魔という死の力を持つものを滅ぼし」ました。そしてそれだけでなく第2として
「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっている人々を解放してくださ」いました。
ところで、ここには「悪魔が「死の力を持つ者」と表現されていますが、
本当に悪魔は絶対的な主権を持って死の力を保有しているのだろうか、
と考えると、実はそれはかりそめのものであるということがわかると思います。
3つのことをお話したいと思います。
まず、人に対してどうでしょうか。ヨブをサタンが試みたとき、
「主はサタンに仰せられた。
「では、彼をお前の手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」」(ヨブ2:6)
とあります。アダムの罪のために、神様が
人の死を定められました。いのちの主権は神様にあります。
神様の許しがなければサタンは手も足も出ないのです。
次にイエス様についてはどうでしょうか。
「わたしが自分のいのちを再び得るために
自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
誰も、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。
わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。
私はこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17,18)
イエス様は十字架の上にそのいのちを奪われたかに見えますが、
実はそうではなく、あらかじめイエス様は神としての主権を持って
十字架の上にいのちを捨て、またよみがえることを語っておられるのです。
イエス様の死に、悪魔は少しの関与も認められていないのです。
そして3つめ。イエス様を信じる者についてです。
「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、
死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、
みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。
おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、
私たちに勝利を与えてくださいました。」(Tコリント15:54〜57)
ここには、このからだは、先ほどもお話しましたように、
アダムから受け継ぐ罪の結果として滅びても、やがて与えられる朽ちないからだ、
イエス様の復活した後のあのようなからだを、私たちは持つことが約束されています。
死という強力な力に対して、さらにそれをはるかに上回る永遠のいのち、
朽ちないからだをイエス様はその死によって備えてくださったのです。
この確信により、私たちは、イエス様の死の2つめの効力、「死の恐怖からの解放」
(2:15)を得ているのです。
みことばによって、十字架の力を知り、みことばの約束に従って
信仰の歩みをスタートされるようにお勧めします。