創世記から出エジプト記に入り、ヨセフからいきなりモーセに飛んでしまった感じがしていると思いますので、
その間を埋める意味で、イスラエルの12部族について先に書いてみたいと思います。アロンとモーセは、
レビから見ると曾孫ということになります。このレビはヨセフと兄弟で、ヤコブの子どもになります。
ヤコブの子どもたちの名前を改めて書いてみます。
4人奥さんがいましたので、それにしたがってまとめられています。
「ヤコブの子は十二人であった。レアの子はヤコブの長子
ルベン、シメオン、レビ、
ユダ、イッサカル、ゼブルン。
ラケルの子はヨセフ
とベニヤミン
。
ラケルの女奴隷ビルハの子は
ダンと
ナフタリ
レアの女奴隷ジルパの子はガド
とアシェル
。」(創世記35:23〜26)
さて、イスラエルは、モーセに率いられて、エジプトを出発し40年間荒野を旅して、約束の地カナンに入るまで、
20歳以上の男子だけで約60万人(民数記1:46)の大所帯が秩序正しく行動し、
また行く手をさえぎる敵と戦わなければなりませんでした。そこで神様は、ヤコブの子どもたちごとに部族を定め、
モーセやアロンを助けるものを選ばれました(民数記1:2〜16,17〜46)。
そして宿営するときには会見の天幕のまわりに部族ごとに宿営しました(2:2〜16,18〜31)から、その位置で、
その部族名をあげてみましょう。
宿営の東側は、ユダ族、イッサカル族
、ゼブルン族、
南側は、ルベン族、シメオン族
、ガド族、
西側は、エフライム族、マナセ族
、ベニヤミン族、
そして北側が、ダン族、
アシェル族、
ナフタリ族でした。
さて、ここで先の見たヤコブの子どもたちの名前と、部族の名前が一致しないことに気がつきませんか。
そう、レビとヨセフがなくて、
エフライム、マナセが入っているのです。
エフライムとマナセは
ヨセフの子どもですから、それが2つの部族になったということがわかりますが、まるでヤコブの子どもであるかのような扱いです。実は、事実ヤコブの子として
神様の祝福を受け継ぐようヤコブが宣言しているのです。「ヤコブは
ヨセフに言った。
「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、私に仰せられた。
『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、
またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』今、私がエジプトに来る前に、
エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。
エフライムと
マナセは
ルベンや
シメオンと同じように私の子にする。」
(創世記48:3〜5)
またそれだけでなく、長子としての権利もルベンから
ヨセフに移っています。後の歴史書である歴代史にはっきりと記されています。
「イスラエルの長子ルベン
の子孫・・彼は長子であったが、父の寝床を汚したことにより、
その長子の権利はイスラエルの子ヨセフ
の子に与えられた。」(1歴代5:1)神様は罪に対してきちっとなさる御方です。
長子の権利という祝福は罪によって取り去られました。思い出してください。
神様は人間を祝福しこれによってみこころを満足なさろうと創造されましたが、
アダムは罪を犯して神様からの祝福を失いました。「顔に汗を流して糧を得」
ることも、「土に返る(死)>」(創世記3:19)
>こともその結果として刈り取らなければならなくなりました。
ではレビ族はどうしてなくなったのでしょうか。
実はなくなってしまったのではなく、特別な働きに召し出されたのです。レビ
族の宿営は会見の天幕(幕屋)の回りでした。12部族はさらにその回りに宿営したのです。そして
レビ族が特別に与えられた働きとは、この会見の天幕に仕えることでした。
レビ族は戦いに出ることもなく、労働に携わることもありませんでした。
ただひたすら神様に仕える仕事をいたしました(民数記1:49〜53)。
その糧は、他のイスラエル人がささげるものから1/10がレビ人に与えられました
(民数記18:24)。これまでイスラエルの初子は神様のものとされていましたが、
このときからレビ人を神様はご自分のものと定められました
(民数記3:12〜13)。こういうわけで、イスラエルの12部族というときには、レビ
族は数のうちに入れられなかったのです。
カナンに入って、相続地の割り当てをしたとき(ヨシュア記14:1)も、レビ族
(アロンの子孫、ケハテ族、ゲルション族、メラリ族)は、相続地の割り当てはなく、
各部族から住むべき町と放牧地とを提供されました(ヨシュア記21:1〜7)。
人間は神様の栄光のために創造されたのですから、
私たちの生活のうちに神様にささげられた部分があるべきではないでしょうか。
このレビ族の奉仕については、
アロンに関連して改めて考えることができると思いますので、これだけにしておきます。
さて、黙示録7:5〜8にも、イスラエルの12部族が登場します。ここでは、ユダ、
ルベン、ガド、アセル、ナフタリ、
マナセ、シメオン、レビ、イッサカル、ゼブルン、
ヨセフ、ベニヤミンとなっています。
マナセがあってダンがない、
あるいはレビがあってダンがない、
ということになります。ヨセフが
エフライムと同一と考えれば、問題はダンがないことです。
どうしてでしょうか。
ダンの歴史を調べるとそれがわかるように思います。一言で言うと、
偶像を持ち込んでいるということです。その第一は、「さて、
ダン族は自分たちのために彫像を立てた。
・・・こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てた。」
(士師記<18:30,31)町を立てたその最初のときからダン族は
像を持ち込んでしまったのです。そしてその第2は、ダビデ王の次のソロモン王の次の時代にイスラエルの国は
国のイスラエルと南王国のユダに分断いたしました。南に礼拝の中心になるエルサレムがありましたので、
北王国イスラエルの王ヤロブアムは国民が国境を超えてエルサレムに行かなくてもよいように偶像を作って
民を掌握しようといたしました。その偶像のひとつがダンに置かれました。「
そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。
イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」それから、
彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。このことは罪となった。
民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。それから、彼は高き所の宮を建て、
レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。
(1列王記12:29〜31)
モーセの十戒の第は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エ20:3)です。
第2は、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。・・・それらを拝んではならない。
それらに仕えてはならない。」(出エ20:4)です。神様はイスラエルに10の戒めを与えましたが、
その最初に、このように戒められました。
日本人はこの点においてまったく鈍感な民族です。クリスマスに教会に行ってキリストの誕生を祝い、
大晦日にお寺に行って除夜の鐘を聞き、初詣といって神社に行って一年の無事を祈ります。
わずか一週間の間に何の疑問も持たずに行うことができるのです。しかしまことの神様は、自ら「ねたむ神」
(出エ20:5)といっておられるように、それを赦すことができません。
奥さんがどんな理由があろうと他の男と姦淫することを喜ぶ夫がいようはずがありません。
愛しているならば当然のことです。神様は愛を注いだ人間がいとも簡単に偶像に仕える姿を赦すことができません。
ですから戒めの最初にそのことを主張されました。けれども、にもかかわらず、ダン
はイスラエルに2度も偶像を持ち込んだのです。
ですから患難時代に悔い改めたイスラエルが尊いキリストの福音を伝える働きをするときに、
それを担うことを許されないのではないでしょうか。
ユダ族についてもふれておきましょう。その前に創世記49章を見てみましょう。
そこにはヤコブが息を引き取る前に、12人の子どもたちを祝福したことばが記されています。
そしてそのことばは実にそれぞれの子どもたちとその子孫のことを預言していることがよくわかります。
ルベンは罪を犯して長子の権利を失い(49:3〜4)、
ヨセフが代わって絶大な祝福を受けています(49:23〜26)。
ダンは褒められていません(49:16〜18)。
そしてユダですが、「王権はユダを離れず」
(49:8〜12)と語られているのです。事実ダビデの時代から王が世襲されていくのです。
イエス様の系図(マタイ1:1〜17)については以前お話いたしました。
それはアブラハムとダビデの子孫からイスラエルの救い主、王が生まれるという約束を証明するためのものでした。
そこではヤコブの次に記されているのは長子であるルベンでもなく、
長子の権利を得たヨセフでもありません。
ユダなのです。王の王であるイエス様は
ユダの子孫として誕生いたしました。
預言者サムエルの時代にイスラエルは他国が王によって治められている様子を見て、
イスラエルにも王がほしいと神様に求めました(1サムエル8:4〜6)。
イスラエルはそれまで言うなれば神政政治の国で、預言者やさばきつかさ(士師)によって導かれていました。
神様はこの求めに応じて王を立てることを許されました(1サムエル8:7〜22)。
こうして与えられたのがサウル王でした(1サムエル9章)。
けれどもこのサウル王はベニヤミン族でした
(1サムエル9:1,21)。王の血統としてヤコブが語ったユダ族ではありませんでした。
やがてこのサウル王はその子ヨナタンとともにペリシテ人との戦いで死にます。
神様のみこころにそって、その前に王が立てられます。それがダビデ王です。
あの系図によって証明されるように、ダビデはユダの子孫です。
初めから神様はダビデをイスラエルの王として立てられる計画であったのです。そしてこのダビデの末から王の王、
イエス様が誕生します。ユダヤ人(イスラエル人)の王としておいでになりましたが、
ユダヤ人に拒まれたイエス様は、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」(ヨハネ19:19)
という罪状書きをつけた十字架に釘付けにされました。このイエスさまは今度地上においでになるときには、
いよいよ王の王としてこの地上を千年間支配なさいます(黙示録19:16、20:4、6)。遠大な神様のご計画です。
イスラエルの歴史に登場する部族としての際立った特徴は、以上のようなことであると思います。
ちなみに個人的には使徒パウロはベニヤミン族の出身です
(ローマ11:1、ピリピ3:5)。彼自身がそのように語っています。
イエス様の系図にしてもパウロ自身の証言にしても、イスラエル人は系図に強い関心を持っていたことがわかります。
部族のことを調べることによって神様の御性質が垣間見ることができたように思います。
ヨセフのように神様の祝福を受けることができるように、
人生を歩むことができたらさいわいだと思います。